映画『塔の上のラプンツェル』 あらすじと見どころ
塔の上のラプンツェル(2010年) ーTangled (もつれた、絡み合った、の意味。長い髪とトラブルを掛け合わせて)
監督 : バイロン・ハワード(ポカホンタス、ムーランなどを手がける)、ネイサン・グレノ
吹替え版 : 中川翔子(ラプンツェル)、畠中洋(フリン・ライダー)、ゴーテル(剣幸)
あらすじ
ある国に、立派な王と王妃が幸せに暮らしていました。
ある時、王妃が重い病気にかかり、王は家来に、どんな病気やケガも治してしまう『金色の花』を手に入れるよう命じます。
『金色の花』の魔法で王妃は元気を取り戻し、可愛い女の子を産みますが、魔法を独り占めにして、永遠の命と若さを保っていたゴーテルは、魔法の力を髪に宿した娘ラプンツェルを誘拐し、高い塔の天辺に閉じ込めてしまいます。
何も知らないラプンツェルは、ゴーテルを実の母と慕い、カメレオンの友だち・パスカルを相手に楽しく暮らしていましたが、どうしても外の世界が見たくてたまりません。
しかし、ゴーテルは外の世界がいかに危険か言い聞かせ、決してラプンツェルを塔の外に出そうとしませんでした。
ある日、追っ手に追われた大泥棒のフリン・ライダーが塔の中に忍び込み、ラプンツェルの願いを知って、塔の外に連れ出します。
しかし、魔法を独り占めしたいゴーテルは、プンツェルを取り戻すべく、恐ろしい罠を仕掛けます。
フリンはラプンツェルを救い出し、自由の身にすることができるでしょうか。
そして、二人の恋の行方は……?
見どころ
本作は、「支配する毒親」と「支配される子供」の葛藤を見事に描き、子供が自立するには、親との対決が不可欠であること説いています。
『高い塔』は、親の価値観の象徴であり、そこに囚われたラプンツェルは、それ以外の世界を何一つ知ることができず、不満をつのらせます。
そんなラプンツェルの限られた世界に飛び込んできたのが、大泥棒で、冒険家のフリンです。
自由闊達なフリンは、ラプンツェルの願いを聞き入れ、外の世界に連れ出してやります。
いわば、 「他人」との出会いが、ラプンツェルの人生を大きく変えるわけですね。
しかし、本作の好ましい点は、ラプンツェルが決してゴーテルを憎悪しているわけではなく、娘らしい慕情も持ち合わせていることです。
物語の終盤、魔法の力を失い、永遠の命も終わりを迎えた時、ゴーテルに救いの手を差し伸べようとするラプンツェルの行動を見れば分かります。
どれほど憎み合っても、親子は親子。
ラプンツェルの愛と優しさが、本作の最大の魅力ではないでしょうか。
また本作は吹替え版も素晴らしく、中川翔子さんはもちろん、宝塚出身の剣幸さんの声の演技と歌唱も絶品。
ディズニーらしい明るさと、テーマの奥深さが感じられる、おすすめの逸品です(アナ雪より100倍よろしい)
毒親はいかに子供の心を支配するか
娘を支配する母親
『毒親』とは、「自身の願望や不満を『あなたの為』に置き換えて、子供を通して自己実現しようとする親」です。
たとえば、ピアニストになれなかった親は、娘をピアニストにしようと躍起になるし、学歴コンプレックスのある親は、娘を一流大卒にしようと必死になります。
夫の愛を得られなかった母親は、息子に異性愛を求めるようになりますし、実親(祖父母)に対する不満を我が子にぶつける親もいます。
子供にとっては、まさに人生と心を害する『毒』。
しかしながら、毒親は我が子を自分の一部のように思っているので、非常に優しい一面を持っています。
それが殴る・蹴る・食事を与えない、虐待系親との違いです。
本作のゴーテルも、決してラプンツェルを虐待しているわけではありません。
むしろ、過保護なくらいで、ラプンツェルの望むものなら、お菓子でも、髪飾りでも、何でも与えます。
しかも、他より利口なので、毒親の言うことは何でももっともらしく聞こえます(知能的には一般人より優秀な事もあります)
だから、子供は、毒親が人生の敵なのか、味方なのか、分からなくなって、混乱するんですね。
ラプンツェルも、「十八歳の誕生日に、どうしても空飛ぶランタンを見に行きたい」と懇願しますが、ママ・ゴーテルは優しく歌って聞かせます。
あなたはとてもか弱いの。
わかるでしょ。なぜ外に出さないか。
あなたを守ためなの。
信じて、あなたの為なのよ。
信じなさい。お母さまを。外は危ないわ。
信じなさい。危険なものがうようよしてる。ああ、怖いわ、心配なの。
ここにいれば守ってあげる。何があろうと。
すべて解るのよ、母親は
あなたはまだ赤ちゃん。大人じゃないんだから。
泣き虫、裸足、
幼稚で、ドジ、
えじきになるわ世間知らず。すぐ騙される。常識なんかゼロ。
