いつだったか、国際結婚や国際恋愛をテーマにした掲示板で、ブラジルの男性が、「家族の猛反対を受けて、勘当寸前です」と訴えている女の子に対して、
「日本の家族は冷たすぎる。家族というのは、外の世界でどんな辛い事があっても、最後まで温かく迎えてくれる場所のはず」
というレスポンスをされていた。
私も、まったく同感だ。
家族というのは、この世で唯一安心して暮らせる場所ではないのか。
たとえ親子であろうと、 「こうするべき」「ああするべき」という態度があるなら、そこに本物の愛は無いような気がする。
パートナーも同様だ。
何のためにパートナーになるかといえば、他の人からは得られない愛情や信頼を共有する為だろう。
極端な話、相手が、殺そうが、盗もうが、自分だけは信じて受け止める、それぐらいの覚悟というか度量が無ければ、本当に愛しているとはいえない。
だからこそ、愛は尊いし、心地よいのである。
女性はどうしても「愛する=世話を焼く」と勘違いしがちだ。
それが女性のやり方であり、本能なのだが、それも度を過ぎると、愛という名のエゴイズムに取って替わる。
相手を滅ぼし、追いつめる愛は、たいがい自己愛だ。
そこに相手を思いやる気持ちはない。
真実、愛するのが難しいのは、私たちが自己愛の上に成り立っているからだろう。
私たちは、まず自分自身を愛することでしか、他人を受け入れることができない。
健全な自己愛は、人を輝かせ、成長させる。
そして、その上に、相手への思いやり、優しさが芽生える。
健全な自己愛は、絶えず自己の中心から外側に向かうものだ。
自己を満たすために、他を引き込んだりしない。
自分で自分を満たせない時、自己愛が欲求に変わる。
相手に満たしてもらおうとうする。
自己愛と欲求は表裏一体だ。
バランスが崩れた時、自己愛は醜悪な姿を晒す。
かといって、普通の人間が、いつもいつも絶妙なバランスを保っていられるものではない。
弱い時、苦しい時、どうしたって、私たちは自分自身に傾く。
その中で、バランスを保つ努力を続けることが、愛するということなのだろう。
非常によく言われることだが、『愛を育てるのには時間がかかる』。
これは紛れもない真実と思う。
それもただ揺りかごに寝かせておけば健康に育つというわけではなく、二人の世界で転けたり、傷ついたり、ぶつかったりしながら、次第に学びを得て、育っていくものだと思う。
作詞家の秋元康さんもこんな事を書いていた。
『女の人は恋を過保護にしがち。赤い糸は、決して切れない。振り回そうが、引っ張ろうが、決して切れないから運命の糸という。ならば、思い切りぶんぶん振り回してみてはどうか。それでプッツリ切れてしまうようなら、それは運命の糸ではなかったというだけの話である』
恐れや不安は自分を守るだけで、愛を育てはしない。
その場その場は無事にしのげても、愛は止まったまま、それ以上、大きくなることも、深くなることもないだろう。
むろん、育てる作業には、多くの苦しみを伴う。
逃げたくなる時だってある。
けれど、一つの節目を乗り越えて、二人の関係が前にも増して確かなものになっているのに気付いた時、それらの苦しみは報われてあまりある。
流した涙の数だけ、明日がまぶしく見えるだろう。
愛が欲しいと、皆が言う。
だけど、その為に努力することを心に決めている人は、ほとんど無い。
甘い果実を味わいたければ、必死に畑を耕すことだ。
そして、愛のために努力することは、この上ない幸せに通じているのである。
初稿: 2002年4月25日