現代に生きるためには、無垢な心がどのような報復をうけねばならないか 映画『シベールの日曜日』

「シベールの日曜日」は現代に生きるためには、無垢な心がどのような報復をうけねばならないかということを物語る残酷な映画であった。ガラス玉を星のかけらと思い込める感受性は、その星のかけらの鋭い刃先でみずからの心を傷つける。
ポケットに名言を (角川文庫)

映画『シベールの日曜日』は、Wikiによると、

元空軍のパイロットで、第一次インドシナ戦争での戦傷による記憶喪失が原因で無為な毎日を送っているピエールは、ある日ひとりの少女に出会う。父親に捨てられ、天涯孤独の身で修道院に預けられたその少女はフランソワーズと名乗った。お互いに深い孤独を抱えるピエールとフランソワーズは日曜日の面会ごとのヴィル=ダヴレーの逢瀬で、疑似的な親子とも恋人同士とも言える関係で触れ合う。しかし、幸福な週末は長くは続かなかった。クリスマスの日に、ピエールはフランソワーズの望みを叶えようとするが……。

現代の生きづらさは、『詩を作るより、田を作れ』という価値観にある。

文学と自己啓発の違い ~詩を役立てる心とは 寺山修司『人生処方詩集』にもあるように、現実には何も生み出さない詩よりは、田を耕して生産せよ、という考えが、能力主義や功利主義を助長し、無駄なものを排除していくからだ。

寺山氏は、こうした考え方を「政治的」と呼び、現代における詩と詩人の価値を次のように論じている。

実際、他人に「役に立つ詩」は存在しないかも知れない。
詩は、書いた詩人が自分に役立てるために書くのでって、書くという「体験」を通して新しい世界に踏込んでゆくために存在しているものなのだ。
だが「役に立つ詩」はなくても「詩を役立てる心」はある。

実際、100ヘクタールの田んぼだけで人間らしく生きていけるはずもなく、食べて、寝るだけの人生など、ただただ侘しいだけだ。

戦禍の中でさえ、人々が歌い、書物に親しむのは、我々が肉体ではなく、心で生きる生き物だからに他ならない。

しかしながら、生産第一の社会においては、田を耕す能力こそが重視され、詩を書いたり、読んだりするような、感受性豊かな人間は、大して評価もされない。世間にもてはやされることがあるとすれば、能力の商業化に成功し、儲けを生みだした時だけである。

詩や映画においては、ガラス玉を「星のかけら」と想像する感受性は美しいが、現代社会においては、むしろ足かせだ。

何も考えない人間の方が大成することもある。

だとしても、「ガラス玉を星のかけらと思い込める感受性」が魂の慰めとなるのも真理で、生産一筋に生きてきたものが最後には孤独と喪失感の中で惨めに死んでいくこともある。

現代社会において、無垢な心が受ける報復は酷いものだが、それを乗り越えれば、全てにまさる力を手に入れるのではないだろうか。

こちらに詳しいあらすじが紹介されています。
エロスの劇場 #④ 『シベールの日曜日』

シベールの日曜日 トリビュート

誰かにこっそり教えたい 👂
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次 🏃