だから言う事を聞くのよ。
『お母様はあなたの味方』
毒親は、実に巧妙に、子供の欠点をあげつらいます。
子供も思春期になると、「自分はクラスメートに嫌われているのではないか」「他の子に比べて太りすぎではないか」等々、周りとの違いや優劣について気にするようになります。
まして、十代の子供には、「人間なんて、この程度」という事が分かりませんから、たとえば、人気モデルやYouTuberが世界の氷人と思い込み、そうなれない自分を恥じたり、責めるようになります。
毒親は、そうした子供の弱みにつけ込んで、子供を無力化し、生きる意欲や考える力を奪って、自分に服従させます。
「あなたの考えより、お母さんの方が正しい」
「お母さまはいつでもあなたの味方。塔の外に出たいなんて、もう言わないで」
みたいに。
そして、やぱり、子供はお母さんが大好き。
自分の親に、不満や疑問を抱いて、嫌いになりたくない。
だから、親の言うことは、たとえ無理難題であっても、従おうとします。
親の言うことが正しい、間違っているのは私の方だと自分自身に言い聞かせ、ついには、オカシクなってしまうのです。
娘はライバル ~娘より私の方がイイ女
また、毒のある母親にとって、娘は自分の存在を脅かすライバルであり、心の底では、娘より自分の方が「イイ女」と思っています。
白雪姫の継母みたいに、いつ美しく成長した娘が自分のポジションに取って代わるか、気が気でないので、娘の反抗心や自立心を削ごうとします。
娘は、美しい人形と同じ。
周りが「綺麗なお人形さんね」と褒めてくれたら嬉しいけども、人形が自分に取って変わって、周りの称賛や愛情を横取りするのは許せないんですね。
本作でも、ゴーテルがラプンツェルと一緒に鏡を覗き、「見てごらん、何が見える? 若くて、自信に満ち溢れた、若い女性」と、うっとり語る場面があります。
ラプンツェルに言ってるように見えて、その実、自分自身に語りかけています。
毒親は、どんな時も、自分自身しか見ておらず、娘がどれほど傷つこうが、気付きもしないのです。
毒親は子供に賞罰を同時に与える
毒親は、子供に賞罰を同時に与えます。
「私、そういうの大嫌いなの。ぺちゃぺちゃ、まったく腹が立つ」
「冗談よ、可愛いわね、あなたのこと、だ~い好きよ」
みたいに、褒めながら、けなします。
子供には、どちらが親の本心か分かりません。
愛されているのか、嫌われているのか、親の態度に振り回されるので、心の安定を欠き、しまいにオカシクなってしまうのです。
本作のラプンツェルの戸惑いの表情も秀逸です。
こうした描写に、作り手の深い洞察を感じます。
自立する娘の歓びと後悔
ゴーテルという毒親に支配されるランプツェルも、偶然、塔の中に忍び込んだ大泥棒フリン・ライダーに刺激され、自力で塔の外に脱出します。
この場面で歌われる歌詞も、複雑な子供心を非常によく表しています。
これが自由、何て素敵。
とうとう外に出たわ。信じられない。
お母さまはきっとかんかんね。
でも別に構わない。バレなきゃ平気だもん
意気揚々と歌った後で、
ああ、どうしよう、おかあさまが悲しむわ。
私って、ひどい子よね。戻らなくちゃ』
と、死ぬほど自分を責めます。
しかし、再び自分を肯定する。
いいえ、絶対に戻ったりしないんだから
でも、やっぱり落ち込んでしまう。
私、本当に最低の人間よ
傍から見れば、「どうして、そんなに自分を責めるの?」「イヤならイヤと、はっきり言えばいいじゃん。どう生きようと、自分の人生でしょ」と思います。
しかし、これが毒親に支配された子供の心理です。
本音は抗いたい。
でも、お母さんを傷つけたくない。
悪いのは、私。
自立と自責の狭間で、子供はひどく苦しむんですね。
そんなラプンツェルにフリンは優しく言います。
君、自分の心と戦ってるんだね。
あまりに過保護な母親と許されない旅。
でも思い詰めることはないさ。
大人になる道なんだ。ちょっとした反抗、ちょっとした冒険。
いいじゃないか。健全なことだよ。
君はちょっと考えすぎてるんだ。
親がそんなに大事か?
もちろんお母さんの胸は悲しみで張り裂けるだろう。
だが、君はやらなきゃならないんだ
これが本作の核となるメッセージです。
作り手の願い、励まし、祈りなど、全てが詰まっています。
そして、フリンのひと言で、ラプンツェルも、100パーセント全開とは言わないけれど、冒険への第一歩を踏み出します。
そして、様々な出来事を経て、ついにラプンツェルは赤ん坊の時にゴーテルにさらわれたプリンセスだと悟ります。
母と娘の対決 : それでも私は闘い続ける
真相を知ったラプンツェルは、毒親ゴーテルと正面から対決します。
ラプンツェル : 私は消えたプリンセス!
