短編『沈める寺』
一人の男が、湖のほとりにたたずんでいた。
彼は、ひと月ほど前から、湖の近くのホテルに滞在していた。そして、夕暮れになると、こうして湖のほとりに立ち、何時までも動かぬ水面をじっと見つめているのだった。
彼が何者で、何のために湖を見つめ続けているのか、知る者は一人としてなかった。
だが、同じホテルの客の一人が、彼のことを知っていた。客は笑いながら言ったものだ。
「あの男なら、ずいぶん前に楽壇を賑わせた音楽家だよ。当時は、誰もが彼の音楽を誉め讃え、もてはやし、こぞって演奏したものさ。彼は、自分が神に選ばれた人間で、偉大な音楽家の仲間入りを果たしたものとのぼせ上がっていたよ。しかし、自惚れが過ぎたんだろうね。彼の音楽からはとんと霊感がなくなってしまった。今じゃ誰一人、彼の音楽には見向きもしない。天罰でも食らったように、あっという間に落ちぶれて、今頃どこで何をしているかと思ったら、こんな所で湖とにらめっことはね……」
ある夕暮れのことだ。
にわかに黒い雲が広がり、強い風を吹きつけてきた。鏡のような水面は、どす黒く濁り、ささくれたよう波立った。
湖のほとりにいた人々は、追い散らされるように足早に去り、後にはひゅうひゅうと鳴く風の音だけが、辺りに寂しくこだましていた。
最後まで残っていたボート小屋の男も、ボートをすべて桟橋につなぎとめると、慌てて湖を後にした。だが、振り向けば、まだ水際に、男が一人残っているではないか。ボート小屋の男は、おーいと彼に呼びかけた。それは、いつも湖を見つめているあの音楽家だった。
「旦那、気でも違ったのかい。もうすぐ雨が降ろうっていうのに、まだこんなところに突っ立ってるなんて。よほどこの湖が気に入りかしらねえが、もう帰ったほうがいいですぜ。この辺りは、雨が降ると氷の中みてえに冷え込むんだ」
「……ええ」
音楽家は、まだ遠く水面の彼方を見つめながら答えた。
「一体、飽きもせず何を見てらっしゃるので?」
ボート小屋の男が怪訝そうに聞くと、音楽家は、澄んだ水色の瞳に淡い微笑みを浮かべて答えた。
「見ているのではない。待っているのだ。探し求める音が聞こえてくるのを」
「音だって?」
「君は知らないのかい? この湖にまつわる言い伝えを」
「ああ、あの話かね」ボート小屋の男は、声を立てて笑った。「それなら、子供のとき、じいさんに聞かされたことがあるよ。なんでも昔、ここには大層立派な寺院があったとか。ところが、坊主も信者も、金ピカの寺院の中で贅沢三昧。そのうち、神より偉いと思い上がったために、神の怒りにふれ、寺院もろとも湖の底に沈められたという……」
「そう、そして、沈められた寺院は、今もこの湖の底で己の罪を嘆き、詫び、天に向かって悔恨の鐘を鳴り響かせているのだという……」
「ひょっとして旦那は、その鐘の音が聞こえてくるのをじっと待ってらっしゃるので?!」
「そうだ。残念ながら、まだ聞こえてはこないがね」
ボート小屋の男は、ますます声を高くして笑った。
「旦那、そんなの作り話に決まってるじゃないですか。仮にだよ、本当にこの湖に寺院が沈んでいたとしても、鐘の音なんか聞こえてきやしませんよ。それこそ、そんな鐘の音を聞こうものなら、身も心も呪われて、旦那まで湖の底に沈められちまいますよ」
「……そう思うかね」
「いやいや、旦那は想像豊かな方だ。旦那が信じて待つというなら、あえてそのお楽しみをお邪魔はいたしませんよ。どうぞ、気の済むまで鐘の音を待ってらっしゃればいい。だがね、こんな天気の日まで、こんな所に突っ立ってちゃいけないよ。いっぺんに体を壊しちまいますぜ」
「ありがとう」
そうして、ボート小屋の男は、まだ水際にたたずむ音楽家を振り返りつつ、足早に去っていった。
風は、いっそう激しくなった。まるで、音楽家の両耳をもぎ取るかのように、強く強く。荒々しく鳴く風の音をかきわけるように、それでも彼は鐘の音を求めてやまなかった。
やがて、刺すように冷たい雨が、身体中を打ち始めた。彼は、身をすくませて、重く垂れこめた黒雲を仰ぎ、風の中に咆哮した。
