『人生処方詩集』の冒頭で、寺山修司は詩が役に立たないものとして無視されてきた歴史を指摘する。対照的に「役立つ詩」「食える詩」が自己啓発だ。人間の本質を無視した理想一点張りの人生論はかえって人を不幸にする。文学は人間のありのままを描く芸術である。文学と自己啓発の違いについて考察するコラムを掲載しています。
文学と自己啓発の違い
寺山修司の『人生処方詩集』
寺山修司の著作『人生処方詩集』にはこんな前書きがある。
ケストナーの名著『人生処方詩集(岩波文庫)』にあやかった文芸コラムだ。(一部、省略しています)
エーリッヒ・ケストナーに『抒情的人生処方詩集』というのがある。
本のカヴァーには、「あなたの心の痛みをいやす最新療法をごぞんじですか」という魅力的な惹句が書いてある。
『往ってしまいたい さりとて隠れる場所もない
自分を葬る以外に途はない
どっちを見ても 黒い斑点が浮かんでくる
ひとは死にたくなる さもなくば休暇がほしくなるもうじきこの憂鬱が消えることはわかっている
来るたびにいつも消えた
下りたと思うと こんどは上るのだ
霊魂がまた扱いやすくなる一人はうなずいて言う「それが人生だ」と
もう一人は頭を揺すぶって泣く
世界は円い それにくらべるとおれたちはスラリとしているそんなことが慰めになるのか?
そんな意味ではないのだ』こんな詩を読んで慰むことができるような悩みなど、本当は病気というほどのものではあるまい。
大体、生きることに自信を失いかけている者に「世界は円い。それにくらべるとおれたちはスラリとしている」という薬剤の処方をするドクトル・ケストナーはひどい食わせ物なのではないだろうか?
≪中略≫
家具つき貸間住まいのやるせない寂しさに苦しむ者や、つめたい、湿っぽい、灰白色の秋の夜に悩む者は何を飲んだらいいのか?
居ても立ってもいられない嫉妬におそわれた者は、どんな処方に拠ったらいいのか?世の中が厭になった者は何でうがいをすればいいのか?
結婚生活に破綻を生じた者にとって、なまぬるい罨法が何の役に立つのか?電気布団でどうしろというのか?
淋しさとか、失望とか、そういう心の悩みをやわらげるには、ほかの薬剤が必要である。
≪中略≫
「詩を作るより、田を作れ」という思想は、根本的には政治主義に根ざしたものである。
それは「役に立つ」ということを第一義に考えた処世訓であって、「詩なんかなくても生きることはできるが、田がなければ生きることはできない。
だから、どうせやるなら自他ともに役立つところの、田を作る方に打ち込むべきだ」といったほどの意味である。
勿論、ここでいわれる「田を作る」ということは比ゆであって、「目に見えた効果、社会的に有効な仕事」といったことを指しているのであろう。
詩はアリストテレスの時代から、なければなくて済む、役に立たないものとしての道を歩んできた。
それはあくまでも個人的な世界であって、夢の軌跡なのであった。
≪中略≫
まがりなりにも「役立つ詩」「食える詩」を書いて社会に奉仕しようとしてきた詩人たちは軽蔑され、「役立たない詩」「食えない詩」を守りつづけてきた詩人たちは、無用の人としての扱いを受けた。
ケストナーの「世の中が厭になった者は何でうがいをしたらいいのか?」という問いかけは、どんな歴史家の実行力も、心の問題にまで力をおよぼすことができないとき、詩人の「その人たちの夢を、より深く見る心」が「役に立つ」のではないか、という反問を含んでいるように思えるのである。
自己啓発の弊害
90年代から始まった癒やしブーム
90年代、氷河期に入った頃から、本屋でも、メディアでも、『癒やし系』という言葉が目立つようになった。
80年代、沸きに沸いたバブル経済が崩壊し、景気が冷え込むばかりか、リストラと就職難で若者の労働環境も一転。
遊び人の大学生でも、エントリーを出せば、メーカーでも、アパレルでも、よりどりみどりで正社員として就職できた時代は過ぎ去り、80年代の明るい展望も勢いも根こそぎ失われてしまった。
そんな中、絶望する若者の心を鷲掴みにしたのが『癒やし系』と言われるコンテンツだ。
