人は「時を見る」ことなどできない。見ることができるのは、「時計」なのである。
当たり前のことだが、私たちは『時間』そのものを感じることはない。
夕陽が傾いたり、お芝居が終ったり、カレンダーを一枚めくった時、初めて、時の長さを実感する。
その際、私たちが目にしているのは、夕陽であり、芝居であり、カレンダーだ。
いわば、「形あるもの」を通して、『時』というものを実感するのである。
だが、それも、個々によって認識の仕方は変わる。
ある人は、「もう一日が終わるのか」と淋しく感じ、ある人は、「やれやれ、やっと一日が終わった」と安堵する。
お芝居が終って、ほっとする人もあれば、「もっと、もっと」とアンコールを期待する人もあるだろう。
そう考えると、『時間』も絶対的なものではなく、人間が作り出した定義の一つでしかないことが分かる。
私たちが「時間」と思って見ているのは、『時間そのもの』ではなく、「時計」という形象なのだ。
そう考えると、私たちを取り巻く世界――私たち自身でさえ、絶対な存在ではなく、容姿、肩書き、実績、収入、様々な形を通して見ている「何か」ということが分かる。
そこにはさらに「退屈」「楽しい」「虚しい」「わびしい」といった感情が絡んで、万人に平等のはずの「時計」でさえ、何やら物悲しいものに見えたりする。
とすると、全てのものは曖昧で、自分中心に回っていると言えなくもない。
私たちが見ているのは、「世界」ではなく、自分の感情だけだと。
世の中には、「愛とはこういうもの」「社会とはこういうもの」という様々な定義が存在するが、果たして、どこまでが感情で、どこからが実体なのか。
他人の作った定義に振り回されるようにして生きている。
時計という定義に囚われず、自分の中で静かに時の流れを感じる時、人は初めて世界と一つになれるのではないだろうか。