あらすじと見どころ
ペレ 伝説の誕生(2016年) - Pele: Birth of a Legend
監督 : ジェフ・ジンバリスト
主演 : ケヴィン・デ・パウラ(ペレ)
あらすじ
ブラジルの貧しい村に生まれたエドソン・アンデラス・ド・ナシメント、通称『ペレ』は、15歳でサントスFCに入団し、プロデビューを果たすが、『ジンガ』を取り入れた彼のスタイルはチームに馴染まないものだった。
人種差別やスランプに悩みながらも、やがてペレは自分のプレーを確立し、それはブラジル人の誇りとなっていく。
サッカーの神様『ペレ』の貧しい生い立ちから世界的成功まで、実録のワールドカップの映像を交えながら、漫画チックに描く、胸アツのスポーツドラマ。
見どころ
筆者はそこまで熱心なサッカーファンではないが、本作や予想以上の出来映えだった。
本筋もいいが、前半に登場するスラム街のキッズプレイヤーの凄いこと、可愛いこと。
一部は特殊効果だろうが、洗濯物で作ったボールがあれだけ跳ねれば大したもの。
サントスFCに移ってからは、技術的なスランプや人種差別に苦しみ、『神様』のイメージからは想像もつかない苦難が次から次に訪れる。
最後はお決まりの感動プレーで、勝利の大団円だが、それが決して押しつけがましくなく、爽やかなサクセスストーリーに仕上がっているのは、ペレの謙虚な人柄と脚本の完成度ゆえだろう。(ちなみに、カフェの客として、本人がカメオ出演しています。元気にプレーするナショナルチームを温かく見守る役どころ)
ワールドカップの場面も、ストップモーションやズームを効果的に取り入れ、さながら『キャプテン翼』のような演出で。サッカーに興味のない人でも、十分に楽しめる作りになっている。
立志伝中ものが好きな方、単純に元気が欲しい方にもおすすめの、ヒューマン&スポーツドラマである。
天才少年
名門チームにスカウト
一人だけ突出して、周囲と合わず
監督に叱責され
一度は止めようとするが
メンターとの出会いを通して覚醒
監督やチームメイトとの齟齬を乗り越え
ワールドカップで優勝という、
王道的物語なので、
安心してご覧頂けます(^^)
アイデンティティと自信喪失の時代 ~自分らしく生きること
ジンガとブラジル人のルーツ
本作を通して、つくづく感じたのは、ペレはまさにブラジル国民の希望であり、アイデンティティの象徴だったことだ。
ただ「強い」だけではない、世界の潮流に逆らって、一人、ブラジリアン・スタイルを貫いたプレーに国中がハートを鷲づかみにされた。
本作は、単なるスタープレイヤーの誕生物語ではなく、「人としてどう生きるか」、「国とは何か」を問いかける、重厚な人間ドラマでもある。
それを象徴するのが、『ジンガ』と呼ばれるテクニックで、さながらサンバのようなボールさばきに圧倒されること請け合いである。
ジンガの特徴
ジンガは、ポルトガル語で「揺れる」「ふらふら歩く」と言った意味を持つ、ブラジル発祥の独特のリズムやステップワークのことです。
現在ではサッカーにおいてもジンガという言葉を耳にすることがありますが、もともとはカポエイラの基本ステップのことをジンガと呼んでいました。カポエイラにおけるジンガは、技を繰り出す前の予備動作のことを指します。
予備動作という意味では、これはサッカーにおけるボールキープに通じるものがあると言えるでしょう。
具体的には、ボールをキープする際にジンガを活用しつつ、相手がボールを奪いに来たら仕掛けるといったイメージです。ジンガが攻撃の予備動作となり、ジンガを経由して攻撃を仕掛けます。
こちらのムービークリップは、コーチに言われた通りにしろと叱責されながらも、途中で自分らしさに目覚め、華麗なジンガの動きで敵を突破する場面。
ペレが駆け出しだった頃、ブラジルのサッカー界は欧州に追いつけ、追い越せで、ジンガのような個人技からフォーメーション重視のプレーに変わろうとしていた。
フォーメーションにおいては、ペレのような超人プレーは必要なく、いかに隊列を組み、組織的に動くかが重要になる。