「そのままのあなたでいい」
「ゆっくり生きよう」
「小さな幸せを大切にしよう」
バブル時代には、「ネクラ」「マルビ(貧乏の隠語)」と揶揄されたような価値観が救世主のように持てはやされ、癒やし系エッセー癒やしのグッズに心の弱った若者が群がった。
それはそれで有意義だったが、一方で、心の弱った若者を食い物にする癒やし系ビジネスも台頭し、怪しげなパワーストーンを売りつけたり、布教活動を始めたり。
サロンの主催者は教祖のように崇められ、すっかり洗脳された人が、自分の知り合いを引き込んで、マルチ商法を展開する。
またそれを企業も黙認し、問題視するどころか、教祖の人気に乗っかって、本やグッズのマーケティングに協力したり。
結局は、金、金、金。
本来の癒やしと人間回帰の精神もどこへやら。
悪質な癒やし系ビジネスは現在も続いている。(SNSを通して、いっそう活発化)
前向きなことしか言わない自己啓発
癒やし系の中でも、ひときわ目立つのが自己啓発本だ。
人生論から起業論まで、内容も様々だが、全てに共通してるのは、「前向きなことしか言わない」である。
『啓発(人々の気がつかないような物事について教えわからせること・大辞林4.0より)』なのだから、前向きなアドバイスが多いのは当然だが、しかし、人間とは、それほど前向きでなければならないものだろうか。
自己啓発では、怒りや憎しみ、絶望や妬みといった負の感情を否定するが、それもまた人間の真実である。
誰かに憎しみを抱いているからといって、悪人というわけではないし、落ち込んでいる全ての人が無能なわけでもない。
多くの人は、そうしたネガティブな部分と折り合いをつけながら、より良い人生を目指しており、ネクラであることや無能であることに、それほど罪悪感を抱くことはない。
ところが、自己啓発は、ネガティブな部分を否定し、「そんな自分じゃ駄目だ」と罪悪感を植え付けるところから始まる。
「理想の私」「理想の生き方」「理想の恋愛」「理想の仕事」
全てにおいて、理想的であることが良しとされ、ネガティブな部分を捻じ曲げてでも、理想の形に近づけようとする。
例えるなら、足の曲がったカエルに、「そんな曲がった足では駄目だ。真っ直ぐに歩くべきだ」と罪悪感を植え付け、無理矢理にでも足を伸ばそうとするようなものである。
それなら、キリスト教や仏教のような既存の宗教も同じと思うかもしれない。
だが、既存の宗教と自己啓発の決定的に異なる点は、前者が「人間とは108の煩悩を抱えた弱きもの」「人はみな罪深い」と人間の本性を理解した上で「正しく生きよう」と説いているのに対し、自己啓発は人間の本性を無視して、理想だけを薄っぺらく語っていることである。
弱い自分を受け入れられない人が、強さや明るさを誇示して、己の弱点を押し隠そうとしても、どこかで無理が生じて、笑いものになるだけだろう。
足の曲がったカエルが、矯正ツールを装着して、「オレは真っ直ぐ歩ける」と自慢したところで、誰が美しいと思うだろうか。
幸せなカエルは、曲がった足によって遠くまでジャンプできると知っているから、がに股でも気にならない。
ところが、自己啓発に毒されたカエルは、本来の己を無視して、カモシカのようにすらりと伸びた足に憧れる。
「あれじゃない、これでもない」と様々な矯正ツールを試しては、理想の自分になれない己に失望し、人生を恨む。
自己啓発の弊害は、最初から理想の一点が決まっていて、個々の特性にまで言及しない点だ。
強く、賢く、前向きな人間が素晴らしいのは、小学生でも知っている。
キャプテン・アメリカみたいに、いつも正しく行動して、世界中に称賛されたら、どれほど幸せかしれない。
だが、現実の人間、現実の人生は、それほど単純ではないし、ジョーカーみたいな人間にも、存在意義はあるものだ。
ところが、自己啓発は、最初からゴールが決まっていて、人を迷わせない。
その分かりやすさが、心の弱った若者には魅力であり、人生の指針にもなるのだが、その際、歪められ、排除された、『本当の自分自身』はどうなるのだろうか。
