酒場がぼくの学校だった
バイロンという詩人が書きました。「酒場がぼくの学校だった」と。
文部省の作ったものを認可したものだけが学校なのではなく、ときには映画館が学校だったり、デパートが学校だったりすることもある。この5ページはぼくの考える〈もう一つの学校》として、諸君の意見とぼくの意見の対決によって作っていきたい。
たとえば、ぼくは「高校生のためのトルコ風呂入門」とか、「家出論」を説き、きみたちはそれに反発したり反論したりする。そのやりとりの中に、生きた「討論」を育ててゆく。
アタマでっかちにならず、いま興味のあることを、わかることばで書くことから始める。天才ガルガンチュア二代目は、便所で「尻の拭き方」だけを4種類も考案して学位論文を書いたのだ。
すぐれた入学者を待っている。
1973年5月号新連載スタート「ジ・アザー・ハイスクール」①より
どこで学ぶかより、何を知りたいか
現代はインターネットの普及もあり、「いつでも、何所でも、誰でも」が主流になりつつあります。
もちろん、学歴重視は依然として存在しますが、一方で、独学ブーム、e・ラーニングブームで、海外の学校を受講する事も容易になっています。今後ますます、「人と場所を選ばず」のブームは加速し、学歴の意義も変わってくるかもしれません。
多くの場合、「学び」と言えば、資格試験のように、仕事と収入に直結するものが重視され、人付き合いとか、絶望から立ち直る方法とか、心の学びに関しては、後回しにされがちです。また、現実社会の矛盾も、どう受け止め、消化すればいいのか、誰も教えてはくれません。それでもって、人生の幸不幸を左右するのは、案外後者の方なのです。
バイロンや寺山修司の指摘する「酒場の学校」は、後者について学ぶ場所です。
昼間の属性に囚われず、誰もが本音で話し合う、生きた勉強の場です。
現代は、そうした場は、かなり失われてきましたが、今でも、人との出会いが最大の学びであることは変わりありません。いい人はもちろん、意地悪い人、だらしない人、神経質な人、すべてが生きた教科書です。嘘つきに欺されても、それも一つの学びです。人の世で生きる限り、人間を知ることが、最も重要です。
学びにおいては、どこで学ぶかより、「何を知りたいか」にフォーカスしましょう。
自分の知りたいこと、生き方でも、恋愛でも、何でもいい、宇宙の真理でもいいし、生体のメカニズムでもいい、「これについて知りたい1」という気持ちが全ての原動力です。
自分の知りたいことも分からないのに、立派な学校に行っても、真の学びにはなりません。
それより、自分の知りたいことにひたすら向かいましょう。
たとえ、それが酒場でも、そこでの人間模様が処世の知恵を育むならば、最高の学校だと思います。