本当の自分を見せたら、子供に軽蔑されると思っていませんか?
私は、『子供が大人になる』ということは、「あれがイヤ、これがイヤ」という自分主体から、「自分はこう思うけど、相手はこうかもしれない」「世の中にはこういう考え方もあるのだ」と物の見方が広がり、最終的に、自分の親を一人の人間として受け入れ、許せるようになることだと思っています。
親として至らないところがあっても、子供は子供なりに理解するし、嫌な思い出を浄化する力もあります。絵に描いたような「いい親」でなくても、子供は親の愚かな一面からも何かを学び、人生の糧にすると思うんですね。(根本的なところで間違わなければ)
にもかかわらず、子供に対する悪影響を必要以上に恐れて、「いい親でなければ」と頑張りすぎると、自分にも、子供にも、要求するものが多くなってしまう。
そのことを、荻原さんも仰っているのだと思います。
しかし、荻原さんのブログ「今、子供と親に何が起きているのか(※ リンク先が削除されています)」を読んでいると、「普通」とか「自然」といったものが失われてきているそうです。
理由の一つとして、義務教育の荒廃や、倫理の乱れ、親殺しや自死、異常な少年犯罪など、子供にとって決して幸福とはいえない社会環境も大きいと思います。
こんな社会で子育てをしていたら、「とにかく勝ち組にしなければ」「いい子にしなければ」と必死になるのもやむを得ないでしょう。
それでいっそう、母親同士の競争も過熱して、余計で追い詰められる人も少なくないのではないかと思います。
併せて、子育てをしている世代が、精神的に脆く、繊細になってきている理由もあるでしょう。
私の印象では、90年代の癒しブームで癒しきれなかった世代が、メンタルの問題を抱えたまま、子育てをしている、という印象があります。
当人は「ちゃんと社会生活も送っているし、経済的にも自立している、知識もスキルもあるし、人間関係だって構築している、私は一人前の大人のつもり」でも、その心の奥底には癒やしきれなかった『不安な子供の心』が残っているのかもしれません。
私たちは、子供を産んだ瞬間から、一足飛びに『親』という何者かにステップアップするわけではありませんし、今まで子供として生きていた歴史が一夜にして消えるわけでもありません。
じゃあ、「癒しきれていない子供の部分」を残していたら、一人前の親になれないのか――と言えば、決してそうではなく、子育てのプロセスがそれを癒やしてくれるのではないでしょうか。
『子育てとは、もう一度、自分の子供時代をやり直すこと』(阿部秀雄)
阿部秀雄さんの著書『ダダこね育ちのすすめ』にもありますが、子供に泣かれると、自分が責められているような気分になって、辛い気持ちになる親も少なくないのではないでしょうか。
つまり、子育ての過程で感じる「辛い、苦しい」は、自分の内なる子供が、我が子と一緒になって叫び声を上げているわけですね。(by 阿部秀雄)
そんな子供時代を重ね見ながら、「あの時、あんなことを言われて、ずいぶん恨んだけど、お母さんも大変だったんだな」とか「忙しい時に、子供のイタズラにむかっときて、辛く当たってしまう気持ちも今なら分かる」とか、我が親の感情を自分の中に再現することにより、親に対する印象をリニューアルして、我が親も、自分自身も、許していく過程に、子育ての本当の意義があるわけです。
「自然体になれない」「普通が、どういうことか分からない」という親は、本当の自分を見せたら子供に嫌われるという気持ちが人一倍強いのかもしれません。
オロオロする自分を見せたら、子供に侮られるとか。
ドジな自分を見せたら、子供に嫌われるとか。
それは裏返せば、自分がそういう親を蔑んで、今も許してないからではないですか?
そして、そういう性質を受け継いだ自分自身のことも許せない。認めない。
心の罠の繰り返しですね。
しかし、本当の自分を見せることを恐れ、心と心のぶつかり合いを恐れていたら、『仮面親子』でしかありません。仮面夫婦と同じく、傍目には何の問題もないように見えるけれど、実質は冷え切って、何の心の交流もないという状態です。
そうなると、子供も自分を見せないし、本音も言いません。
心の中では「イヤだな」と思っても、幼いうちは親の言い付けに従い、それが正しいと自分自身に言い聞かせようとします。
しかし、思春期になって、自我が目覚め、「これじゃない」と気付いたら、親への信頼も失われ、親子関係も破綻しますよね。
「いい子」が突然キレたり、成人してから親を粗末に扱うようになるのは、それが理由ではないでしょうか。
子供は「いい親」よりアナタが好きにも書いていますが、子供は強く、優しく、立派な「いい親」を欲しているのではなく、「アナタ」という人間と触れ合いたいのですよ。
なぜなら、人間対人間の関わりの中で、思いやり、譲歩、忍耐、考察といった人間力を身につけていくからです。
思い出を作るか、「いい子」を作るか
以下は読者さんからのお便り。
はじめまして。
育児歴11年の母親です。
笑いは大切ですよね~。心からそう思います。それでも笑った後に、本当に笑っててもいいのか・・・と悩むこともあり、私の人生、悩み苦しみには尽きることはありません。
それよりも少ないとはいえ、楽しいことや、充実した時間もあります。だからやっていられるのですが。
それでも結局は何が正しいのか判らず、何をするにも自信がなく、他人との付き合いならごまかせることも、子育てとなるとごまかすこともできない。
ごまかしがきかないから、真剣にならざるを得ず、大変なのです。
夫婦と子供4人、平和に仲良く楽しく暮らしたいのに、なかなかうまくいきません。
結局ごまかし方をさぐっていくしかないのかなと感じたり、いやいや体当たりよとがんばってみたり、とにかく一筋縄でいきません。
あきらめるというのが、一番の処方箋のような気がするのです。
が、それでいいんだろうか・・・とここでも堂々巡り。
あきらめるというのは、諦めると、明らめるというのがあるのですね。どっちがどうなんだ?
子供のこと愛しているのかなあ。
楽しみながらやれることをやるしかないですね。
それがEnjoy yourself かしら。
育児にはサプライズだらけ。それをどう楽しめるかってことかもね、なんて思ったり。
楽しむのも大変です。
ばらばらな文章で申し訳ないです。
お礼と感想を伝えたかったのです・・・。
とりあえず今回はこれでー。
こうしたドタバタ=試行錯誤のプロセスが『親子の思い出』として子供の心の糧となり、人生を支えていくのだと思います。
迷って、ケンカして、落ち込んで、仲直りして、またケンカして……
一見、無駄で、愚かに見えるかもしれませんが、それこそが心が触れ合っている証拠だし(隣の子供と必死になって言い争いをする人がありますか?)、それさえも無くなって、『仮面親子』になってしまえば、その先、何を与えても、どのようにしても、親子として機能することは無くなるのだと思います。
たとえ相手が子供でも、身近に心を擦り合わせる相手が居るというのは、非常に幸せなことではないでしょうか。
最後にもう一つ。
「お母さんの目からウロコが落ちる本 親が子どもにできること、できないこと (PHP文庫) 」
子育てなんか、なるようにしかならない
と、あっさり言い切っている本です。
「幼児期に、栄養、栄養と目くじら立ててみても、中学生になったら、塾帰りにハンバーガーを食べたり、コーラやポテトチップスを食べたりするようになるんだから、そんな必死にならなくてよろしい」みたいな。
食生活の基本だけ徹底すれば(バランスよく食べる)、あとは融通を利かせればいいだけの話。
栄養素にこだわったところで、栄養素の通りに人間が作られるわけではないし、それよりも「食を楽しむ」ことにフォーカスした方が、親子共々、幸せなのではないでしょうか。