「ありのままに生きよう」という掛け声が、かえって本当の自分自身を見失わせる結果になれば、本末転倒ではないだろうか。
自己啓発で述べられている人生は、いずれも一直線で、わかりきったことしか書いてない。
だが、それに気付かず、理想の一点に妄信してしまう若者は少なくない。
生き方の参考にしても、鵜呑みにしてはいけない所以である。
文学こそ傷ついた心の味方 ~人間をより深く見詰める心が役に立つ
世の現実というのは、金なし、職なし、家族なし。
不幸に喘ぐ人の方がうんと多い。
たとえ平穏に暮らしていても、人間関係の悩みを抱えていたり、長時間労働で疲れきり、自分の存在意義を見失っている人も少なくない。
そんな時に、「がんばれ、がんばれ」と理想の鞭で打たれても、辛く感じる人の方が圧倒多数だろう。
今の世の中、本当に必要なのは、怒りや悲しみを思い存分、吐き出すことである。
それは、誰彼に向かって暴言を吐くことではなく、自分の言葉で、あるいは別の表現で、自分の気持ちを表現することである。
怒りや絶望を押し殺して、必死に努力するのも尊いが、自分で自分の気持ちを大事にすることも同じくらい大事だ。
「高く生きること」と「人間らしく在ること」はまったく別であり、殺人者にも、詐欺師にも、居場所を用意してくれるのが文学である。
文学においては、憎悪も立派なテーマだし、孤独な男も主人公になる。
何故なら、文学とは、人間をありのままに描く芸術であり、根底にあるのは、尽きることなき愛と好奇心だからである。
その点が、理想と大衆受けを前提とした自己啓発との決定的な違いといえる。
全ての人は、言葉によって世界を知り、言語化することで己を知る。
文学は、その頂点に燦然とそびえ立つもので、どこの誰が口ずさんだか知れない一篇の詩にも血とドラマがあるものだ。
寺山修司の言葉を借りれば、自己啓発は「役立つ詩」「食える詩」であり、人生の儚さを謳った詩など、何の役にも立たないかもしれない。
だが、国や企業がどれほど支援しようと、失恋した娘の心の痛手は癒やせないし、孤独な男はいつまでたっても孤独なままだろう。
そうした心に、処方線のように効くのが一篇の詩であり、それは政治や経済活動の中では、一番後回しにされるものだ。
だが、本当の意味で、人の支えとなるのは、寺山修司いわく、詩人の「その人たちの夢を、より深く見る心」が「役に立つ」という事ではないだろうか。
役に立つ詩はなくても、詩を役立てる心はある
冒頭の『プロローグ』
実際、他人に「役に立つ詩」は存在しないかも知れない。
詩は、書いた詩人が自分に役立てるために書くのでって、書くという「体験」を通して新しい世界に踏込んでゆくために存在しているものなのだ。
だが「役に立つ詩」はなくても「詩を役立てる心」はある。
それはあくまでも受け取り手の側の問題であって、詩の機能をうらからたぐりよせてゆくための社会性の法則のようなものである。
いつの時代にも詩を必要とする社会は幸福ではないかも知れない。(なぜなら、詩は幸福自体としてではなくて、その代用品として存在しているものだからである)
私は、詩の社会性というものは詩人の創作態度だけの問題ではなくて、その詩人をもふくんだ(受け取り手としての)社会全体の問題だと考えている。
この世の中は、「食えない詩」「役に立たない詩」を書いている人間の方が圧倒多数。
だからといって、その一人一人が自分の存在理由に自信をなくし、書くのを止めてしまったら、世の中はさぞかし味気ないものになるだろう。
誰かのさりげないツイートに励まされるように、世の多くの人は無数の出会いを待っている。
自分の為の言葉、今、この気分にジャストフィットする文章だ。
それは何所から来るか知れないし、誰によってもたらされるかも分からない。
ただ一つ、確かなのは、皆が書くのを止めれば、川の水を堰き止められたみたいに、皆が渇きだすということだ。
「食えない詩」「役に立たない詩」は、一滴の水と同じ。
大きな潮流の中では、その存在は分からない。
だが、喉の渇きに苦しむ時、思いがけない一滴が、命を救うこともあるだろう。
