その地方で羊飼いが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主(神)の天使が近づき、主の栄光(神が現存するしるし)が羊飼いの周りを照らしたので、彼らは恐れおののいた。
天使は言った。
「恐れることはない。今わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビドの町で、お前たちのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである。お前たちは布にくるまって飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがしるしである」。
すると、突然、この天使に天使の大軍が加わり、神を賛美した。
「天(直訳《いと高き所》では神に栄光、
地上では御心にかなう人々に平和」
天使が離れて天に去ったとき、羊飼いは、「さあ、ベトレヘムへ行こう。そして主(神)が知らせて下さったことを見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフと飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
これを見て、羊飼いは、幼子について天使が話したことを人々に知らせた。
聞いた者は皆、羊飼いが話したことを不思議に思った。
しかし、マリアはこれらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた。
羊飼いは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎え、幼子にイエスス(「ヤーウェ(神)は救い)という名をつけた。これは胎内に宿る前に天使から示された名である。
ルカスによる福音書 第二章 新約聖書 共同訳全注 (講談社学術文庫)
これが紀元元年(多分)の12月24日~25日に起きたとされる出来事。
羊飼いたちは本当に天使の大軍を目にしたのか……と問われたら、「そうだ」と頷く一方、それは何の喩えなのかと思い巡らす人もあるでしょう。
それについて、中部学院大学の益田明氏が素敵なコラムを書いておられます。
2. クリスマスの意味
今日の聖書の箇所から、今を生きる私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。
短く2つのポイントでお話をしたいと思います。①羊飼いたちは孤独であった
聖書をみますと、羊飼いたちは、夜、野宿をしながら羊の番をしていました。
普段の生活の中でも社会の片隅に追いやられ、さらに真っ暗な夜に羊の番をするという心境を想像してみてください。
彼らはおそらく、孤独であったと思います。
そんな羊飼いたちの姿は、私たちが人生の中で孤独を経験する時の姿と重なるように思います。私たちは、人生の中でしばしば孤独を経験します。
病気にかかり一人で病の床に伏せる時もあるかもしれません。
また、信頼していた人に裏切られるという孤独を経験するかもしれません。
また、周りに沢山仲間がいたとしても、何か心が満たされない、そんな「こころの孤独」を感じる時もあるでしょう。
そんなとき、この聖書の言葉を思い出したいと思います。
「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。」「あなたがたのために」と書かれています。
聖書のメッセージはいつでも「個人的」です。
「あなたがたのために」そして「あなたのために」救い主イエス・キリストがお生まれになった、これが、聖書が私たちに語るメッセージです。引用
2015年12月21日(関キャンパス)
「世界で最初のクリスマス」
益田 明(中部学院大学事務局)
ブログ『牧師の書斎』の「羊飼いたちは社会のアウトローの代表」にも書かれていますが、イエス・キリストの時代には、人権などあってないようなもの。貧しい者、病める者は死ぬまで虐げられ、医療福祉の恩恵にあずかることもなければ、日常の困った事を相談する窓口さえありませんでした。「あっち側」に生まれるか、「こっち側」で諦めるか、人間の種類は二つに一つ、人権だの平等だのという概念さえなかったかもしれません。もちろん、家族や共同体で助け合うことはあったでしょうけど、社会においては完全な無権利状態ですね。まともな司法制度もなければ、三権分立もない。
