【寺山修司の短歌】 マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし
身捨つるほどの 祖国はありや
《ロング・グッドバイ 寺山修司詩歌選》 講談社文芸文庫
有名な寺山修司の短歌だが、なぜ私はこの時、作者が煙草を吸い、その銘柄は何だったのかと考えるのだろう。
ピース? ハイライト? まさかチェリーということはないだろう。
そして、その海が、なぜ青森だと思うのだろう。
しかも、時間は『夜』で、テトラポッドのある海岸だと。
ちなみに、有名な著述家にして、思想家でもある某氏が、『身捨つるほどの 祖国はありや』などという若者は信用できない、みたいな事を言っていたが、どうして『祖国』は祖国だと鵜呑みにするのだろう。
たまたま、そこに『そこく』がはまったから、そのような句に喩えただけで、実家であり、故郷であり、生まれついた定めであり、自分を縛る世間であり、いろんなニュアンスがあるはずなのだけど。
ところで、擦ったマッチと吸い殻は、どこにいったのか。
私にはポイ捨てできずに、コートのポケットに忍ばせて持ち帰った、寺山修司の姿が浮かぶ。
記 2020年1月4日
【コラム】 作品の感想は自分の言葉で表そう
最近は、書籍でも、映画でも、「○○の見所を1分でざっくり」「サルでもわかる」みたいな短縮版や読解ものをよく目にするようになった。
時間は有限。コンテンツは無限。
読書や視聴に手間暇かけたくないというよりは、スカを掴んで、時間とお金を無駄にしたくない。
近年は書籍も映画もサブスクリプションが基本で、料金にはさほど拘らないけど、『自分の時間』をお金と同じくらい貴重に感じる人は確実に増えた。私も「どれを観るか」を選択するだけで1時間近くかかることがあるし(予告編を見たり、レビューを読んだりする)、書籍にも見切りをつけるのが早くなった。金銭的に最後まで付き合う必要がなくなったからだ。
効率第一の読者や視聴者の手間暇を省き、マッチングを手助けする短縮版や読解版がもてはやされるのも致し方ないことだ。芸術への理解が進んだというよりは、コンテンツ消費者の「損したくない」という心理
一方で、貴重な作品が粉々に分切りされ、
そうした視聴者(読者)の手間暇を省き、マッチングを手助けしてくれる短縮版や読解版がもてはやされるのも致し方ないことだ。
だが、それは芸術への理解が進んだというよりは、受け手の「損したくない」という一言に尽きる。
逆に、作品全体が細切れにされ、時には的外れな解説が出回って、作品自体が貶められているケースも少なくないのではないだろうか。
寺山修司の作品も例外ではなく、「この短歌の意味は?」「小説のあらすじは?」といった情報サイトもよく目にする。かの有名な『マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし』の短歌も、意味など自分で考えればいいのに、
それすら面倒なのだろうか。
いや、面倒というよりは、自分の解釈に自信がもてないのかもしれない。
あれこれ考えてはみるけれど、本当にそれが正しいのかどうか、不安になる。
自分と似た感想、あるいは同調してくれる人が欲しくて、ネットを探し回り、誰かのブログやSNSに同じ意見を見ると、ほっとする。
それも読書や作品鑑賞の醍醐味に違いないが、その時々、自分が感じたこととじっくり向き合ってみるのもいいものだ。たとえ他者とものの見方や感じ方が違っても、その瞬間、自分が感じた疑問や違和感も、作品の一部に違いないからだ。
寺山修司も言っている。
作品も、読み手が何かを感じて初めて作品として完成する。たとえ否定的な感想でも、読み手がそこから逃げてしまったら、作品としての意味をなくしてしまうのではないだろうか。
『マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし』の短歌も、どこの海の、どんな場所で、どんな風にマッチを擦っているかは一切分からない。それでも、この短歌からは、青森の夜の海と向き合いながら、寂れた港町の消波ブロックの近くで煙草を吸うためにマッチを擦る寺山修司の姿が目に浮かぶ。
マッチを擦るのも、「煙草を吸うため」とは書いてないが、くわえ煙草が目に浮かぶし、ライターではなくマッチを使うところに通好みを感じる。その銘柄もセブンスターではなくピースだろう。
一人、波止場にやって来たのも、昼間誰かのくだらない亡国論を延々と聞かされたか、ふらりと立ち寄った居酒屋で、学生の青臭い政治談義を傍らに聞きながら、TVの歌謡ショーで三波春夫のステージをぼんやり眺めていたか。どこにも説明はないし、納得いく答えもない。
だが、私がそのように想像することで、マッチの短歌も完成する。それも一人一人異なる、心の世界である。
他人の書評は他人のものだし、他人の書評をどれだけ取り込んでも、自身の意見や感想にはならない。
たとえ稚拙でも、泣いたり、笑ったり、自身の感じたことを自身の言葉で表して初めて、作品も読み手の中で完成するのではないだろうか。
記 2021年9月17日