役に立つか、否かで、作品の価値は推し量れない。
無用を理由に作品を排除する時、人間もまた同じ物差しで排除されるのである。
文芸の価値と詩を役立てる心とは
2019年8月26日の追記です。
今、文芸の礎である出版業界も低迷に喘いでいます。
近年のベストセラーはともかく、古典ともなると、その需要はさらに激減。
よほど熱心な読者でない限り、見向きもしないのが現状でしょう。
復刊ドットコムでも、復刊されるのは大半がマンガで、古典の名訳などは打ち捨てられています。
先人が血を流すようにして書いた名著も、いずれ市場から姿を消して、名前すら忘れられていくのではないかと本気で危惧します。
なぜ、詩や小説が後回しにされるかといえば、直截的な役に立たないからでしょう。
読んだところで、ざくざくお金が貯まるわけでもなければ、素敵な彼氏ができるわけでもない。
読めば読むほどポイントが貯まるわけでもなければ、お得なクーポンが付いてるわけでもない。
作家の大半は何十年、何百年も前に死んでいるので、ファンレターも書けません。
目に見える効果や、見返りを期待する人にとって、詩だの、小説だのは、白昼夢みたいなものです。
作品に込められたメッセージを読み取る力がなければ、退屈な幻想でしかないでしょう。
まして、現代は、現実社会の出来事の方が、はるかにフィクションを超えているし(通り魔とか、テロとか)、ネットの炎上の方がはるかに面白い。
手軽さや即効性でいえば、SNSやネット記事の圧倒的な勝利で、詩や小説など、退屈の極みでしかないでしょう。全編、読み通すのに、何時間、時に、何週間もの体力と集中力を必要とします。毎日忙しく、心身ともに疲れ切った人にとっては、片手でスクロールできて、時事問題からエロまで、バラエティに富んだ情報の方がよほど心の慰めになるかもしれません。
では、現代における文芸の役割とは何なのか。
これはもう、寺山修司の時代から――いや、それ以前から、存在意義を問われるものだったと思います。
「いかに生きるか」とか「愛とは何か」とか、文学にしても、哲学にしても、あくせく働く必要のない上級市民の知的遊戯で、多くの人は毎日を生き抜くのに必死。生き甲斐だの、存在意義だの、なんて話題は、暮らしに困らない人のファンタジーでしかありません。
それより田畑をどうするか、明日の食事をどうするか、現実問題の方がはるかに重要です。
庶民にしてみたら、「自我とは何か」なんて問いかけより、「あなたの田畑の収穫を10倍アップする方法」の方が、はるかに有り難いのですよ。
これはもう、低級、上級にかかわらず、逼迫した庶民の偽らざる気持ちです。
にもかかわらず、古典文学が今日まで生き延びたのは、田畑の作物だけでは満たされない「何か」があるからでしょう。
イエス・キリストも「人間はパンのみに生きるにあらず」と言っている。
この定義は、カラマーゾフの兄弟の『大審問官』でも重要な争点になっています。
では、なぜ、「パンか、信義か」という話になるのか。
それは、人間が心で生きる動物だからでしょう。
肉体が生きても、心が死ねば、それは即ち、人間としての死に他なりません。
キルケゴールが「ゆっくりと死に至る病」という言葉で表したように、現代も、「身体は生きているけれど、心はほとんど死んでいる人」は多いです。そして、心が死ねば、肉体も死ぬ。その究極が自死です。
そして、肉体的な飢えは1個のパンで救われることもありますが、「空しい」「淋しい」といった心の飢えは何をもっても満たされることはありません。
たとえ、田畑の収穫を10倍にアップしても、誰にも必要とされない苦しさは生き地獄でしかないでしょう。
そうした時に、「あなたの田畑の収穫を10倍にアップする方法」以外の養分が必要になってきます。
それが文芸です。
一篇の詩。
一篇の小説。
一幕の舞台。
一小節の歌。
街角に流れるポール・モーリア・グランドオーケストラも含めて、パンでは満たせない何かを供給するのが文芸の役目です。
もし、喫茶店やレストランからBGMが消えたら、食事をしても味気ないでしょう?
