私が初めてPCを買ってネットに接続したのは’97年、自分でもフォーラムに投稿したり、掲示板に書き込みしたりするようになったのが’98年なのですが、当初は確かに新鮮で面白かったです。
うわー、ネットが普及したら、すごい時代になるなぁ、とも思ってました。
でも、いろんな経験を通して、すぐにそれは幻想だと気付きました。
少なくとも、「ネットユーザーが一つのウェブに結ばれ、社会全体が知的に向上する」なんてことはない。(当時はそう期待されていた)
結局、それぞれのレベル、価値観、趣味の合うもの同志が群れを無し、お互いに棲み分けるようになるだろう。
一部で言われていたことが、その通りになったような気がします。
人間は、自分に理解できることしか理解しない。
解らないことは、ほぼ永久に解らないし、興味のないものは、ほぼ永久に興味がない。
いろんな情報が氾濫すればするほど、自分に理解できるもの、好ましいと感じるものへと、引き寄せられていくのが現実かもしれません。
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それでも、2002年ぐらいまでは「期待」というものがあって、私もネットという文字だけの世界で誰かを理解しよう、理解してもらおうと、頑張ったことがありました。
お相手に切々とメールを書いたり、フォーラムでこんこんと言い聞かせようとしたこともあります。
でも、ある時、そういう自分を非常に不毛に感じて、このモヤモヤに答えてくれる人はないものか、と、いろんなウェブサイトを訪ね歩いていた時、ある旅行者のブログを見つけました。
その人もやはり見ず知らずのユーザーからメールをもらうことが多く、最初の頃はいちいち馬鹿丁寧に返事していたけど、ある日、こう悟ったそうです。
分からない人には、何を言っても分からないし、
分かる人には、何も言わなくても分かるんだよ。理屈で人を変えることはできない。
「世界旅行者のみどりのくつした」こと、西本健一郎
非常に納得しました。
いろいろ返事を書きながら、「こういう風に考えてくれないか」「こういう部分を理解してくれないか」と、やはり相手に期待するし、変わることを望んでる。
そうだわ、理屈で人を変えようとしてたんだわ、と。
そう思ったわけです。
そんでもって、分かる人には何も言わなくても分かるし、分からない人には何を言っても分からない。
世の中、本当に話し合いで解決し、恨みっこ無しにできるなら、もっと住みやすい、生きやすい社会になってるはずですよね。
にもかかわらず、「話せば、わかってくれる」「話し合えば、理解しあえる」と期待するのは、幻想なのだと。
もしかしたら、100人中、1人か2人は、目が覚めたような気持ちになって、突如、それを理解するかもしれないけれど、大半はそうじゃない。
分からないものは、どこまでいっても分からないし、分かる人は、一言いえば百のことを理解する。
「どちらが正しい」という問題ではなく、もともと、人間というのはそういうものなのだと思います。
学校でも、30人の生徒に物を言って聞かせても、本当に理解するのは数人でしょうし。
それを「言えば解る」「私たちは解り合える」と期待するところに、人間関係の悲劇があるんじゃないでしょうかね。
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恋愛中の女の子で、「私の傷ついた気持ちを、ぜひ彼に知ってもらいたい」「私のこの痛みを知れば、彼もきっと優しくしてくれる」と期待してメールを書く人も少なくないでしょう。
うざい、重い、メールを送りつけて、結局、嫌われるのは、たいがいこのタイプだと思います。
心の底から切実に訴えかければ、相手が自分の痛みを我が事のように理解し、受け止めてくれる。
いわば、メールという「理屈」で、彼の心を変えようと、試みるわけですね。
中にはそれが功を奏すケースもあるかもしれない。
でも、合わないものはとことん合わないし、合わないからギクシャクしてるわけで、それに追い打ちをかけるように「私の痛みを分かって~」と押し迫っても、それはもう火に油を注ぐようなもの。相手にしてみたら、ヘビやイモリの入った葛籠を送りつけられるようなものですよ。
もちろん、自分の気持ちを正直に伝えるのは大事。
でも、伝えるだけ伝えたら、あとは離す。
「人と話すって、いいね」 悩みは話す(離す)ことで道が開かれるにも書いてますが、いったん、メールに書くなり、電話でぐちぐち話したら、その暗いこだわりは心から手放す。
あとは、どう感じようと、あなたのお好きなように。
この余裕を持たないといけません。
理屈で人を変えることはできないのですから、言うだけ言ったら、その後、相手が重荷に感じようが、てんで無関心になろうが、気にしたらいけない。
どう感じようと、相手の自由なのですから。
そこで「どうして私の気持ちを解ってくれないの」と強要するから、余計で鬱陶しくなるんですよね。
それは恋愛に限らず、育児でも、職場でも、すべての人間関係において同じだと思います。
「相手がどう感じるか」まではコントロールできないのですから、自分でコントロールできない部分まで、我が力でどうにかしようと気張ったら、それは火種にしかなりません。
我が力でコントロールできるのは、「自分がどう感じるか、どう考えるか」の部分だけなんですね。
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正直に話して、わだかまりを離す。
後で相手がどのように感じようと、それはあなたのご自由に。
だって、理屈で人を変えることはできないのだから。
このように達観すれば、しんどい、苦しい恋愛も、だんだん楽になると思いますよ。
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世の中、いろんなニュースサイトやブログがあって、私もあちこち見てますけど、誰が、どんな立派な発言をしようと、分かる人には分かるし、分からない人には永久に分からない、
というより、興味がなければ見ない、
育児書と同じで、本当に読むべきバカ親が読まず、もう十分頑張ってるようなママが「ああ、ここに書いてあるダメな母親って、私のことだわ」と必要以上に自分を責め、涙する為にある、
あれと同じで、
有益な発言も、届くべきところには全く届かない、
情報の海というよりは、「同じ穴のムジナ」ワールドが無数に点在する世界が続いていくのかもしれません。
↓ 以下、クリップ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/40354
内田 匿名の人たちがネットで発信する言葉が過剰に攻撃的なのは、裏に無力感があるからなんですよ。どんな大声で叫んでもワンクリックで消されてしまう。自分の素顔も肉声も、どんな人間であるか誰一人知らないまま消されてしまう。その無力感のせいで、それだけ声が大きくなり、言葉づかいが激しくなる。
養老 人間にとって、一番便利な表現は怒りなんです。共同体の中で誰かが怒っていたらそれを鎮めるために、真っ先に対応される。これは生存戦略の一つで、赤ちゃんが泣くのと一緒なんだ。
内田 日本人全員が赤ちゃんのように駄々をこねたら、もうおしまいですけど、未成熟で幼稚な人間が増えている一方で、別のかたちの、これまで知られていなかった知的な運動も出現してきているように見えます。
こちらのサイトも量が膨大なので、どこに書いてあったか、まったく記憶がないですが、この方の一文です。