なぜ小児性犯罪には厳罰が科せられるのか 映画『スポットライト ~世紀のスクープ』

カトリック教会の聖職者による小児性犯罪を記事で告発し、隠された真実を世に知らしめたボストンの新聞紙『スポットライト』の記者の奮闘と被害者らの心の傷をリアルに描く社会派ドラマ。なぜ小児性犯罪には厳罰が科せられるのか、社会コラムと併せて紹介。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する幼児虐待に関する言及も興味深いです。

目次 🏃

映画『世紀のスクープ スポットライト』が暴く子供の性的被害

作品の概要

スポットライト ~世紀のスクープ』は、カトリック教会の聖職者によって行われてきた小児性犯罪の実態を明らかにし、紙上で告発したボストンの新聞紙『スポットライト』の記者たちの奮闘を描いた社会派ドラマだ。

カトリック教会は聖域である為、これらの事実は長年伏せられ、少年らの被害届もうやむやにされてきた。

だが、『スポットライト』の記者たちは、被害者への聞き取り調査を中心に取材を続け、ついにスクープ記事として世に問うことに成功する。

一連の出来事は、世界的にも大きく報道され、今なお、実態調査と対策への取り組みが続いている。

本作の特徴は、『生存者』と呼ばれる被害者の生々しい告白だろう。

加害者は「親愛の情」のつもりでも、餌食となった少年らにとっては、耐えがたい恥辱である。

信頼していた神父に、おぞましい行為を強要された事実は、少年らの心を蝕み、ついには自死する者も少なくない。

被害者の声を聞くと、たとえ「触っただけ」にしても、性的行為の強要は、子どもの自尊心を踏みにじり、生存をも脅かす卑劣な犯罪であることがありありと分かる。

本作は、数々の映画賞を総なめにし、第88回アカデミー作品賞も受賞した。

出演者も大物スターではなく、マイケル・キートン、リーヴ・シュレイバー、マーク・ラファロといった渋メンばかりだが、それがかえって作品に深みを与え、静かな怒りを醸し出している。

だが、なぜ『小児性犯罪』なのか。

物語を追いながら検証したい。

■ 作品情報

ドキュメンタリータッチのマットな映像もいいですが、編集長リーヴ・シュレイバーの声が渋みのある低音で、声を聞いているだけでウットリします。マイケル・キートン、マーク・ラファロも落ち着きがあって、さすがの存在感。
昨今の映画にありがちな色恋やセクシー描写も一切なし。女性も男性も取材にいそしみ、記事の完成に全力を尽くす。
深く静かな義憤がひしひしと伝わってくる良作。
吹替版も、低音俳優に合わせて、大塚明夫、宮内敦士、牛山茂など、渋好みの声優揃い。さすがの演技です。


スポットライト 世紀のスクープ (字幕版)

『生存者』の証言 ~小児性犯罪は精神の虐待である

ボストンの日刊紙『ボストン・グローブ』に新編集長として迎えられたマーティ・バロン(=リーヴ・シュレイバー)は、同紙の取材チーム「スポットライト」のウォルター・ロビンソン(=マイケル・キートン)と会い、地元カトリック教会の神父による子供への性的虐待事件を取材するよう持ちかける。

事件担当の弁護士は変人で知られ、被害者もその家族も固く口を閉ざしたまま、実態は闇の中だ。

これといった証言も得られぬまま、調査は難航しそうに見えたが、『生存者』と名乗る男性をきっかけに突破口が開ける。

男性は言う。

貧しい家のこには教会は重要で神父に注目されたら有頂天
自分を特別な存在に感じる 神様に親切にされたと思う

神父の卑猥な冗談を変だと思う でも秘密を守るために受け入れる

次はポルノ写真をみせられる どんどん深入りして

命令されて黙ってそれに従う

神父に可愛がられて罠にはまるんだ

神様に嫌と言えます?

これは肉体だけでなく精神の虐待なんです。

精神的虐待であると被害者の証言

(性的被害にあった子供たちは)

