はじめに ~避けられなかった悲劇
2008年、東京・秋葉原で起きた通り魔事件の第一報を聞いて、一番に思ったのは、「日本はこの10年間、何も学んでいない」ということでした。
90年代半ばから、高学歴の若者を中心としたカルト教団のテロ事件、17歳による凶行、お受験殺人など、多くの課題が投げかけられてきたにもかかわらず、またも似たような事件が繰り返され、当事者でなくても、本当に悔しく、歯がゆい思いがします。
なぜなら、カルト教団の密室で謀議された計画犯罪と異なり、秋葉原の犯人は、壊れゆく自身の気持ちを、周囲の人間にいろんな形で発信してきたからです。
家庭内暴力、友だちへの「死にたい」メール、職場でのトラブル。
どこかの過程で良い方向に向かえば、秋葉原で7人も死なずに済んだでしょう。
事件を起こしたのは本人の責任かもしれませんが、この手の犯罪者を生み出さない大人の努力も急務であり、いまだそれに対して具体的な策が取られないのが残念でなりません。たとえば、無料でいつでも相談できるスクールカウンセラーの充実や、子供の習熟度に応じた個人指導など、大人の方で出来ることはたくさんあるのですが。
そこで、この事件に関して思ったことを、二、三、まとめておきます。
情報のソースがニュースサイトや個人ブログなどに限られますので、憶測でしかありませんが、一般的な話として参考にしていただければ幸いです。
失業、依存、家庭内機能不全
この事件を読み解くキーワードは3つあると思います。
● 非正規雇用(派遣社員)
● ネット依存(ケータイサイトへの書き込み)
● 家庭内機能不全
どれも10年以上前から問題視されている事であり、何を今さらですが、この10年間、問題を問題のまま放置したことが、多くの悲劇に繋がっているのは明らかです。
秋葉原の犯人も、どれか一つ、報われさえすれば、このような凶行に駆り立てられることもなかったかもしれません。
仕事とは自己の尊厳
『人は労働を通して社会的存在になる カール・マルクスの哲学』にも書いているように、現代における就労は二つの意味を持ちます。
一つは、生活の手段。
もう一つは、人間としての尊厳です。
この社会において、「就労する」ということは、社会的に認められることでもあります。
高収入の仕事を得れば、自分は選ばれた高等な存在と自信を持ちますし、職種がレアであればあるほど、特別感も強いでしょう。
逆に、ファストフードやコンビニなど、比較的誰でも就労しやすい業務でも、書類選考で撥ね付けられたら、自信もなくします。
中には何社も回って、一通も採用通知をもらえない人もあるでしょう。
その際、「運が悪かっただけ、また次がある」と前向きになれたらいいですが、中には必要以上に落ち込み、人間としての自信も無くす人もあるかもしれません。
就労において、低い地位、あるいは不安定な状態に止め置かれることは、人間としての尊厳を著しく傷つけられることであり、努力やリフレッシュでどうにかなる問題でもありません。
その為に、心が屈折し、周囲や社会に恨みを抱くようになっても、誰にもどうすることもできないのが現状です。
秋葉原の犯人の場合、進学校で学んだにもかかわらず、非正規雇用の仕事しか得られないことが大きなコンプレックスになっていたと言われています。
本人の努力不足と言ってしまえばそれまでですが、働く人間を惨めに感じさせるような職場環境にも原因はないでしょうか。
たとえ、ネジを締めるだけの仕事でも、従事しているのは人間です。
誰もが社会に認められ、人として大事に扱われたいと願っています。
収入や肩書きによらず、職員が人間としての尊厳を感じられないなら、それはやはり職場環境をマネジメントする側に問題があるのです。
ネットは弱った心に響く
家庭にも、職場にも、心の拠り所のない人間にとって、書き込めば、誰なりと答えてくれるネットは面白いものです。
自分と同じ考えをもつ人も見つかりやすく、ひと度、共感の罠にはまったら、抜けられなくなる人も多いでしょう。
孤独をまぎらわすという点で、ネットは、良くも、悪くも、弱った心に響きます。
誰にも止めることはできません。
処方箋はただ一つ、ネットより、現実の趣味や人間関係の方がはるかに面白いものにすることです。
映画を見たり、友だちとカフェに行ったり、些細な事でもやり甲斐があれば、人はそこまでネットにのめり込まないものです。
時間制限を設けたり、デバイスを取りあげても、真の解決にはなりません。
心が弱っている限り、ネットの過激な発言や映像は、麻薬のように人を蝕み、理性も狂わせるものです。
『親の書いた作文で賞をとり、親が書いた絵で賞を取り』
犯人の書き込みの中でも、一番印象的なのが、『親の書いた作文で賞をとり、親が描いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧』の一文でしょう。(参考サイト 秋葉原無差別殺傷事件の犯罪心理学(心理学総合案内・心の散歩道) 他にも犯人が書き込んだ言葉が一覧で紹介されています)