監督から、得意のジンガを『使うな』と指示され、欧州風のフォーメーション・プレーに従うことを強要されたペレは、たちまち自分のプレーを見失い、チームから孤立してしまう。
ペレは早くも限界を感じ、サントスFCから去ろうとするが、彼をスカウトしたヴァウデマール・デ・ブリードは、ブラジル人とジンガのルーツについて話して聞かせる。
彼らの祖先は、かつてポルトガルから奴隷として連れてこられた黒人だった。
だが、一部は自由を求めて脱走し、身を守る技として、格闘技ジンガを編み出す。
その動きは、徐々に発展して、サッカーで頂点を極めた。
ペレは自分のルーツを自覚すると、サントスFCに戻り、我が道を模索する。
監督との衝突。
チームメイトとの齟齬。
国際試合での人種差別。
何度も挫けながらも、辿り着いた答えは、自分らしさと、ブラジル人である誇りだった。
その思いは仲間にも伝わり、全員一丸となって、ワールドカップ優勝を目指す。
チームでポジションを得る為に監督の指示に従う、得意のジンガで勝負するか、迷うペレの姿は、現代人の苦悩でもある。
世の中はものすごい勢いで移り変わり、昨日まで通用した手法が、明日にはもう通じない。
周囲には、ああしろ、こうしろと、いろんな情報が溢れかえるが、何が真実で、何がそうでないか、誰も教えてくれない。
自分を疑い、道に迷いながら、どうして己の才能を開花させることができるだろう。
ペレもまた試合中にジンガ・スタイルを使うことをためらい、膝を痛めてしまう。
ますます自信喪失するペレに、元サッカー選手の父親は、自分を信じて、周りにも認めさせろと励ます。
やがて、ブラジル人のルーツに目覚め、ジンガ・スタイルに自信を持ったペレの姿勢は、チームメイトにも伝わり、欧州式のフォーメーション・プレーではなく、ブラジルらしいサッカーを花開かせる。
グローバル化と自信喪失の時代
ペレの生涯を見ていると、現代というのは、つくづく自信喪失の時代と思わずにいられない。
グローバル化で、国や民族の境界は溶け出し、昨日まで当たり前とされてきたことが、今日は通用しなくなる。
ハイテク機器と共に、人のライフスタイルも価値観も猛烈な勢いで移り変わり、ほんの数年前の出来事さえ、今では遠い昔のようだ。
社会の激変は、個人のみならず、国家の足元も揺るがす。
テロ、戦争、経済格差、難民問題、人種差別、環境汚染。
何かが起きれば、あっという間に周辺諸国に飛び火し、世界を脅かす大火となる。
あまりにいろんなことが同時に、また広範囲に起きるので、正義や真理を見失わずにいる方が難しいほどだ。
一方、もはや国家や民族など、何の意味もないという人もある。
人類はみな兄弟、国家も民族も悲劇を生み出す枠組みでしかないと。
だが、いくら個の時代でも、帰属なくして個は成り立たない。
『自分は何もので、ルーツはどこにあるのか』という問いかけは、アイデンティティの基礎となるものだ。
映画後半、ペレとライバル関係にあるイタリア系ブラジル人のマゾーラが、「イタリア人になりたかった。だが、ここ(ワールドカップ開催地のスウェーデン)に来て、分かった。俺はブラジル人だ」と嘆く場面があるが、本当に個が全てで、国家など必要ないというなら、どこの何人であろうと、何の痛みも感じないはずだ。
だが、そうではなく、どんな人も、自分一人で立つことはできない。
何故なら、すての人は社会的存在だからである。
国をあげてワールドカップに熱狂するのも、代表のユニフォームにこだわるのも、我々が属する社会と自身のルーツに深く根ざしているからだ。
自分という人間がどこから来て(ルーツ)、どのような集団に属しているか(国や共同体)、属性や自覚の上に、自分というアイデンティティが形成され、「わたし」として社会に存在する。
イタリア人になれなかったマゾーラが嘆くのも、「イタリア人」という属性の上に自分というアイデンティティが成り立っていたからで、その基盤が揺るげば、人生が崩壊するほどのショックを受けるのは当然なのだ(映画では、この後、ブラジル人の自分に誇りをもって、チームを優勝に導く)