額絵も、花瓶も、お洒落なカーテンもない、刑務所みたいな部屋で、一年中、楽しく暮らせますか?
身の回りにあふれる詩も、音楽も、イラストも、空気のように存在感がなく、心が元気な時には何の有り難みも感じませんが、病気や、孤独や、失業や、辛い出来事の中で、心と身体が植え始めた時、書店で見かけた美しい詩集に癒やされることもあると思います。
視覚に訴える映画や演劇ならともかく、詩や小説は、読み取る力がなければ、非常に退屈なものです。
自己啓発本みたいに「こうすれば幸せになれますよ」なんてことは書いてないし、状況を説明する図解やイラストがあるわけでもない。
今すぐ回答が欲しい人には、時間の無駄でしかないでしょう。
しかし、ひと度、その言葉が心の琴線に触れたなら、人生を変えるほどの影響力を持っています。
心が飢えた時、底の底まで満たしてくれるのは誰かの言葉であり、言葉とは突き詰めれば、人間そのものに他ならないのです。
確かに、詩や小説が、パンの代わりになることはありません。
偉大な小説を100本読んでも、貧乏な人は、貧乏なままでしょう。
しかし、寺山修司はこう言っています。
「役に立つ詩」はなくても「詩を役立てる心」はある。それはあくまでも受け取り手の側の問題であって、詩の機能をうらからたぐりよせてゆくための社会性の法則のようなものである。
「役に立つ詩」を、「あなたの田畑の収穫を10倍アップする方法」と定義するなら、「詩を役立てる心」は心に直接栄養を供給します。
そして、人が心で生きていく限り、「詩を役立てる心」は、大きな田畑にも匹敵するパワーを持ちます。
何故なら、田畑はいつか枯れることもあるけれど、「詩を役立てる心」は無の平原にも人生の価値を見出すからです。
後記 寺山修司の問いかけ
同じ問いかけでも、寺山修司の「詩は何の役に立つ?」は心に刺さるんですね。
私もずっとその答えを考えていて、最近やっと文章にまとまった感じ。
あれほどの才人でも、高度成長期には、演劇も映画作りも道楽みたいに見下されて、随分悔しい思いもされたと聞き及んでいます。
要は「役に立つ」=「食える」「稼げる」で、価値基準の物差しは「売れるか、売れないか」なんですね。
でも、そんな事を言い出したら、世の中の大半は稼げない方に属するし、売れない詩作や演劇はやるだけ無駄という話になれば、潤いもなくなると思うんですよ。
にしても、戦火の中でバイオリンを弾いたり、美しいイラストに描いたりするのは何なのだと。
いつの時代も、有名無名に限らず、芸術活動というのは、功利主義や商業主義との闘いなのだと思います。
寺山修司はそれを「役に立つ詩」「食えない詩」と表現したんだろうと。
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それがまた利得や成功を追い求める自己啓発との違いなのかもしれません。
自己啓発における『最高の自分』とは、投げ銭してもらえるようなアイドル的存在なので。