【コラム】 若者がみじめに感じる瞬間 ~何やってんだろ、俺
若い時代は、金ない、コネない、実績ない、自信ないで、どちらを向いても心細いもの。
そんな時に追い打ちをかけるように、辛いこと、悔しいこと、悲しいこと重なるものです。
主人公のヴァルターも、人一倍、向上心が強く、能力もありますが、なぜか努力が空回り。
やること、なすこと、悪い方に転がってしまうタイプです。
また、そんな時に限って、必死に頑張ってしまう。
一日も早く結果を出して、失ったものを取り戻さなければならないという気持ちが、かえって事態をこじらせてしまうんですね。
潜水艇パイロットのヴァルターも、海底鉱物資源の採掘を行う洋上プラットフォームで再起の機会を得るけども、なかなか仕事に馴染めず、上司であるアル・マクダエルとも言い合いばかりです。
そんな時に限って、いっちょうらのシャツがランドリーの熱で縮んでしまう。
お金もなく、自信もなく、励まし合える友達もない中、何となく反抗して喧嘩別れした母親のことを思い出し、「やっぱり、あの家に居るべきだったか」と思ったりもしますが、昔、死んだ父親が教えてくれた、『人生には沈む時もあるよ、ヴァルター。そんな時は、力が付くまで、じっと海の底に潜んで機会を待つんだ。不屈の潜水艦みたいに、深く、静かにね』という言葉を思い出し、何とか自分を奮い立たせようとする場面です。
最終的にこのパートはボツにしましたが、参考として。
【小説の抜粋】 人生に沈んだら、不屈の潜水艦みたいに機会を待て
午前七時に起床すると、シャワーを浴び、ブルーのカジュアルチェックのシャツとアイボリーのチノパンツを身につけた。
初日、アル・マクダエルの娘に海に引きずり込まれ、ずぶ濡れになった服だ。
その日のうちに共同ランドリーで洗濯し、中温で乾燥機にかけたが、心なしか色落ちして縮んだような気がする。
新しい服を買うお金もない今、手持ちの服はできるだけ長持ちさせたいところだが、このシャツとチノパンツもそろそろ六年目になる。傷まないよう気を付けても、だんだん色柄がぼけてくるのは仕方ない。
彼は服の購入はすべて『C&A』というアパレルメーカーの通販で済ませていた。商品棚にずらりと並んだ服を見ても、どれを組み合わせればいいのかよく分からないし、店頭で店員に話しかけられるのが恥ずかしいからだ。その点、『C&A』の通販サイトは、各カテゴリーのトップページにコーディネート例が親切丁寧に解説してあり、直感的に「これ」と決めることができる。中でも、カジュアルチェックのシャツに白か黒のアンダーシャツを重ね、ジーンズやチノパンツと合わせるのが一番分かりやすく、朝から何を着ていこうか悩むほど無駄なことはない、というのが彼の考えだった。
*
午後六時に仕事を終えると、彼はランドリーに入れっぱなしにしているカジュアルチェックのシャツの事を思い出し、慌てて地下に降りた。
最短コースで設定していたにもかかわらず、またもや乾燥機の熱のせいで繊維が縮んで型崩れしている。
そんな安物を買ったわけでもないのに、一体ここのランドリーはどうなってるんだ、と、目の前が真っ暗になった。(※洋上の採鉱プラットフォームのこと)
・・
おかげで、まともな服がまた一枚減った。
それより何より、着替えを買う余裕もない。
彼はすっかり脱力してランドリーの床に座り込むと、給料日まで手持ちのお金が幾ら残っているか、頭の隅でカウントした。
学生時代もお金のことで辛い思いをしたことは何度かあったが、ここまで酷い状況になったのも初めてだ。
とはいえ、無計画に散財したわけでは決してない。
ネクサスに居た頃は一年の大半を海で過ごし、ほとんどお金を使う機会もなかったことから、黙っていても銀行の預金はどんどん増えていった。そこに危険手当やら、ボーナスやら、いろんなものが加算され、むしろ同世代の普通のビジネスマンよりはるかに高給取りで蓄えもあった。