グローバル化と共に、世界はだんだん小さくなり、国や民族や文化風習の境界も溶けて、昔ほど人はこだわらなくなっているが、それでも、いざとなれば、自分のルーツや属する社会に目覚め、認識を新たにするのは、ワールドカップの熱狂が如実に物語っている。
そして、その自覚と団結こそが、自信喪失の現代人にいっそう求められる力ではないだろうか。
サッカーの魅力 ~ボール一つで、誰でも、何所でも
ちなみにサッカーが世界で愛される理由は、「ボール一つで、誰でも、何所でも」、気軽にプレーできるからだと思う。
野球の場合、バットとグローブが必要だし、テニスやバドミントンもラケットだけでは難しい。
その点、サッカーは、正規のボールでなくても、ゴムボール、バレーボール、何でも代用できる。
映画にあるように、洗濯物を丸めたものでもOKだ。
また、野球やテニスやバスケットボールなどは、あまりにメンバーの年齢や体格が異なると、一緒にプレーするのは難しいが、サッカーは高校生と小学生が混ざっても、割と楽しめるし、女の子も参加可能だ。
しかも、場所を選ばず、路地裏でも簡単なゲームはできる。
そんな風に、貧乏人でも、小柄でも、荒れ地でも、障害物だらけでも、ボールがあれば、誰でも、何所でも、気軽にプレーできるのが、サッカーの魅力だ。
貧しい国でも大人気なのは、その手軽さと低コストが大いに関係していると思う。
一方、日本では、野球の方が受けがいいのは、武士の一騎打ちみたいに感情移入しやすいからだろう。
サッカーは、チーム全体の動きを見るので、個人は二の次だが、野球は個人的に贔屓にすることが多い。
たとえば、クリスティアーノ・ロナウドは一流選手だが、あくまでチームの一員であり、ロナウドだけ応援している人は少数だ。
それより『ポルトガルのロナウド』、『マンチェスター・ユナイテッドのロナウド』という感覚である。
その点、野球は、長嶋茂雄が凄いとか、掛布が面白いとか、個人への思い入れが強く、最初に選手がいて、チームは二の次という感じだ。
掛布がいるから、阪神タイガースを応援する、みたいなところがあって、チームよりも個人に共感する部分が多い。
そうした気質の違いもあって、サッカーより野球の方が親しみやすいのかもしれない。
基本的に一騎打ちで、ゲームが分かりやすいという点もあるだろうが。
何にせよ、サッカーに興味のない者から見れば、ワールドカップの熱狂は『異様』である。
昔から、代理戦争と言われるが、日頃、口にできない罵倒をゲームで発散することで、巣くわれている人も多いのだろうな。
スポーツと国家の威信 : 伊藤みどりさんの活躍を振り返る
愛国心の高揚や臣民の団結にスポーツが利用されるのはコロッセウムの時代からそうだが、なぜこうも盛り上がるのかといえば、代替戦争の色合いが強いからだろう。
私の居住国でも、なんだかんだでロシアが負けたら嬉しいし、ドイツに勝ったらしめしめと思う。歴史的感情と全く無縁ということはないから。
世界平和の為に、この際、国家間のもめ事は、全部サッカーでけりをつけてはどうかと思うが、そうなったら、そうなったで、「うちはサッカーより野球の方が強いから」「設備に劣る我が国は不利ではないか」という話になるだろうし、選手や監督に対する怨嗟が高じて、個人的報復に発展するだろうから(実際、熱狂的ファンに射殺された選手もいる)、武力で戦うにせよ、スポーツで代替戦争するにせよ、そこにマウンティングの気持ちがある限り、平和的解決には程遠いだろう。
ところで「国家の威信にかけて」で真っ先に思い浮かぶのが、フィギュアスケートの伊藤みどりさん。
この方のプレッシャーと国民の期待は大変なものだった。
それなら浅田真央ちゃんも同様じゃないか……という人もあるかもしれないが、伊藤さんが現役だった 1992年アルベールビルオリンピックの頃は、日本人が世界大会の上位に食い込むということ自体が偉業だったし、よもや日本人女性がフィギュアでメダルを獲るなど想像もしなかったのだ。
