「心配性の人は、毎日、自分で自分をいじめていることをわかっていない」と、スー・ウイッティカーは指摘しています。
彼らは、自分で自分を毎日少しずついじめていることに気づいていません。たとえば、トイレに行きたくなっても行くのをがまんしているのは、自分で自分をいじめているのと同じです。
人間の体は理由があって疲れ、理由があって病気になるのです。したがって、体が要求していることを無視するのは、自分をいじめていることになります。心配するとストレスがたまります。不安を抱くときと同じように、体に影響を与えます。心配したり、不安になったりすると、血圧があがったりします。何かを心配している人のほとんどは、自分で自分をいじめていることに気づいていません。しかし、本当は知らず知らずのうちにそうしているのです。
心配事を人に話さず黙っていれば、逆に孤立していきます。かといって、心配事を一方的に話し続けても、まわりの人は逃げてしまいます。ですから、結局は孤立してしまうことになるのです。たとえ現実がそうだからといって、いつまでも他人の援助を拒み続けるのは、自分で自分をいじめていることになるのです。
自虐にはいろいろな形があります。直面している現実の出来事に関する情報がまったく(またはほとんど)ないとき、起こりうる最悪の事態を考えることがいかに自虐的かということを、わたしたちはほとんどわかっていません。最悪の可能性に焦点を当てることは、最悪の事態に備えているようで、じつは明らかに自分をいじめているケースにほかなりません。
わたしたちは、自虐にとても慣れてしまっているので、自分で自分をいじめていることにさえ気がついていません。それどころか、自虐を、懸念、関心、準備、計画などと思いこんでいるようです。哀れなことに、そうやって自分を虐待しているのです。
残念なことに、自分で自分をいじめるのに慣れてしまうと、いとも簡単にほかの人をいじめるようになり、また、そのことに気づくこともありません。
自虐に関しては、自分で対処できることがあります。しかしそれを実行するには、まず自分で自分をいじめていることに気がつかなければなりません。
悪いことばかり予想してしまうのは、自分で自分をいじめているにすぎません。この傾向を断ちたいのなら、まず、「悪いことを予想することは自分で自分いじめることである」ということを理解することです。
【コラム】 あなたが一番幸せになっても構わない
真面目な人ほど、楽しちゃいけない、幸せになってはいけない、と自分に言い聞かせているような気がします。
本当は一番幸せになるべき人が、幸せを実感しにくいのも、自分で自分に幸せを禁じているからかもしれません。
「あの人はあれだけ苦労しているのだから、私はあの人より幸せになってはいけない」
「楽するのは、いけないことだ」
誤ったメッセージを自分に出し続けていると、トイレを我慢するように、心も壊れてしまうという喩えです。
なぜ人は幸せになることに罪悪感を覚えるのでしょう。
それは、自分で自分を幸せにできない人が多いからだと思います。
ちょっとした発想の転換で、人はいくらでも幸せを感じることができるのに、物事の悪い面ばかり見て、いつも落ち込んだり、被害妄想に取り憑かれたりするタイプですね。
そういう人が近くにいると、自分だけが浮き浮きと幸せな気分でいることに罪悪感を覚えるでしょう。
喩えるなら、「コップの水が、もう半分しかない 」と嘆く人の傍らで、「コップの水が、まだ半分もある 」と喜べないのと同じです。
しかし、そうやって他人に遠慮ばかりしていると、自分の幸せな気持ちまで見失なってしまいます。
あからさまに馬鹿にするのはいけませんが、「自分から不幸になっている人」にそこまで気遣う必要はないし、自分一人が幸福に感じたからといって、誰かを傷つけるわけでもありません。(幸福そう、というだけで、妬む人はありますが)
自分の幸福感は、自分の中で大事にすればいいのです。
それが自然にできるようになれば、物事を悪い方に解釈して、くよくよ悩むこともなくなるし、自分は幸福になるに値する人間だと信じられるようになります。
自分で自分に鞭打って、自分からみじめな人間になる必要はないんですね。
「心配ごとの9割は起こらない」と言われているように、きっとそうだと思います。
この投稿は【何かを心配しているときにそっと開く本 (ワニ文庫)】から一部を引用しています。後半のコラムは管理人が執筆しています。