「今こそ聞かせてくれ。私の耳に、この風のように、泣き叫ぶ鐘の音を。私は知っているぞ。この湖の底で、お前たちがどんな思いで鐘をうっているか。どれほど己の過ちを悔い、天に詫び、許しを乞おうとも、こたえてはもらえぬ惨めさに、お前たちは暗い湖の底をはいずり、のたうちながら、苦しみの鐘を打ち鳴らしているのだろう。だったら、私にも聞かせてもいいだろう。お前たちと同じ、愚かなこの男に、どす黒い泥のような音色を。胸にたまるような(胸にたまる泥のような音色を。)そうすれば、私は最後の力を振り絞って、それを旋律に変えてやろう。そして、非情な天に、お前たちの叫びをとくと聞かせてやるぞ」
彼の声は幾重にもこだまし、波立つ水面を駆けていった。
ただ、強い風の音が吹きつけるばかりで、彼の耳には、沈める寺の鐘の音も、そこに潜む者共の気配さえも、返っては来なかった。 風と雨の中で彼の身体は芯まで冷え切っていた。
空を覆い尽くす黒雲は、暗い夜の底に姿を消そうとしている。
明日の夜は、満月だ。言い伝えによると、満月の夜に、鐘の音はいっそう高く鳴り響くという。
もし、明日の夜までに、鐘の音が聞こえなかったら、何もかもあきらめて故郷に帰るとしよう……そして、私という音楽家が、ついに天に見放され、もう何の霊感も得ることができずに、人々から忘れ去られることになろうと、それもまた神のご意志だ……。
音楽家は、ため息をついて、歩き始めた。
そんな彼の後ろ姿を、追い立てるように、風は吹き続けた。
次の夜は、すばらしい満月夜だった。
闇を磨きあげたような水面に、黄金の光が深々と降りそそいでいる。辺りは、清らかな光に包まれ、風にそよぐ木々も、露にぬれた岩も、安らかな眠りにおちているようだった。
音楽家は、これが最後の夜と、言い知れぬ想いで、じっと水際に立ちつくしていた。
水面に浮かぶ月は、さざ波のように揺れながら、淡い光の粒をはじかせていた。音楽家の耳には、それが、ピアノの美しい高音となって、耳に響いた。
いつか、曲を書いたことがある。
凍てついた夜、一人歩いていた道を、月は優しい光で照らしてくれていた。その優しさを、美しさを、永遠に音の中に刻みつけたくて、夢中で書いた。月の光の曲を。
人々は、彼の創りあげた旋律の向こうに、闇を照らす美しい光を見、清んだ響きの中に魂を解き放ったものだ。
彼の音楽は、人々の心に美しい幻影を投げかける魔法だった。その幻影の中で、人々は心をくすませる涙も疲れもあらわれ、無邪気な夢に包まれたような安らぎを得たものだった。
音楽家は、胸に呼び覚まされる自らの旋律に、心をふるわせながら思った。
今なら、人々が、自分の音楽に何を求めていたかがわかる。何が人の心を動かしたのかも。
ああ、人々から与えられる栄誉や賛美は、なんと心を高ぶらせるものだろう。自らの栄光に酔いしれたとき、その胸の内にこんこんと湧きだしていた霊感の泉は、瞬く間に枯れてしまった。どれほど、自らの内に耳を澄ませても、あの美しい響きは、もう二度と聞こえてこなくなっってしまった……。
人々の非難と嘲笑から逃れるようにして、この湖に来た。沈める寺の言い伝えを知ったとき、もはやこの胸に音楽をよみがえらせてくれるものは、湖の底から聞こえるその鐘の音しかないと、思えたからだ。
だが、その鐘の音も、もう聞けそうにない。
湖は、夜の闇の中に、静かに横たわっているだけ。暗い湖の底にもがく人々の気配も覆い隠さんとするように、静かに、静かに。水面を渡る淋しげな風の音だけが、何時までも耳にまとい、くるくると回りを回っている。そして、水面に映る月の光は、そんな彼を哀れむように、音もなくさざめいていた。
もう、これまでだ……。音楽家は、深いため息をつき、後ずさるように水際を離れた。そして、魂の半分が、まだその水面につながれているかのような虚ろさで、来た道をゆっくりと戻り始めた。
鐘よ。
水面を揺らす幾重もの響きよ。
一度でいい。
応えて欲しかった。
たとえ、その音色が天には届かぬものであっても、この胸には痛いほどに響いてきたものを。
音楽家は、足を止めて、今一度振り返った。そして惜しむように、夜の底を照らすとうとうたる水面を見渡したとき、遠くの水際にたたずむ一人の老人の姿を見つけたのだった。
深々と降りそそぐ月の光の中で、老人もまた、何かを求めるように水面を見つめていた。
