美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくか
「白雪姫」のおかあさんが、鏡を見ながら「この世で一番きれいな人は誰ですか」と訊ねるような美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくかは、七人のこびとでなくとも知っている。
『この世で一番きれいな人は誰ですか』という問いかけは、美意識ではなく、自己顕示であり、支配欲である。
美への憧れから、美しさを求めるのではなく、美によって権力を得ようとする魂胆があるからだ。
それは、美しさに限らず、知性、善性、友愛、技術、全てにおいて同じだと思う。
真に美しいものは、誰が一番を問いかけはしない。
何故なら、美は「美しい」と感じる心であって、価値判断の基準ではないからだ。
*
上記の言葉は、『幸福論』の「肉体」という章に掲載されている。
冗談(3)
私の口ぐせは、運のわるい女はきらいだ、ということである。なぜなら運の悪い女は、たいてい美しくないからである。ジョルジュ・バタイユはその「無神学大全」の中でえ、「美は幸運によってみがかれる」と書いている。それは運の祝福――そして暴力的なまでの和合への衝動によって美を獲得するということなのだが、美しくありたいと願う女ほど幸運にあこがれている。
そして、運命というのは神の名をかりた掠奪行為であるから、同時に人の不運をあてにするようになっていく。
幸運への欲望をいだくものは、幸福とは遠いところにおかれる。
なぜなら「幸福論」は、究極的には運命の支配の超克であって、汎神論よりは科学でなければならないからである。
「白雪姫」のおかあさんが、鏡を見ながら「この世で一番きれいな人は誰ですか?」と訊ねるような美しいものへのあこがれが、どのように幸福を汚してゆくかは、七人の小人でなくとも知っている。
*
しかし、それにもかかわらず、現実の中では私たちは「知る」ことにあこがれて、賭けようとする。運命の支配は、見えない「時」の翼をひろげていて、わたしたちの「幸福論」がアドリブ的に、現実に即していこうとすれば、「幸運」や美の力を借りずにはいられないということもまた真実なのである。ダイアローグとモノローグのあいだを断ち切ってしまっては、肉体からの「幸福論」を説き起こしてゆくことは難しいであろう。
『肉体』の章の冒頭に、「幸福と肉体との関係について考えることは、きわめて重要なことである。なぜなら、一冊の「幸福論」を読むときでさえ、問題になるのは、読者の肉体のコンディションということだからである」とあるように、ここでは、肉体が精神に及ぼす影響について、走れメロスや、若尾文子や、マリリン・モンローを引き合いに出して論じられている。
「人間、見かけじゃない」といっても、肉体の有り様(美か醜か、健康か不健康か、痩せ型か肥満か、等々)が、その人の精神に多大な影響を及ぼすのは明白だからだ。
わけても、『美』は、運に左右される部分が大きい。
こればかりは持って生まれた素質で、本人には選択することも、変更することもできない。
人が容姿の美醜にこだわるのは、これほど分かりやすい幸運・不運もないからだろう。
ところで、美にこだわる人は、何をもって自身の美を意識するかといえば、「不美人」という比較対象が大きい。
「不美人」という存在があるから、「美人」も引き立つ。
白雪姫のおかあさんが求める「世界で一番の美」は、娘という比較対象の上に成り立つ美であり、自身の心の中で愉しむ美とは大きく異なる。
『この世で一番きれいな人は誰ですか』とうい問いかけが、決して、自身も周りも幸せにしないのが、いつでも比較対象を必要とするからだ。
美において勝ち続けることは、女性の場合、難しい。
いつか必ず若い娘に負けると分かっていて、勝ち負けにこだわるのは、みすみす負け試合に身を投じるようなものではないだろうか。
上記は、両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)にも収録されています。