それまでフィギュアスケートといえば、お姫様系白人女性の世界。もちろん技術も問われたが、白雪姫みたいなスケーターが銀盤でくるくる踊る『スケート靴を履いたバレリーナ』みたいなものだった。
そこに伊藤さんは三回転半ジャンプという超絶技巧で挑み、白雪姫のイメージを一変した。
当然、世界の動揺も大きく、当時の女王カタリーナ・ビットが、「観客は跳ねるゴムまりを見に来たのではない」と揶揄したのは有名な話。(ライバル関係にあったので、意地悪く誇張されているとは思うが)
それでも、オリンピックの大舞台で前人未踏の三回転半ジャンプを決めれば、金メダルは間違いなし。
日本国民の期待も以上に高く、そのプレッシャーたるや、浅田真央ちゃんの比ではなかったと思う。
何故かといえば、真央ちゃんが出て来た頃には、日本人選手のレベルは非常に高く、世界選手権での入賞も当たり前、その前に荒川静香さんというメダリストもいて、プレッシャーの質が違った。
また伊藤さんの場合、『女子で初めての三回転半ジャンプ』という世界記録への挑戦でもあり、ただ一度のチャンスに課せられた使命は計り知れない。
これでメダルに手が届かなかったら、日本国民の失望も計り知れず、「健闘」などという生ぬるいものではない、国家の威信にかけた大仕事であり、義務だったのだ。
折しも時代はバブル最盛期に翳りが見えてきた頃。
経済では世界的に大成功を収め、外国の象徴みたいな映画会社や建物や名画を買いあさり、エコノミック・アニマルと呼ばれながらも、羨望の眼差しで見られていたが、金が手に入れば次は名誉が欲しくなるのが俗人の性というもの。
伊藤さんの勝利は、日本人が経済のみならず、文化、スポーツ、精神性など、あらゆる面で「一流」を世界に示す大きな機会だったかもしれない。
しかしながら、世界が日本人選手の台頭を指をくわえて見ているはずもなく、女子スケートも白雪姫の世界から高度な技術を競うものに変わっていった。
そして、いよいよ本番。
ショートプログラムは不調に終わり、雲行きが怪しくなってきた中、確実にメダルを獲る為に、「三回転半を取りやめる」という話も出てきた。もし失敗して、派手に転倒でもしたら、上位入賞さえ不可能になるからだ。
飛ぶのか、飛ばないのか。メダルはとれるのか。
日本中が固唾を呑んで見守る中、日本時間の早朝にフリーの競技が行われ、その日のモーニングショーが「みどり、三回転半に成功!」の話題に湧いたのは今も忘れられない。学校でも、職場でも、皆が顔を合わせた時の第一声が「みどりちゃん、飛んだ?」「飛んだ、飛んだ!」「銀メダルだよ」だったから。
荒川静香さんや浅田真央ちゃんがメダルをとった時も国民は湧いたかもしれないが、伊藤さんの時は別格だったように記憶する。これで世界の厚い壁が破れた、いよいよ日本人が文化でもスポーツでも堂々と欧米先進国とわたり合える時代が到来したのだ、と、皆が実感した瞬間でもあったから。
同じように、ペレもブラジル国民に希望と誇りを与えただろうし、アルゼンチンのマラドーナ、ルーマニアのコマネチ、ウクライナのセルゲイ・ブブカ、アメリカのカール・ルイス、等々、その国のアイデンティティを象徴するような選手はいる。彼らはただ強いだけでなく、その時々の情勢や国民感情を一身に背負ったようなところがあり、時代に選ばれた宿命的なものすら感じる。
伊藤さんもその例にもれず、「三回転半は、日本国民が一丸となって飛んだ」といっても過言ではない。
それほどの夢を見させてくれるのがスポーツであり、それゆえに愛国心の高揚にも利用されるのだが、だとしても、様々な困難に打ち勝ち、栄冠を手にする人の姿は美しい。
たとえ国家的危機が訪れても、国民が自信を喪失しても、希望と闘志は、こうしたスポーツ競技の中からも現れるのではないだろうか。
日本中が見守った、伊藤みどりさんの三回転半ジャンプ。
初稿 2020年6月29日