現代において「詩を書く」という行為はかなり恥ずかしいものだ。
たとえば、ネットには「青臭い理想を述べること」、いわゆる「頭がお花畑」な言動に対し、「ポエム」と揶揄するスラングがある。
「戦争の危機は話し合いで乗り越えられる」
「努力すれば報われる」
「愛が全ての問題を解決する」
善意や根性だけでは乗り越えられぬ問題も多々存在するのに、まるで小学校の学級目標みたいな理想をとうとうと述べることを小馬鹿にする言葉だ。
その意味はさらに拡張され、頑張ることや、感傷にひたることを「バッカじゃないの」と貶める用語としても使われている。
今の時代、詩的であることは、夢見る夢子さんの寝言か、現実に適応できないメンヘラの呟きとみなされ、強弁がまかり通る世界から排除されつつある。
恋情や哀愁や祈りやユーモアなど、シンプルな言葉の向こうに二重三重の意味が込められた詩的な存在は、実生活において何の役にも立たない暇人の戯言のように無視され、肩身の狭い思いをしているのが現状だ。
だが、実用的で、現実に即したものだけを良しとするなら、なぜ「泣ける映画」に観客が殺到するのか。大活躍したアスリートに「感動をありがとう」と感謝するのか。結局、心の底では、美しいものや正しいことを求めているからだろう。
それが人間だと宣言するのは、それほどに気恥ずかしいことだろうか。
原始人にも、山の美しさや太陽の偉大さを称える気持ちはあっただろうし、それゆえに言葉も発達してきた。単純にメッセージを伝えるだけでなく、より美しく、より巧みに、表現する技も磨かれてきたのだ。
詩こそ心の原点であり、拠り所である。
そこでは恥ずかしい気持ちも悲しいことも、すべて芸術である。
ちなみに『書を捨てよ 町に出よう(角川文庫)』には「ハイティーン詩集傑作選」というコーナーがある。文字通り、当時のハイティーンから送られた秀逸な詩を紹介する企画だ。 それ以外にも、自身のエッセーや評論の中に、若者から受け取った手紙や詩の一部を取り入れることが多い。寺山修司の元には全国から何千、何万の便りが送られ、それらに目を通すのを心底楽しんでいたのだろう。
ハイティーン詩集傑作選もみずみずしい筆致で綴られた可愛い作品ばかりだ。
「寺山修司なら読んでくれる」。そんな信頼も感じられる。
だから、みな「ポエム」などと自嘲したりしない。
自分の言葉を大事にする者は、相手の言葉も大事にできる。
幼い詩人に必要なのは、詩を批評する先生ではなく、その詩情を受け止めてくれる優しい大人だろう。
つきよのうみに
つきよのうみに
いちまいの
てがみをながして
やりましたつきのひかりに
てらされて
てがみはあおくなるでしょうひとがさかなと
よぶものは
みんなだれかの
てがみです
海に手紙を流した女の子のことをずっと考えていた。
恋してるのか、願いがあるのか、そこには誰にも打ち明けられぬ想いが切々と綴られている。
それでも誰かに伝えたい。
誰か――というのは、この世の人でなくてもいい。
海のように優しく、魚のように自由なら、この想いを受け止めて、天の涯まで運んでくれるだろう。
願っても、願っても、叶えられない夢がある。
私たちはみな、海辺に立ち尽くす女の子。
それでも願わずにいない。
いつか、本当に大切な人のところに、この想いが届くよう。
*
詩の方で、詩人から離れてしまうことがある。
あまりに現実の重さの方がまさって、あるいは日々生き延びるのに忙しくて、夢見る余地もなくなってしまうのだ。
一編の詩を書くより、教育の大切さを唱えたり、政府の不正を訴えたり、仕事のやり方を見直したり。
もう一度、その頃を真似て詩を書こうとしても、もはやそれは同じものではなく、どこか作り物のようにぎこちない響きがある。
だから、大人になってからも詩を書き続ける人は凄い。それが年々進化するのは驚異的だ。
詩情は一瞬のもので、思い付いた瞬間、言葉にしなければ、鳥のように飛び去ってしまうからだ。
若い人は詩情豊かでもあるにもかかわらず、照れくさがって書こうとしないけれど、そんな風に感じるのも一瞬なら、その詩を書けるのも一瞬だ。
もう一度、その詩情を呼び戻そうとしても、二度と戻ってこない。
後から読み返してこっぱずかしい思いをしようと、一言一言が、その一瞬を生きた証だ。
言葉にすれば、その瞬間は永遠になる。
だから、書こう。
その一瞬が過ぎ去る前に。
いつかその価値が分かる日が来るから。
初稿:2017年4月30日