音楽家は、その姿に引かれるように、老人のほうへ足を向けた。そして、声をかけようとしたとき、老人はゆっくりと彼に向き直ったのだった。
老人は、星のような瞳をしていた。音楽家が、言葉に迷っていると、老人はにこやかに微笑んで見せた。
「一体、こんな所で、何をなさっているのです」
「なに、あまりに美しい満月なので、今夜あたりある音が聞こえてきやしないかと、耳を澄ませて待っているんですよ」
音楽家は、とっさに首を振って答えた。
「ああ、沈める寺の鐘の音ですね。無駄ですよ。いくら待ったって聞こえてきやしません。私など、もうひと月も前からここで待ってたんですよ。雨の日も、風の日もね。でも、無駄でした。寺などあるわけがないんです。こんなに静かな湖の底に……」
「それで、君はもうあきらめて帰ってしまうのかい?」
「ええ、この満月の夜を最後と決めていました。いつまで待っても仕方のないことですから」
老人は、悪戯っぽく笑って言った。
「では、この老人につき合うつもりで、もう少しここで待ってみないかね。こんなに美しい満月夜だよ。鐘の音が聞こえようと聞こえまいと、すぐに帰るには惜しい夜じゃないか」
「……ええ、いいでしょう」
すると、老人は、桟橋につながれていたボートを指さして言った。「あれを漕いで湖の真ん中まで行ってみようじゃないか。ここは木々のざわめきや風の音がうるさすぎる。これでは、せっかく湖の底から鐘の音が鳴り響いていても、とても聞き分けられないよ」
そう言うと、老人はさっさと桟橋のほうへ歩き始めた。音楽家は黙ってその後にしたがった。
揺れるボートに二人は乗り込んだ。
音楽家は、オールを手にゆっくりとボートを漕ぎ出した。そして、目を細めながら、うっとりと月夜に見入っている老人にたずねた。
「一体、あなたは何のために、鐘の音を求めていらっしゃるのですか?」
「私は建築家でね。建築中の建物に、どうしてもその鐘の音が必要なのだよ」
「それは、どんな建物なのです?」
「聖堂だよ」
「聖堂……ああ、それなら鐘楼は必要ですからね」
「それは、キリストを讃え、故郷の人々の幸福と平和を願う聖堂なのだ。私は、この聖堂に、12本の鐘楼を造ろうと考えている。その一つ一つに、さまざまな音色の鐘をつけるのだ。朝に夕に、祈る人々の上に、神の祝福が降りそそぐように。愛する故郷が清んだ美しい鐘の音に満たされ、その響きで人々が幸福と安らぎを得られることが、私の望みだ。……私は、様々な書物をひもとき、高名な学者の教えに耳を傾け、それにふさわしい鐘の音を探し求めてきた。だが、求める音に巡り会えずにいた。そんなとき、この湖の沈める寺の鐘話を聞いてね、いてもたってもいられなくなって、やってきたというわけだ」
「……あなたがなさろうとされていることは、わかるような気がします。私もかつてはそうだった。あなたのように、純粋に、人の心に響く美しい音色を創ろうとしていましたよ」
「君は何を?」
「音楽家……今は落ちぶれた……いや、神に見放された哀れな人間です」
彼は苦しそうに顔をゆがめた。水面を打つオールの音が、力なく響いていた。
「だが、この湖の沈める寺の鐘の音は、あなたの聖堂にはふさわしくないと思います。人に、祝福や安らぎを与える鐘の音色は、神の怒りにふれた寺院からは、聞こえてやきませんよ」
そして、無言で向かい合ったまま、ボートを漕ぎ進めていくうちに、老人がふと言った。
「ここらでいいだろう。ごらん、月が私たちの真上に……」
音楽家は、はっと手を止めて、夜空を仰ぎ見た。
「ああ、本当だ。なんて美しい」
辺りは、息を潜めたように静かだった。月は、二人の頭上にまろやかな光を放ち、底知れぬ夜の闇を美しく彩っていた。その優しさと清らかさは、あの夜のものと同じだった。音楽家は、我知らずつぶやいた。
「私は、ずっと前にこんな月の光を曲に書いたことがありますよ。ええ、あの夜は急いで家に帰ると、すぐにピアノの前に座って、五線譜に音符を書きこんだものでしたよ。その胸の中の響きが消え失せないうちに、音にしなけりゃと夢中でしたよ。私の目に、世界はいつも美しかった。全身が一つの楽器になったように、内側から音が次々にあふれ出してくるのです。それが、ひとつの旋律となり、人の心に響いたとき、私はどれほど幸福だったかしれない」
