なぜ自尊心が幸福の基本なのか
「自尊心」は、しばしば「自信過剰」「傲慢」と勘違いされますが、自尊心とは文字通り、自分自身を尊ぶことを意味します。その中には、人間としての権利や社会的役割も含まれます。
では、なぜ自分という人格を、自分自身で尊ぶことが、幸福の基本となるのでしょうか。
そこで一つのエピソードを紹介します。
A子さん(36歳)は、職場のリーダー格で、上司や関係部署の信任も厚く、仕事もきっちりこなすと定評があります。
しかし、数年前、きっちりした性格がネックとなって結婚生活が破綻し、夫から離婚を告げられたことが大きな心の傷になっていました。
頭では能力も信頼もあるのは分かってるけど、「離婚を言い渡されたこと」がいつまでも心の負い目になり、自分というものを高く評価することができなくなっていたんですね。
仲間内で外食の話題になった時、A子さんがこんなことを口にしました。
「一流レストランに行くと、食事の合間に、ウェイターさんが箒みたいな道具をもって、テーブルの上のパン屑を掃除しに来るでしょう。ああいうことをされると、『この子は食べるのが下手だ』と言われてるみたいで、すっごいムカつく」
一同、「えっ?!」と顔を見合わせ、「それは考えすぎじゃないの。ウェイターは綺麗なテーブルで気持ちよく食事できるよう、配慮しているだけだよ」と仲間が言いましたが、自尊心が低下して、「いつも誰かに非難されている」 「皆、心の中では、私を嘲笑っている」という思いに取り憑かれると、ウェイターの気遣いも「まるで私を責めるが如く」に感じるのかもしれません。
いつもいつも、そんな物の見方では、誰に、何を言われても、悪い方にしか取らないし、あの人もこの人も信じられない、ご飯を食べる時さえ、いつも人目が気になって、箸使いの一つ一つから気を遣わないといけない、もう、神経が磨り減って、心の中では死んでしまいますよね。
そして、実際、仕事ぶりもそうでした。
良い方に解釈すれば、いつも誰かに非難されているような気がするから、仕事もきっちりこなせるわけですが、見方を変えれば、ほとんど強迫観念で仕事をしているようなものです。ノーミス、期限厳守で、周囲は大満足かもしれませんが、本人にとっては毎日が生き地獄ですよね。
だって、いつも誰かに非難されているような気がするから、ミスを防ぐわけで、新幹線の整備士みたいに、「人命を第一に考える」という高い社会意識からそうしているわけではないからです。
分かりやすく言えば、A子さんにとってノーミスは人に非難されない=周りに高く評価される為の手段であって、それを維持する為には、常に完璧でなければなりません。新人のBさんみたいに、ちょっとコピーの仕方を間違えても、「テヘ・ペロ」で許されて、周りも「Bさん、気ぃつけや」みたいに気軽に注意することもできない。毎日が緊張、毎日が評価です。
新幹線の整備士みたいに、誰に褒められなくても、「今日も無事に運行。がんばったぞ」みたいな達成感は何をしても得られないでしょう。
それでも周りに「仕事の出来る人」と評価されたら、幸せなのでしょうか。
私にはそうは思えません。
一流レストランに行っても、ウェイターが来る度に、「行儀の悪い女性と思われているのではないか」と、びくびくしながら食事して、楽しいでしょうか。
たとえ口の周りにクリームが付いても、美味しい、美味しいと、喜んで食べて、「あんたはほんまにケーキが好きやなぁ。そんなに好きなら、また連れて行ってあげるわ」って、仲間に微笑んでもらえるほうが嬉しいでしょう。意地悪な他人が「うわ、あの子、口の周りにクリームが付いてる」と後ろ指を指しても、仲間にはケーキ好きな子と愛されて、皆に気持ちよく誘ってもらえる方がはるかに幸せですよ。
そんな風に、自尊心が低下して、何をしても、何を得ても、自分を肯定することができず、他人の親切さえ悪い方に解釈する心の癖がついてしまうと、自分自身はもちろん、他人のやることも許せなくなり、何かと批判的な態度が身に付くようになります。
その為に、ますます周囲に敬遠されて、愛が得られなくなっていくんですね。
A子さんには、なぜ、おっちょこちょいのBちゃんの方が職場で可愛がられるのか、理由も分からないでしょう。
そして、自分もBちゃんみたいになりたいと思って、ますます仕事を頑張ってしまう。
その結果、昇進しても、今度は「課長」というポジションに完璧を求め、さらなる緊張と努力が待っています。
