私は、現代人が失いかけているのは「話しあい」などではなくて、むしろ「黙りあい」だと思っている。
東京零年
インターネットの普及で、誰もが手軽に発信できるようになった今、この言葉が書かれた昭和の時代に比べたら、「話したい(=書きたい、表現したい、認められたい、etc)」という衝動はいっそう強まったように見える。
猫も杓子も、言わなきゃ、ソンソン、
もはや「黙っている」ということに耐えられないほど、現代人はすぐに書き、いいねやリツイートをクリックし、他人の反応や意見を気にする。
絶え間ない情報の洪水……というよりは、沈黙に対する耐性の低下。
その『沈黙』も、中世の修道僧のような『瞑想の為の孤独』と異なり、『周囲の無反応や退屈』といった意味合いが強く、沈黙に耐えられないというよりは、何ものでもない自分と向き合うのが苦痛で、常に何かしら周りの反応が得られなければ孤立感や空疎感が深まるという感じ。それは自ら望む孤独と違って、ほとんど強迫観念に近い。
一つ何かを得れば、いっそう確かな手応えを求めて、もっと、もっと、と突き進む。
しかし、喋ってる間、人は深く考えないように、書いたり、覗いている間も、深く考えないものだ。
次から次にアウトプットするのは、創造的に見えて、その実、排泄に過ぎなかったりする。
なぜ人には沈黙が必要なのか。
私たちは、しばし周囲との関係性を絶つ中で、気付いたり、変えたり、深めたりするものだからである。
情報収集や分析も、同じ環境に身を置いていては手に入るものも限られるし、雑音の中では考えも偏る。
本当に創造や変化を求めるなら、私達はいっそう沈黙を重んじ、一人で思索することの意義を見直すべきではないだろうか。
置いて行かれたところで、焦ることもない。
本物の伴走者は、あなたが急ごうが、滞ろうが、あなたのペースに合わせて、生涯付き添ってくれるものだから。
友人しかり、芸術しかり。