そんな中、貧しい者や虐げられた者にも温かな言葉をかけ、存在を重んじ、病気の身体も恐れることなく触れて、癒やしてくれる人があれば、現代でも「この人は神や!!」と思うでしょう。そして、イエスという人は、そういう情け深い人だったのだと思います。しかも、話が上手。
『ヨハンネスによる福音』にも「初めに《御言葉》があった。《御言葉》は神とともにいた。《御言葉》は神であった」という言葉がありますが、実際、耳にした人にすれば、心を打つような話し方だったのだと思いますよ。それまで傲然と律法や高説を説く人はあっても、本当に貧しい者、苦しい者の立場に立って、親身に語りかけてくれる人はなかった。そんな中、イエスは、子供にも分かるような喩え話で「こんな風に生きなさい。こう考えれば幸せになれるよ」と優しく教えて聞かせる人だったのだと思います。現代に喩えれば、癒やし系のブロガーであり、YouTuberであり、ツイッタラーとでもいうのか、とにかく、誰が聞いても有り難く感じる、世界中の著名なオピニオンリーダーを千人集めて良い所だけ煮詰めたような、感動的な存在です。
この時代、カメラやビデオはおろか、印刷物だってありません。読み書きのできる人も限られていたでしょう。
大事なことは口頭で伝承。
「あの人がこんな事を言っていたよ」「それは凄い。うちの子にも言って聞かせよう」
そんな風に、イエスの言葉も広まっていったのだと思います。
記録をとどめ、伝達する手段が『言葉』しかない時代、その一言一言がどれほど眩しく、貴く感じられたか。日々ネットやメディアで膨大な情報を消費する現代人には想像もつかないほどでしょう。
そして、イエスの死後、その言葉が弟子達によって書物や手紙にまとめられ、世界中に拡散したのも頷ける話です。
神の書物だから……というよりは、『本』さえも貴重だった書写の時代、心ふるえる感動的な読み物といえば、聖書がダントツだったようにも思います。
現代などGoogleの検索窓に「生きづらい 死にたい」とか「彼氏にふられた どうしたら」とか悩みを入力すれば、有名無名のウェブサイトがずらりと出てきて、手当たり次第に流し読み。依存症みたいにクリックして、自分の納得いく話を探し回る状況では、熟読とか熟考など程遠いのでしょう。
その点、書物さえ手に取る機会が無かった時代には、教会で神父が福音書を詠み上げたり、町の徳高い名士が古都の大学で学んだ聖書の詳細を下々に話して聞かせるだけで、天から光が差し込むが如く、それはもう「神が話しているのではないか?!」と錯覚するほどの体験だったと思います。
さらに遡って、イエスの時代なら、そのインパクトは言わずもがな。
現代、私たちは、人権というものを水や空気のように当たり前に受け止めていますが、その概念さえもなかった時代、イエスのような考え方はまさに神であり、福音だったのです。
ヨハンネスの福音書にあるように、羊飼いが天使の大軍に本当に出会ったかどうかは分かりません。
日本の民話や氏神と同じく、当時の人々の思いや出来事を象徴的に著したという考え方もできるでしょう。
何にせよ、肝心なのは、素直に信じる気持ちがないと福音も聞こえない、ということです。
インチキ宗教やインチキ科学にまで素直に頷くのは問題ですが、ひねくれた心には誰の言葉も届かないのも本当で、目の前に救いがあっても、そうと気付かなければ、何の意味もないのではないでしょうか。
天使がそこに居ようと、居よまいと、大事なのは、それをどう解釈するかで、実在するか否かの証明はまた別の次元の話と思います。
そして、クリスマスというのは、一定の観念に囚われた人が、違う方向に知性と感性の扉を開く機会でもある。
そういう機会を未来永劫、万人にもたらしたというだけでも、十分に奇跡に値するのではないでしょうか。
イエス・キリストはもちろんのこと、知と愛を尊ぶ幾千万の先人の、貴い継承の努力も含めて。
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映画『ベン・ハー』の冒頭で描かれたイエスの誕生。
乳香、没薬、黄金を捧げる『東方の三博士』がいいですよね。
↓ イエスの誕生を感動をもって見守る羊飼いたち。救いを待つ万民の象徴。
イエスの誕生を描いた西洋絵画ではコレッジオの『聖夜』が一番美しい。聖母マリアというよりは、子供を授かった母の喜びを描いています。
こちらもラファエロみたいに優美な雰囲気が印象的。
こちらも赤ちゃんが可愛い♪
By Antonio da Correggio – Web Gallery of Art: Image Info about artwork, Public Domain, Link