その次は部長。その次は取締役。
得ても、得ても、自分に満足することがない、蟻地獄のような日々です。
果たして、そんな人生が幸せでしょうか。
でも、自尊心が低下して、その意味が分からないと、そうなっていきます。
恐らく、A子さんも、子供時代から、本当の自分自身ではなく、「いい子」であることを求められてきたのでしょう。そして、離婚を言い渡された時も、周りに同情されるのではなく、「せっかく、いい縁談を世話してもらったのに」みたいに責められたのかもしれません。
このように、自尊心が低下すると、全てのものが敵に見えて、一時も、心の平安を得ることはありません。
何を得ても、自分を肯定することができないので、常に競争の中で生きていくことになります。
こんな生き方では、いずれ自分自身を見失い、不平不満の中で人生も終わってしまうでしょう。
「あなたは、あなたのまま、そこに居ていいんだよ」という安心感
子供を本当に幸せにしたければ、能力よりも、何よりも、まずは自尊心を育むことです。
自尊心を育むことなく、型通りの躾や目に見える成果を求めても、子供は何を基準に自分自身を肯定すればいいのか分かりません。
親や周りの大人から「あなたは、あなたのまま、そこに居ていいんだよ」という愛のメッセージが得られないので、親の設ける基準が全てになってしまいます。
ご飯を食べる時も、ピアノを弾く時も、ありのままの自分を認めてもらうことができないので、何をしても楽しいとは思えません。
ご飯をこぼしたり、キーを間違えたりすると、きつく叱られるので、いつも緊張を強いられます。
たとえ苦手な教科で80点をとっても、100点でなければ親に納得してもらえないので、95点でも自分を責めたり、不満に感じたりします。
大人になっても、こうした性向を引き摺って、いつも満たされない、いらいらした気持ちで過ごしている人は少なくありません。
勉強ができさえすれば、クラスの人気者になりさえすれば、子供も自信をつけて、何事も積極的に、幸せに生きていくだろう……とういのは親のおめでたい思い込みであって、幼いうちに、「ありのままの自分でOK」という肯定感が得られないと、そこから先の人生は、やっても、やっても満たされない、蟻地獄のような暮らしになっていくんですね。
小さい頃、母親に「バカね」と言われることは、世界中の人に「バカね」と言われるのと同じこと
著名な心理学者である加藤締三氏は、著書『愛される法則 ~愛はこんな小さなことで確かめられる』でこんな風に書いておられます。
小さい頃、母親に、「いい子ね」と言われることは、
世界中の人に、「いい子ね」と言われるのと同じこと。
小さい頃、母親に、「バカね」と言われることは、
世界中の人に、「バカね」と言われるのと同じこと。
小さい頃の母親の「嫌な子ね」の一言は、世界中の人の言葉。
だから大人になって、世界中の人から賞賛を浴びても、
劣等感に苦しんでいる人がいるのである。
「バカね」という直截な言葉を使わなくても、「あなたのここがいけない」「もうちょっとこうだったらいいのに」という無意識のメッセージを出している親は、案外多いと思います。
たとえば、「うちの子は、友達と仲良く遊ぶのが苦手だ」ということを気にかけて、子供と一緒に公園に出掛けても、
「よその子は、みんなと楽しそうに遊んでいる。うちの子も、あれくらい、明るく積極的になればいいのに」
みたいなことを、いつも考えている。
そして、子供が一人で黙々と砂場で遊び始めると、「どうして、ほかのお友達と一緒に遊ばないの?」と詰問する。
「だって、砂遊びの方が楽しいんだもん」と子供が答えても、
「そんな調子では、小学校でいじめられますよ」と子供の手を引っ張って、無理矢理、よその子と遊ばせようとする。
そして、子供が上手く遊べないと、「こうしなさい、ああしなさい」と説教するか、これみよがしに溜め息をつく。
たと口に出さなくても、「あなたに失望している」というのが丸分かりです。
何かにつけて、そんな風では、子供は自分を肯定することができません。
一人遊びが好きなのも、その子の個性なのに、「他の子と上手に遊べない自分は駄目人間」と感じながら生きていくことになります。
自尊心の低下は、こうした負のメッセージの積み重ねなんですね。
育児の基本は、You are OK .
