愛し方、愛され方の分からない人は、力の強さや格の高さなど、周りより優れることによって、周囲の愛情や尊敬を勝ち取ると錯覚しています。
子どもに対しても、常に親が優れることで、子どもの方から従うと思い込んでいるので、弱みなど決して見せませんし、批判も許しません。子どもに舐められまいと威嚇したり、あるいは、子どもを貶めて無力化したり、親が優位に立つことで、子どもをコントロールします。こうした親にとっては、子どもが従順であることが愛情と尊敬の証なのです。
しかし、愛の本質は、相手の弱点を理解して、受け止める点にあります。
赤ん坊が愛しいのも、一人では生きていけないからで、顔立ちが綺麗だから、ミルクをよく飲むから、という理由で可愛がっている人など皆無でしょう。あれほど手がかかっても大事に感じるのは、愛というものが、相手の美点や損得勘定とは無関係に心に注げるものだからです。
人の情愛とは不思議なものです。
「なんであんな男が」というような放蕩者が女性にモテたり、我が儘勝手な女性が男性にベタ惚れされたり、性格がいいから、仕事ができるから、といった長所とは別次元のものです。
子どもだって、親が立派で正しいから好きになるわけではありません。太ったお母さんでも、朗らかで優しければ、お日さまみたいに温かく感じますし、下っ端社員でも、釣りやプラモデルが得意で、いろいろ教えてくれるお父さんなら、子どもも自ずと仰ぎ見ます。
逆に、肩書きのある立派な親でも、「ごめんね」も「ありがとう」も言わない親なら、子どもも不信に感じますし、仕事が有能でも、子どもの趣味や学校生活に何の関心も示さず、まともに話も聞かないなら、子どもにとっては頼りない親でしかありません。
子どもは親と笑ったり、遊んだり、楽しい思い出を重ねて、安らかに暮らしたいだけです。
偉いところを見せつけて、子どもの愛情と尊敬を勝ち得ようとしている人は、子どもの前で本当に自分をさらけ出すことができません。子どもには謝罪を求めても、自分の過ちは決して認めず、言い訳ばかりして、親の正当性を強調しようとします。子どもに頭を下げることは「親の負け」であり、弱いところを見せれば、愛情も尊敬も失うと恐れているからです。
たとえ、そうして上下関係を維持できても、水面下では亀裂が走っています。子どもも幼いうちは親に遠慮して、あるいは恐れて、何も言いませんが、身体も大きくなり、親と対等な知力を身に付ければ、親の矛盾をついて反抗するようになります。そうなると、ますます親もムキになり、高圧的な態度を取るようになります。中には、家族関係にひびが入っていることを意地でも認めない人もあるかもしれません。
河合氏は第一章『いま家族とは何か』の『対決を通しての安定』で、次のように述べておられます。
現在における家族関係の難しさの方を強調しすぎた感があるが、このことはいくら強調してもしすぎでないかも知れない。実際、われわれのところに子どものことで相談に来られる両親で、社会的には立派に活躍しておられる人は多い。学校の先生で、自分の級の子どもたちの指導はうまくできるのに、どうして自分の子はうまく育てられないのか、と嘆かれた方もあった。
<中略>
最初に例としてあげた家庭内暴力の場合でも、われわれとの話合いを通じて、父母が力を取りもどし、息子と本当に対決できたとき、息子も自分の本当に言いたいことが親に向って言えたのであった。「お父さん、お母さんは自立、自立といいながら、子どもを自分たちの好きな方へうまいこと動かしていただけじゃないか」と。このような子どもの気持を親がしっかりと受けとめたとき、この家庭は今までと違った意味での安定を取りもどす。それはやはり、家族にとっての安らぎの場となるが、以前と異なることは、家族の一人一人が自分の言いたいことが言えるし、必要ならば衝突し合うことができる点である。対決を避け、誰かが涙を流したり、忍耐したりして維持される、みかけの平和とは異なる安定が生じてくる。
思春期になって子どもが反抗しだすということは、それまで上手くいっていると思い込んでいたものが、実は見かけの平和だったということです。壁のひび割れと同じで、早めに手を打てば、修復もスムーズです。
河合氏いわく、
「われわれ父親はそこで、まったく頼りのない存在として、自分の全存在をかけて子どもに対するより仕方がないのである。そのときこそ、子どもは手を差し伸べてくれるであろう。ただそれは、しばしば外見的に見映えの悪いものとなることを覚悟しておかねばならない」
立派な親の姿を見せるより、人間として正直な姿を見せた方が、より早く子どもの愛情を取り戻せると思います。相手に謝ったり、間違いを正したりするのは、心の器が大きくなければできません。それは親子関係に限らず、社会のあらゆる場面で共通することです。 謝罪の瞬間は、子どもも親を軽蔑するかもしれませんが、そこに本物の愛情や悔悟の気持ちがあれば、いずれ人間としての器の大きさを理解するようになります。
何が何でも子どもに頭は下げないという態度では、いっそう和解の機会を逃すのではないでしょうか。