ゴーテル : すべてはあなたを守るためにしたこと
ママ・ゴーテルが守りたかったのは、ラプンツェルの幸福ではなく、自分の若さとプライドです。
こんな場面でも自己の正当性を主張し、決して間違いを認めようとはしません。
そんなラプンツェルは一生分の勇気を振り絞って言います。
生まれてからずっと隠れて生きてきた。
私の力を利用しようとする悪い人たちから。
でも、私を利用していたのは、あなただった。外は怖いなんて、みんな嘘だった。
あなたにはもう二度と髪の力を使わせはしないわ!
ここでいう「髪の力」を、「娘の実力や美しさ」と置き換えれば、分かりやすいです。
つまり、「お母さん、私の素質や実力を、あなたの自己実現の為に利用しないで」という叫びです。
すると、ゴーテルは言い返す。
『私を悪者にしたいのね』
これが毒親の逃げ口上です。
親が突然、被害者になり、親を悪者と責め立てる娘こそ『悪』と決めつける。
そうして、子供にいっそう罪悪感を抱かせ、自立の芽を摘みます。
ここで、この台詞をもってきた脚本家の力量も凄いです。
しかし、ラプンツェルも負けてはいません。
いや、絶対に止めない。これからも戦う。
これから先も生きてる限り、ずっと逆らい続けるわ。
あきらめないわよ。どんなことをしても逃げ出してみせるから!
毒親に対しては、訣別する勇気をもつ以外、塔の外に抜け出す方法はありません。
親という高い塔に囚われたラプンツェルは、たとえ親を傷つけ、悲しませることになっても、全力で対抗しようとします。
でも、それは、フリンが言ったように「誰もが通る道」だし、ラプンツェルにもラプンツェルの人生があるんですね。
それでも親を愛する子供の優しさ
全力で毒親に抗ったラプンツェルは、ついに自由と人生を手に入れ、愛するフリンと結ばれます。
だからといって、毒親のゴーテルを完全に見捨てることはしません。
娘と争ったゴーテルは、カメレオンが引っ張ったロープに足を取られて、塔の窓から真っ逆さまに墜落しますが、ラプンツェルは必死に手を伸ばし、ゴーテルを助けようとします。
あれほど自分を苦しめ、傷つけた、毒親であるにもかかわらず、です。
魔法の力で永遠の若さと美しさを保っていたゴーテルは、ラプンツェルの髪が切れた途端、醜い老婆になりますが、死体がどさっと地面に投げ出されるのではなく、塵となって消えてしまう演出に作り手の心遣いを感じます。
ラプンツェルが親を突き落としたとなれば、後味が悪いですが、途中で魔法が解けて、塵に戻ったのであれば、納得がいきます。
「お母さん」と思っていた人は、とっくに死んでいた悪い老婆であり、元々が塵みたいな存在なんだ。
だから、こんな悲しい結末でも、決して自分を責めてはいけないんだよ、と。
【コラム】 毒親は死ぬまで変わらない
毒親に人生を狂わされるタイプの人は、得てして、心が優しいものです。
真面目で、共感性が高く、他人の痛みを自分の問題のように受け取めてしまう。
親の期待や不満を、そっくり自分の中に取り込んでしまうので、余計でがんじがらめになりやすいです。
世の中全体を見れば、意地悪で、鈍感で、何も考えない人の方が、人生も人間関係も上手くいきやすいように、なまじ優しい心に生まれついてしまった子供は、人一倍、苦しむことになります。
また、そういう心優しい人は、反抗して、相手を傷つけるより、相手が変わることを忍耐強く待ち続けるので、余計で心を壊しやすいです。
たとえ親でも、人間なんて変わるわけが無いのに、いつか気づいて、直してくれるのではないか……と期待してしまうんですね。
しかし、親子といえども、人は人。
所詮、一体のものにはなり得ません。
そして、これから、どちらが長い人生を生きていくかといえば、子供の方が圧倒的に長いです。
本当に自由と幸福を手に入れたければ、ラプンツェルのように、全力で戦う以外に他ありません。
戦えば、当然、自分も傷つくし、相手も傷つきます。
でも、綺麗事を並べても、物事は決して解決しないんですね。
誰の人生も、挑戦、内省、やり直し……の繰り返しです。
最初から最後まで、自分が正しい! と確信しながら生きる人もありません。
もし、そんな人がいるとしたら、それこそ本物の悪党であり、独裁者でしょう。
でも、多くの人は、それほど利口でもないし、善人でもありません。
一つ、試みては失敗し、失敗しては反省し……の繰り返しです。
親子対決も、その一つ。
これが正解というものはなく、あれこれ試してみて、「結果的に良い思い出になった」というケースが大半でしょう。
ですから、あなたも自由と平和が欲しいのであれば、自分で考えたなりに戦えばいいのです。
その結果、自分も、親も、傷ついたとしても、それはそれ。
世の中には、時間と経験が解決してくれることも多いです。
くよくよ考えても、時間が過ぎていくだけ。
過ぎ去った時間と若さは、どうにも取り返しがつきません。
思う通りにできるのは、自分の行動だけです。
フリンが言うように、これは誰もが通る道。
くよくよ悩んでいるとしたら、一度、ラプンツェルのように、塔の外に飛び出してみてはいかがでしょうか。
2015年10月27日