それは何をしても許される、という意味ではありません。
上記のケースなら、「友だちと上手に遊べない、内気で、ぶきっちょなあなたも大好きよ」と、子供の個性をまるごと受け入れ、愛することです。
「子供は友だちと仲よく遊ぶべき」
「努力家で、成績は常に上位であるべき」
「男の子はスポーツが得意であるべき」
その子自身の個性を無視して、親の杓子定規に当てはめることが間違いなのです。
親の肯定によって育まれる自尊心は、辛い時に落ち込んでも、周りに誤解されても、「私は私。誰がどのように評価しようと、私は愛されるに値する人間だ」という気持ちを支えます。
自分を信じる気持ちがあれば、失敗しても挽回しますし、周りの目も気にせず、自分の好きなことをして生きていくことができます。
能力やキャリアに優れても、周りに侮られるまい、落ちぶれるまいと、常に自分を駆り立て、緊張の毎日を送るのと、どちらが幸せでしょうか。
自尊心は、人が人として生きていく為に不可欠な自己肯定の気持ちであり、人生の屋台骨です。
親が子を否定すれば、人生の屋台骨も崩れるのです。
メールマガジン『コラム子育て・家育て』より】
初出 2007年8月1日
なぜ外国には堂々と意見できる人が多いのか ~日本の謙遜文化が子供の心を圧迫するのでは?
余談です。
近頃は海外移住者も増え、SNSなどで積極的に発信している人も多いので、海の向こうの人がどんな感じか、日本に居ながらも身近に見聞きする機会が多いと思います。
あるいは、日常的に出会う外国人観光客を通して、彼等の押しの強さや、まったく物怖じしない態度(悪く言えば、ふてぶてしい)に、目が点になる人も少なくないのではないでしょうか。
私が初めてアメリカに行った時、一番びっくりしたのが、親同士の「我が子自慢大会」です。
「うちの子はピアノが得意なの。音楽の才能があるのよ」
「うちの子は絵が得意なの。先生にいつも褒められるのよ」
「ブラボー、ナタリー! お前は我が家のスターだ!」
日本でこんな事を口にしたら、即行で、仲間はずれにされますよね。
「自慢話ばかりで、ムカつく」
「あの子のどこがエマ・ワトソン似なの? バッカじゃないの」
影でボロカス言われるのが目に見えているから、親同士の会話になると、わざと我が子のことは60点ぐらいに値引いて話す人も少なくないのではないでしょうか。(心の中では満点と評価していても)
実際、日本には、海外では信じられないような謙遜の言葉がいくつも存在します。
「つまらぬものですが」
「うちの愚息が」
「拙い作品ですが」
3万円かけて買った贈り物でも「つまらぬもの」と言い、外務省に勤務する自慢の息子でも「うちの愚息が」と謙遜する。
エレクトーンのコンテストで入賞するような腕前でも、「大したことないですから^^;」と謙遜して見せなければならない日本社会って、どこか感覚がおかしいと思いません?