犯人の家庭に限った話かと思えば、当時、公開されていた動画では、
「受験戦争の世の中で、親が作文を書き、絵を描き、自由研究をするのは当然です。周囲も当然です。子供の成績は親の成績と表現されています」
「私も子供の作文や絵を描いて、子供に賞を取らせておりました」
といった視聴者からのFAXが紹介され、親の過剰な教育指導が問題になっている様が窺えます。
※ 『狂気の原点・母親の後悔』http://www.youtube.com/watch?v=nWhHIEwyU3E (現在、この動画は削除されています)
本来、フェアであるはずの学校社会にまで親が入り込み、「子供の代わりに宿題を仕上げるのは、受験生の親として当たり前♪」という価値観が一般化されたら、子供に社会性や思いやりを教えられるはずがありません。
他人を蹴落としても、美味い実を取るのが正義と、親自身が体現しているようなものです。
逆の見方をすれば、オオカミみたいになれなかった犯人は、余計で劣等感を抱え込んだのかもしれません。
また、そうした価値観に育った子供が、将来、社会の要職に就いて、他人を教育指導する側に回るとしたら、怖ろしいことです。
ある意味、教育過熱な親が、ブラック企業の経営者や隠蔽体質の役人を生み出しているといっても過言ではありません。
他者を顧みない、利己的な教育は、利己的な子供を生みだし、その子は新たな捕食者になるか、あるいは挫折して自滅するか、どちらかです。
心の優しい、真面目な子供ほど、親の期待するオオカミになりきれず、心が潰れるのではないでしょうか。
犯人が残した有名な言葉に、「人と話すって、いいね」がありますが、これほど人間の孤独と救済を表現したひと言もありません。
勝つことよりも愛を求めた犯人と、不幸な事件が起きるまで気付かなかった親と、どこかの過程で救われていたら、17人もの人が死傷することもなかったでしょう。
確かに、事件は個々の責任に違いありませんが、社会が無責任に勝者を礼賛し、またその風潮に何の疑いもなく乗っかる親がいる限り、同じような悲劇は何度でも繰り返されると思います。
【コラム】 年収300万円時代の社会と自分
【2009年2月14日 追記】
こちらに、大学教員の管理人さんによる、京都大学工学部工業化学科の学生にあてたメッセージを紹介します。
ぜひ全文をご覧になって下さい。
大学が果たすべき役割やエリート教育についての私の考えは,これまでにも書いてきた.
2000年12月15日(金)の独り言「学生へのメッセージ」には,次のように書いてある.ここで対象としている学生は,京都大学工学部工業化学科の学部生である.
『 君達は,少なくとも見栄えのする大学にいることは事実だ.数年先に,有名な大企業や中央官庁に勤めることもできるだろう.それは,世間一般の感覚でいうエリートコースに乗っているということだ.つまり,君達はどうやらエリートらしいのだ.では,なぜ君達はエリートになってしまったのか.そのために何か努力をしただろうか.京都大学の難しい入学試験に合格したから,という回答があるかもしれない.では,その難関を越えてきた大学生は,自分だけの力で合格したのだろうか.個々人については知る由もないが,一般的に言えば,有名私立学校や塾などで英才教育を受けてきた人が多いのではないか.そういう教育を受けるのには,ある程度の資金が必要だし,そういう教育を受ける機会が同年代の日本人すべてに与えられているだろうか.言い換えれば,たまたま生まれた家が良かったから,京都大学に入学することができたし,大企業でそれなりに出世する道も開かれているし,高級官僚になるチャンスもあるということではないだろうか.もちろん本人の努力や能力も必要だが,真に公平な競争を勝ち抜いてきたと言えるだろうか.
社会的に上流あるいはエリートと見られる階層にいる人々の子供は,より高い確率で一流大学に進む.これは調査から明らかな事実である.そうして,社会的階層が固定化されていくのだとしたら,これは既得権益みたいなものでしかない.勉強もろくにしないで一流と世間が思い込んでいる大学を卒業し,大企業に就職して楽な人生を歩みたいと考えている学生がもしいるとしたら,その精神は,天下り先の特殊法人などで税金を食い荒らす役人のそれとどう違うのだろうか.
日本でも外国でも,機会の均等など存在しない.それだからこそ,社会的に上流あるいはエリートと見られる階層に所属している人々は自覚を持って欲しい.高い地位に伴う道徳的・精神的義務をNoblesse Obligeというが,この感覚を学生諸氏には是非身に付けて欲しい.
ある人が偉い人には2種類あると言った.本当に偉い人と,偉くなってしまった人である.学生諸氏には,日本の将来を担う偉い人に是非ともなっていただきたい』
よく考えたら、2006年の時点では、ギリギリのラインが、まだ「年収300万円」だったんですね
今は、フルに働いても、年収200万円にも満たない層が激増しています。
いったいどこまで沈下するのか。
異常としか言いようがないです。