それがマイナスに転じたのは、ポルダーの再建計画コンペに参加しようと決めた頃からだ。
ネクサスには休職届けを出したから当然月収はなし、時々、ヤン・スナイデルが勤めていた土木事務所で湾岸工事の日雇いの仕事を請け負い、幾らかの収入を得ていたが、それもスナイデルとアパートをルームシェアしたり、専門書を購入したり、コンピュータ設計用の高いソフトウェアをインストールしたり、ライントラストを手伝ってくれる仲間に食事を奢ったりで、手元に一銭も残ることはなく、蓄えから少しずつ引き出す日が三年間続いた。
でも、それでもいい、と思っていた。
コンペに参加するのはお金が目的ではなかったからだ。
ましてライントラストで金を稼ごうなどとも思わない。
三年経ってコンペが終わったら、優勝してもしなくても、ネクサスに復帰できると思っていた。
蓄えがゼロになっても、一からやり直せるつもりだったのだ。
もちろん、ネクサスを解雇された後、自棄を起こしてエンデュミオンに行った自分も馬鹿だけれど、解雇されるほど悪いことをしたのかという思いは今でもあるし、コンペとライントラストに持てるもの全てを注ぎ込んだ三年間のオチが、ガブリエル・ベロムの告訴とライントラストの閉鎖というのも、あまりに割が合わないような気がしてならない。(※ ガブリエル・ベロム = 建築家フランシス・メイヤーの前設定の名前)
マードックは、コンペとライントラストの三年間があったから「今」があると言うけども、それが本当なら、なぜアル・マクダエルは一から俺を叩き潰して作り直すような真似をするのか。
それは一見、俺を認めているようで、実は何も認めてないってことじゃないか──と、怒りにも似た感情が湧いてくる。
何か間違いがあるなら、はっきり言ってもらった方がいい。
俺はそこまでバカでも、分からず屋でもない。
そこまで考えて、彼はまたもアル・マクダエルに十万エルクを前借りしたことを思い出し、みじめ感が倍増した。
ここまで来たら、自分自身のことを犬以下にしか思えなくなった。
エンデュミオンのトレーラーでアル・マクダエルに言われた、「お前も犬と一緒だな。大した信念もないくせに」という一言が脳裏に蘇り、悔しさと無価値感が心の中でごちゃ混ぜになる。
だからといって、今さらマルセイユに帰って、母や継父ジャン・ラクロワの世話になろうとも思わない。
「つらい」「金がない」と言えば、母は、百万でも二百万でも用立てて、彼のアカウントに送ってくるだろう。
(でも、そういう生き方が嫌で、俺はマルセイユの家を出たんだろ?) と彼は自分に言い聞かせる。
今は何も無くても──正しい答えは分からなくても──俺は断じて『犬』なんかじゃない──いつかはグンター・フォーゲルのように、名は無くても、財産らしいものは何一つなくても、誰に恥じることのない生き方をして、最後の瞬間まで自分の務めを果たして、男らしく笑って逝けるような人間でありたい──という想いが腹の底から湧いてくる。
彼はふと左手のダイバーズウォッチに視線を落とすと、ネーデルラントのポルダーで父や母と幸せに暮らしていた頃の輝き、空に、海に、太陽が眩しく映え、風の中に花が香ったあの美しい日々──そして、それを取り戻すために必死でコンペとライントラストの活動に取り組んだあの日の輝きを思って、抱えた膝の中に顔を埋めた。
耳元でダイバーズウォッチが時を刻む音がする。
今もなお生き続ける優しい鼓動のように。
彼には今、父の声がはっきりと聞こえた。
「人生には沈む時もあるよ、ヴァルター。そんな時は、力が付くまで、じっと海の底に潜んで機会を待つんだ。不屈の潜水艦みたいに、深く、静かにね。──どんなことがあっても最後まで決して諦めるな。生きて、生きて、生き抜いて、素晴らしい人生を送ってくれ」