少なくとも、令和の時代においては、もう古いと感じます。
若い子も、自分の長所や得意技を堂々と語る強さがなければ、とてもこの世で生き抜かれないですよ。
しかし、幼い子供には、大人の謙遜は理解できません。
家の中では、「いい子だね、すごいね」とベタ褒めてくれるのに、よそのお家に行くと、途端に「うちの子、好き嫌いは多いし、言葉も遅いし」と言い出して、子供にしてみたら、親の手の平返しに戸惑うし、人前で欠点ばかりあげられて、恥ずかしいですよね。
そうかと思えば、親同士で牽制し合って、子供が本音を口にすることを許しません。子供が「このお菓子が欲しい!」と思っても、常に周りの空気を読んで、「自分の意思や欲求は後回し」という態度を教え込みます。
これでは自尊心など育つはずがありません。
自己主張さえ難しいでしょう。
その点、日常的に親や周りの大人から「ブラボー、ナタリー」「あなたの自慢のピアノを聞かせてあげて」とヨイショされて育ったら、どんな子供も安心して自分の個性や能力を発揮できますし、「私は私のまま、ここに居ていいんだ」という自己肯定感も育ちます。
その結果が、堂々と自己主張する文化です。
彼等の基本は、「あなたはNoと言っていいし、私もNoと言う」。
自尊心と他尊心の共存です。
常に周囲との和を保つ為に、時には自分の気持ちも犠牲にする日本人とはまったく違う価値観ですよね。
もちろん、外国にも心の病はありますけども、日常レベルで心を病む確率は日本の方がはるかに高いと思います。うっかり「イヤ」とも「欲しい」とも言えない。常に周りに気を遣って、時には、真逆のことを口にすれば、誰でも「自分は尊重されてない」と感じ、自己無価値感に陥るのが当たり前でしょう。
ただでさえ社会全体がそうなのだから、家の中まで同じ調子では、心が壊れるのも早いと思います。
せめて家庭においては子供の意思を尊重し、感じたり、考えたりしたことを、伸び伸びと口にできる環境を作ってあげて欲しいなと思います。
(行いの良し悪しとはまた別)
親が、自分自身のことを幸福と思えないのに、子供にどうやって幸福を教えるのか
育児系メルマガにしては、ちょっとハードな内容に感じられたかもしれませんね。
私は、今回、創刊するにあたって、「他の人が書かないような育児の話を書こう」と思って、いろいろ草稿を練っていました。
「親としてどうあるべきか」なんて話は、わざわざこんなメルマガを購読しなくても、巷にあふれかえってますし、親である皆さん自身が一番よくご存知だと思いますのでね。
そうではなくて、もっと根源的な話――自我に訴えかけるようなものを……と考え、「子供どうこう」の前に、「あなた自身はどうなの?」というコンセプトに決めた次第です。
子育て歴3年の私がこんな事をいうのもなんですが、すべての鍵は、「親が健全な自尊心を持っているかどうか」、この一言に尽きると思います。
親の、自分自身に対する不信、不安、嫌悪感、空しさといったものは、必ず相手=子供に投影されて、能力も協調性もあるけれど、自分に自信がもてず、いつも不安な子供を作ってしまうんですよね。
スポーツやら勉強やら、どんどん詰め込んで、「出来る子」に仕立て上げても、健全な自尊心を欠いたところに幸せな花は開かないです。
そして、その自尊心のモデルというのは、親に他ならないんですよ。
私がこういう事を言い切ってしまうのも、私の周りにいた人達がそうだったし、私自身も同じ罠にはまって、もがき苦しんだ経験があるからなんです。
そういう悪い輪廻を孫の世代まで引きずらない為にも、私はやはり、親が自分自身をきちんと見つめて、健全な自尊心を育むことから始めるべきではないかと思うんですよ。
親が、自分自身のことを幸福と思えないのに、子供にどうやって幸福を教えるのかな、と。
そんな訳で、私は、「子供をどうこう」の育児ネタではなく、「そう言う、あなた自身はどうなのヨ」の視点から綴っています。
「健全な自尊心」と「心の幸福」については、また続編で詳しく書いていきますので、興味のある方は、ぜひにお付き合い下さいね☆
コラム子育て・家育て : あせらず、あわてず、あらそわず 【第2号 母親である自分が好きですか】 初稿 2007年7月30日