神父に虐待されて親交さえ奪われてしまう

酒や薬に手を出したり、飛び降り飛び降り自殺したり

だから”生存者”なのです。

男性との面談を皮切りに、改めて個々の被害者と面談を始める取材チーム。

マイクは、性的被害者の弁護を担当するガラベディアンの仲介で、被害者の一人と面談する。

神父が言えに訊ねてきて、神様が現れたんだから

アイスを貝にゆこうと 奴は神父だ 従うしかない

帰りの車の中で 俺の脚を触りだした

奴の手が滑ってきて、俺の性器を握った

俺はびっくり仰天して固まってしまった まだ子供だったから

アイスは食べるまえに溶けてしまったよ

告白する彼の腕には、無数の注射の跡がある。おそらく、心の苦しみから逃れる為に、ドラッグに走ったのだろう。

ガラベディアン弁護士は言う。

彼は幸運な方だ。まだ生きている

ゲイの男性の証言 ~ごめん、やっぱり無理……

一方、サーシャはゲイの男性と面談をする。

シスターが家庭に問題のある子を集めて会を開き、そこで神父に出会った。

最初はすごく優しかった 面白くて友達だった。

ボクがゲイだと気付くと 短冊が下がったモビールを見せた。

その短冊には 同性愛 性転換 両性愛と

少しおじけづいた。

神父はそれに気付いて 服を脱ぐゲームをしようと

当然ボクが負けて そこから始まった。

具体的に言うと……ボクにいたずらを

身体が気持ちよくなるぞって 

神父が服を脱ぎ捨て ”私の性器を舐めて元気にしてくれ”と

ボクがなぜ従ったのか理解できないと思うけど

ゲイだと認めてくれたのは彼が初めてだった しかも神父だ。

ボクは混乱した 今はようやく立ち直ったけど

混乱もするさ そんな初体験をしたのに 男性を嫌いになれない。

ごめん やっぱり無理・・

被害者の心の傷は癒えない

ターゲットは羞恥心が強く、寡黙な子どもたち

このケースを長年調べている専門家は言う。

ターゲットとなる子は、貧困、父親不在、家庭崩壊など、問題を抱えた子供たち。

羞恥心が強く 寡黙な子を選んだ

彼らは捕食者(プレデター)なんだ

公表したが教会に潰された

ガラベディアン弁護士は言う。

同じ人間なのに 子供の育て方は最低
私が得た教訓は
”子供を育てる者は虐待もする”

また別の関係者は言う。

教会の秘密主義者が小児性愛者を世間から隠している

組織に焦点を絞ろう 個々の神父じゃなく 熱意と用心深さで教会の隠蔽システムを暴け

教会が同じ神父を何度も転属させ それが上の指示で行われていることを

標的は教会組織だ

立派な大人に成長しても心の傷は癒えない

一方、マイクは卒業校の後輩と会う。

タルボット神父の話になると、彼の顔が苦痛に歪む。

マイクいわく、

優秀な男で 妻も子供もいて 仕事も成功 だが少し話をすると
突然 泣き出した
なぜタルボットはボクに目を付けたのか、と

神父はホッケーの監督だった
つまり 運がよかったんだ
キミと俺は 

最初は神父の悪事を摘発するつもりで始めた取材だが、彼らの怒りは次第に社会的義憤に高まっていく。

ここは俺たちの町だ
誰もが何かあると知りながら 何もしなかった

新聞記者の仕事は、真実を世に知らしめること

手続き上の困難や教会側の妨害を乗り越えて、いよいよ記事が完成すると、マーティ・バロン編集長は皆を集めて言う。

私達は毎日 闇の中を手探りで歩いている
そこに光が射して初めて間違った道だと分かる
以前何があったかは知らないが 君たち全員本当によくやってくれた
この記事は間違いなく多くの読者に大きな衝撃を与えるだろう
これこそ我々ジャーナリストがすべき仕事だ

ジャーナリストとして記事を書くべき

その反響は言わずもがな。

『スポットライト』の事務所には次々に電話が鳴り響き……

映画はここで終わっている。

その後のことは周知だ。

そして、今なお、聖職者による性犯罪の捜査は続いている。

【コラム】 なぜ小児性犯罪には厳罰が科せられるのか

なぜ小児性犯罪には厳罰が科せられるのか。

それは、幼い子どもに性のなんたるかは分からないし、自分の身に起きていることが悪かどうかの判断もつかないからだ。

幼稚園ぐらいなら、身体に触れられても、「くすぐったいなあ」としか感じない。

小学生や中学生なら、それが「普通ではない」とおぼろげに理解しても、相手が身近な親族だったり、顔なじみの大人であれば、面と向かってイヤとは言えないし、暴力に対する恐怖心もある。

そうした子どもの無知と無力を利用して、時に脅し、時に暴力をふるって、一方的に性的虐待を繰り返すから、卑劣なのだ。

たとえば、大柄な男が少女の頭を叩けば、少女も痛みで泣き出し、ただちに暴行罪として裁かれるが、スカートをめくったり、胸を触ったりするだけなら、少女も自分の身に何が起こったのか、はっきりと分からない。