「もう、聞こえてこないのですか」
「ええ、どれほど耳を澄ませてもね」
「……今も」
「今は、この光の美しさが、身にしみるばかりです。神は、もう二度と、私に美しい響きをくださらない……」
さやさやとそよぐ風の中に、彼の言葉はちぎれて切れた。彼は、こみあげるものに耐え切れなくなったように、嗚咽をもらし、両手で頭を抱えこんだ。彼は、子供のように泣きだした。何をも恥じらうことなく。
老人は、優しい声で言った。
「なぜ、沈める寺は、鐘を鳴らすことをやめないのでしょうね」
「……神の許しを乞うためにです。許されたい、救われたいと、己の罪を嘆き悲しんでいるからです」
「そうでしょうか。沈める寺は、己の過ちを認め、罰を受け入れ、真心から悔いている。だからこそ、天に向かって鐘を鳴らし続けているのではないでしょうか。私には、沈める寺の鐘の音色は、澄んだ水の音に聞こえる。沈める寺は、その苦しみも悲しみも、鐘の音にたくしながら、泥にまみれた魂を洗い流しているのではないでしょうか」
「だが、その音は天にまだ届かない。永遠に湖の底で苦しみの鐘を打ち続けているのです」
「では、鐘の音を聞いてみましょう。あなたの言うように、それが苦しみの音色かどうかを」
そう言って、老人は両眼を閉じ、耳を澄ませるのだった。音楽家は、息を潜めた。だが、底知れぬ闇の中には、耳がつんとするような静寂が広がるだけだ。だが、老人は、降りそそぐ月の光の中に、りんとして耳を澄ませている。戸惑い、動じる音楽家もまた、老人に倣って目を閉じることにした。
すると、どうだろう。
荘厳な響きが幾重にも重なりながら、波のように押し寄せてくるではないか。それは、夜闇を照らすあの月の光のように優しく、水晶のように清んだ美しい響きだった。それは、まるで砂にしむ清水のように、心をうるおしていく。この奥底にたまるどろどろとしたものを、あらいながしながら。
「どうだね、このすばらしい響きは。それでもまだ君は、これが苦しみの鐘に聞こえるかね」
音楽家は叫んだ。
「いいえ、いいえ、この一点の曇もない響き、これが沈める寺の鐘の音とは……」
「沈める寺は、すでに許されているのだよ。己の過ちに気づいたときにね」
「……すでに、許されている」
音楽家は、何度となく胸の中で呟いた。そして、もう一度目を閉じて耳を澄ませた。
あれほど求めても聞こえなかった鐘の音が、今は、はっきりと耳に響いてくるではないか。そして、その響きは、少しずつ、美しいピアの音色に変わり始めていた。
「ああ、このような音が聞けるとは思いもしませんでした。あなたのおかげです」
音楽家は驚喜した。
「何を? 私は何もしていないよ。君の心が、その響きをわかるようになっただけだよ」
「私は、この沈める寺の鐘の音を、終生忘れないでしょう。ええ、いつかきっと、この響きを美しい音楽にしてみせます」
「……私もだ。これで、聖堂の鐘の音色が決まったよ」
老人も、満足気に言った。
音楽家は、満面の笑みを浮かべた。
「私の創る音楽と、あなたの創る鐘の音が、いつまでも人々の胸に響く美しいものであらんことを祈りましょう」
そして、月日が流れ、音楽家はある町を訪ねた。
町には、天に向かって高らかにそびえ立つ、建築中の聖堂があった。
音楽家が、老人を訪ねたときには、老人はもうこの世にはなかった。そして、町に、鐘の音はまだ響かずにいる。
だが、彼には、そびえ立つ鐘楼から、風に運ばれ町を優しく包み込む美しい鐘の響きがはっきりと聞こえてくるのだった。いつか、湖で聞いた、あの鐘の音のように清んだ響きが。
音楽家は、老人の墓の前にひざまづき、持参したテープをかけて聞かせた。
スピーカーから流れ出る音楽は、彼が故郷に帰りついてから一気に書き上げたものだった。その水と光が戯れるような美しい旋律と幾重にも押し寄せる厳かな響きは、あの夜彼の心を打った鐘の音色そのものだった。
彼は、眠る建築家にそっと語りかけた。
「今、この曲は、人々に大変愛されています。天におわす、あなたの魂にも響かんことを祈ります。私の“沈める寺”が」
FIN
アントニオ・ガウディとドビュッシーに捧げる