《ペトロスの手紙》 第三章 正しいことのために苦しむ
みんな心を一つにし、同情し合いなさい。
兄弟を愛し、あわれみ深く、謙虚になりなさい。
悪に対して悪をもって、あるいは侮辱に対して侮辱をもって報いてはなりません。
むしろ、祝福を祈りなさい。神は、祝福を受け継がせるためにあなたたちをお召しになったからです。
「命をたいせつに思い、
幸せな日々を過ごしたい日とは、
舌を制して、悪いことを言わず、
また、くちびるを閉じて、
偽りを語ってはならない。
悪から遠ざかり、善を行え。
平和を願い、これを追い求めよ。
主は、正しい人に目を向けて、
その祈りに耳を傾けられる。
しかし、悪事を働く者には、
主は厳しい顔を向けられる」
もし、熱心に善いことをしているなら、いったいだれが、あなたたちをひどいめに遭わせるでしょうか。
しかし、正しいことを行って苦しみを受けるのであれば、幸いです。
苦しいめに遭わせる連中の脅しを恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。
あなたたちの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように用意しておきなさい。それも穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。
そうすれば、キリストと一致したあなたたちの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ってはいても、いずれは恥じ入るようになるのです。
神の意志によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです。
キリストも、人間の罪のために、一回かぎり、苦しまれました。
正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたたちを神のもとへ導くためです。
キリストは “肉” では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、囚われていた霊のところへ行って、福音をお伝えになりました。この霊とはノアの時代に箱船が作られていたとき、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。
《ペトロスの手紙》 第三章 正しいことのために苦しむ 【新約聖書 共同訳全注 (講談社学術文庫)】
育児に関する言葉で、私が気に入ってるのが、「育児書というのは、本来、読む必要のない人が読んで、悩んでいる」というものです。(荻原光氏のブログより)
まったくその通りで、育児書に限らず、人生訓でも、恋愛指南でも、本来読む必要のない人が読んで、ああでもない、こうでもない、と思い悩んでいるのが現実だと思います。
子供の食事を作る気もなければ、栄養も気にかけない親が、『子供がぱくぱく食べる魔法のレシピ』みたいな本を読むわけがないからです。
親はやる気まんまん、でも、子供が思うように食べてくれない、どうしたらいいのか……と日頃思い悩んでいる人が、こうした育児書を手に取って、「ああ、やっぱり私のやり方は間違っていた。今度こそ頑張ろう」「本の通りにやってるのに、やっぱり食べてくれない」と、どんどん深みにはまっていくのが現状。
見方を変えれば、子供の食事に人一倍気を遣っているから、ああでもない、こうでもないと悩むわけで、最初から気にかけない人は何も悩みません。
悩まないのが『いい親』みたいに勘違いしている風潮もありますが、悩みというのは、裏返せば、それだけ真剣に取り組んでいる証しなのです。
それは恋人や配偶者、自分の仕事や生き方に関する悩みも同様です。
理想通りになりたいのに、そうなれないから、深く悩みません。
元から向上心もなければ、責任感もない、他人の財布をかすめ取って、おんぶに抱っこで食えればええわ、みたいな人は、いかに生きるべきかで悩んだりしないでしょう。
毎日を真剣に生きているから、理想と現実のギャップに苦しんだり、目標達成できずに落ち込んだりする、いわば、悩みは、健全な心のバロメータなんですね。
そう考えると、正しいことに苦しむ(悩む)というのは、少しも間違いではありません。
むしろ悩みは成長の証し。
音楽家でも、絵師でも、自分のスキルやセンスについて悩まなくなったら終わりです。
今の世の中、中途半端に解脱して、「よし、分かった! これが人生だ!」と自分の悟りを表明し、『かもめのジョナサン』みたいに、「群れでしか生きられないお前達にオレの高次な生き様を教えてやる」とばかり、すでに何者かになったような人もいます。
しかし、生き方や愛し方など、そう簡単に極められるものでしょうか。
30代で「これが正しい」と思っていても、50代にもなれば、「あれは間違いだった」と気づくこともあります。
人間の思想生活は、まさに正答のない旅路で、そんな簡単に悟れるようなら、この世に宗教も哲学も必要ないのです。
逆に言えば、「悟った」と思った瞬間に、何かが終っているのではないでしょうか。
そんな訳で、「よりよく生きたい」とか「社会の役に立ちたい」とか、正しい動機から生じた悩みなら、堂々と悩めばいいし、一生考え続ければいいと思います。
時に過ち、時に立ち止まり、年を重ねるごとに、新しく生まれ変わる。それこそ人生の醍醐味でしょう。
だから、ペトロスは言います。
「神の意志によるのであれば、善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよいのです。キリストも、人間の罪のために、一回かぎり、苦しまれました」
正しく悩む人を、神は決してお見捨てにはなりません。
過去にどんな過ちをおかそうと、良心の為に苦しむなら、それもまた正しい悩みであり、神様はそういう人の味方です。
その寛大さを、キリスト教では「愛」と呼びます。
皆さんの正しい悩みが美しく報われますように。
――世界で最初のクリスマスに寄せて。
2018年12月24日