なんとなく「気持ち悪い」と感じても、相手の男が何を目的にそうしているか、理解できないので、親にも「変なおじさんに触られた」ぐらいしか言えない。

親に言えるなら、まだ良い方で、相手が親戚のおじさんだったり、教師や保育士など、身近な存在である場合は、「大人の言うことは従わなければならない」という思いから、嫌に感じても、誰にも言い出せず、自分の中に封じてしまうこともある。

そして、卑劣な行為はますますエスカレートし、子どもは抵抗することも、誰かに打ち明けることさえできずに、死ぬまでその苦しみを持ち続ける。

世界的に、小児性犯罪に対して厳罰が科せられるのは、そういう理由からだ。

何も分からず、抵抗もできない子どもを相手に、一方的に欲望をぶつけ、相手が何も言えないのをいいことに、好き放題する。

小児性犯罪は、卑劣きわまりない暴力であり、弱者を踏みにじる悪質な行為である。

子どもの安全と人権は、他の何を差し置いても守らねばならず、大人の性欲と子どもの領分ははっきり区分けするのが真っ当な社会の在り方ではないだろうか。

昨今、胸元や下半身を強調した萌え絵や、幼女や少女を対象とした性的コンテンツの在り方が問われているが、表現の自由、云々を言う前に、一度、自らに問うて欲しい。

それは誰に向けたコンテンツであり、率先して消費しているのは、どんな属性の人たちか、ということを。

強調するのは、それが消費者を惹きつけ、収益を生むからだ。

綺麗事を並べようと、少女の身体のパーツを「売り物」にしているのは確かではないだろうか。

参照記事
ローマ法王が謝罪、聖職者による性的虐待の実態

1980年代、チリの首都サンティアゴにある教会で、フェルナンド・カラミナ司教(当時)は複数の児童に対し、性的虐待を繰り返した。2011年に聖職を剥奪されたが、法的措置は受けなかった。

フランシスコ法王は今年1月、チリの大統領府を訪問した際、この問題について触れ、「苦悩と恥辱の気持ちを表明したい」と謝罪。犠牲になったチリ人男性3人を、後にバチカンに招いた形だ。

3人はフランシスコ法王との数時間にわたる会談後、記者会見で、〝伝染病〟の撲滅を訴えた。「我々は約10年間、教会の性的虐待と隠蔽(いんぺい)について闘い続けるあまり、敵と見なされてきた。(中略)緊急措置を取らなければ、すべてが形骸化してしまう」

≪中略≫

聖職者によるこうした事件は、氷山の一角に過ぎず、教会側の黙認や否認などで、これまで多くのケースが隠蔽されてきた。今回、法王と面談したチリ人男性3人は、口をそろえて言う。

幼児虐待について ~『カラマーゾフの兄弟』より

以下は、ドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』からの抜粋。

この台詞は、無神論者のイワンと聖職者のアリョーシャが料亭で語り合う場面で、イワンがなぜ神を信じられなくなったか、アリョーシャにとうとうと話す流れで登場します。(参考記事→ 大審問官=悪魔の現実論を論破せよ《カラマーゾフ随想》 原卓也訳(10)

「ぼくはもう一度はっきり断言しておくがね、かなり多数の人間には一種特別の性向、つまり幼児虐待の嗜好があるんだ。それも、相手は幼児にかぎられている。それ以外の一般の人間に対しては、この同じ虐待者がむしろ親切で柔和な態度を見せるくらいで、いかにも教養ある、人道的なヨーロッパ人といった感じなのだが、そのくせ子供をいじめるのは大好きだ、いや、その意味では子供好きとさえいえるほどなのさ。つまり、幼い子の身を守るすべも知らないたよりなさ、それが虐待者の心をそそるのだし、どこへ逃げ隠れようもなければ、だれかにすがりようもない幼な児の天使のような信じやすさ、それが加虐者のいまわしい血潮をたぎらせるんだね」(309P)

19世紀に、すでにこうした分析がなされていたのも興味深い。

小児性愛は、それだけ根深い人間の業ということだろう。

断ち切ることはできなくても、被害を防ぐことはできる。

社会の成熟度を知る一つの目安として、小児性犯罪にどれだけ真摯に取り組んでいるかが挙げられる。

何故なら、その重大性を理解し、改善に向けて実行できるのは、真の大人だけだからである。

初稿 2018年2月21日

こちらの記事も参考にどうぞ
セカンドレイプと裁判の実態を描く ジョディ・フォスター主演の映画『告発の行方』
演技派のジョディが体当たりで暴行シーンを演じたアカデミー受賞作。酒を飲み、マリファナを吸う女性は、レイプされても仕方がないのか。世間の偏見と被告側弁護士の印象操作、診察や取り調べの実態を生々しく描いた秀作です。
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