先日、枕を日干ししようとカバーを外し、陽にかざして見たら、何とも強烈な黄色いシミが幾つもあるのに気が付いた。それも拳大のものが、裏表ほぼ全面に。
なんだなんだ、これは!毎晩ヨダレをたらして寝ているワケじゃねえぞ!
と思いながら、ここ数年の歩みを振り返ってみると、ああそう──涙して寝た夜のなんと多かったことか。
人は、いつか涙も涸れ果てると言うが、私の涙は止まったことがなかった。それこそ涙の海に溺れて死にそうなくらい、泣いて泣いて泣きまくった。何が悲しいって、この世のすべてが悲しかったからサ。
人間、涙を流す理由は腐るほどある。
私にも、五年に渡る暗黒期があった。どこを探しても出口が無かった。光さえ見えなかった。
そんな中、一つだけ夢中になった事がある。
それは勉強だ。
「勉強」と言っても、国語算数理科社会の勉強じゃない。
自分の興味ある分野の勉強だ。
楽劇『トリスタンとイゾルデ』を聴いてから、中毒のように好きになったワーグナーのオペラを筆頭に、音楽、文学、哲学、美術、建築、バレエと、好奇心は止まるところを知らず、学生時代は見向きもしなかった数々の本に私を向かわせた。
映画やコンサートにも通い詰めたし、世界的なテノール歌手が来日すれば、東京でも名古屋でも追っかけて見に行った。ついでにファンレターを手渡し、握手もしてもらった。けっこうミーハーだった。
もちろん、すぐ出口が見つかった訳ではない。探っても探っても、手掛かりさえつかめず、そこから抜け出すことさえ途方もない事のように思えた。本当に永遠に続くかと思うような闇の中、私は小さなランプの明かりだけを頼りに、本ばかり貪り読んでいたような気がする。
だけど、私は決して一人ではなかったのよ。
本の中には、たくさんの賢人があり、芸術家があった。読書好きな人なら分かると思うけど、本を読むということは、時空を超えて彼らとお話することなのよね。耳を澄ませば、遠くから静かに語り掛けてくる。そして、いろんな道を教えてくれる。そんな中で、私は一冊の名著と出会って、『生の肯定=ルサンチマンの克服』という大きなテーマを獲得したんだよね。
それから、いろんな事があって──本当にいろんな事があって──私は自分の負っていた余計なプライドや劣等感、錆び付いたような怨みや憎しみが、どんどん剥がれ落ち、心が真っ白に洗われてゆくのを感じた。そうして、心がすっかりクリアな状態になった時、運命的な出会いがあり、私の人生が根底から変わったんだよね。
私は「出会い」を生かすのも、一つの人間の能力だと思っている。同じ出会っても、何も感じず、何も学べなかったら、それは出会わなかったと同じ事。人との出会いは、物体と物体の衝突ではない。『1+1=3』の、心と心の融合だ。人生は、どんな人と出会い、何を得たかで決まる。「出会い」から何も掴めず終わってしまうのは、答案用紙を白紙で返すのと同じなんだよ。
そうして、すっかり流れが変わってから、私の身の上には素敵な事ばかり起こるようになった。思いがけないチャンスの到来、夢のような人との出会い、新しい友人、あれほど探しても見つからなかった愛や光や喜びが、あちこちに溢れているのに気が付くようになった。そして思ったのだ。初めから無かったのではない。私が盲目で見えなかったのだと。愛も光もすぐ側にあった。心の眼が開いて、やっと見えるようになったのだ。
今も時々、涙する。夜の静寂が、魂を私に返すからだ。
だけど今は悲しみの涙ではなく、Tears of Joy ──喜びの涙が多い。人の優しさや気高さに、心震えずにいないからだ。
世界は美しい。人もまた愛を無くしてはいない。
そんな事をしみじみと感じられるようになってから、涙の色も変わったような気がする。
私は新しい枕カバーを被せながら、さて、このシミだらけの枕を買い換えたものかどうか考えた。流した涙の分だけ、今は幸せな夢を見る。私の魂の遍歴は、全て、この枕が知っている。そう思うと、それなりに感慨深くて──。
季節が変われば、真っ白な枕に買い換えようと思う。私の Tears of Joy は、まだしばらく古い涙の上に重ねられそうだ。