若い人が進路を選択する時、一番重要なポイントは「失敗したくない」の一言に尽きると思います。
(飢えて、荒野に散ろうとも、オレは漫画家を目指す! みたいな熱血は除く)
日夜、メディアに踊る「○○議員、引責辞任」「○○会社、倒産」「芸人○○、どん底の今」「エリート一家に何が? 息子が父親を刺殺」「低所得にあえぐ40代。増える自殺者」「タワマン破産。偽りのセレブ生活」「大学卒でも手取り12万」といった暗いニュース。
街角で目にする、生活困窮者やホームレス、介護地獄や借金地獄の現実。
10代、20代の、人生これからという時期、そういう姿をまざまざと見せつけられると、いつか自分も……という恐怖を覚えるかもしれません。また、キラキラした同僚や同窓生に自慢話をされた日には、にわかに自信をなくし、自分の将来が暗いものに感じられることもあるでしょう。
いつ何がどうなるか分からない時代だからこそ、より確実、より安全な選択をし、余計な苦労は避けたい。
その果てに、本意とは違う退屈な人生が待っていたとしても、それもまた選択の結果です。
現実の人生は、そう簡単にやり直せない。
だから余計で慎重になり、周りからもたらされる情報や偉い人の助言にがんじがらめになるのでしょう。
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そんな中、若いうちから頭角を現し、功成り名遂げる人の話をきくと、「能力に恵まれてる奴はいいさ」と、つい毒づきたくなるかもしれません。
あるいは、自分も能力を伸ばして、絶対安全な将来を手に入れようと努力したり。
その過程で「できること」と「やりたいこと」は違うという、悟りのような話も耳にするかもしれませんね。
「好きなことで食えるほど甘いものじゃない」という、ありがたい助言も。
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ところで、「やりたいこと(好きなこと)と「能力」の違いは何でしょう。
それについて、寺山修司が非常に穿ったことを言ってます。
自己表出力があるか、ということが、単に、今の社会状況のなかでそれを商品化できる能力があるか、ないかということだとしたら、そんなのは大して重要なことじゃないんです。
いま、どこで、何が ――一橋大学「マーキュリー」誌上で――
特に太字の部分。
これはどこの世界に限らず、義務教育においても、そういう意味合いで語られていると思うんですね。
「子供の能力を伸ばそう」=「稼げる子に育てよう」と。
確かに、現実社会においては、それが非常に重要なポイントかもしれない。
サッカーが得意でも、それを職業にして、稼げないことには話にならない。
明朗活発で、気は優しくても、これといったスキルもなく、正社員にもなれず、手取り10万で、これからどうやって生きていきましょう、なんて状況なら、性格の明るさや優しさなんて何の意味もないでしょう。
そして、大人に限らず、幼い子供でさえ、そういう現実を肌で感じているから、余計で「能力」=「稼げる」という話になってくる。つまりは「商品化された能力」です。
だから、高校生の男の子が、「自分はきっちりしたものが好きだ」「コンピュータの操作なら半日もかからずマスターしてしまう」という長所に気付いても、能力というものを常に商品化して考える癖がついているから、コンピュータが好きなら、コンピュータ関連に進めばいいのに、そこで「この仕事は食えるかどうか」という話になってしまう。そこで少しでも不利な話を聞けば躊躇するし、商品化が第一だから、すぐに結果が出ないと、自身の存在意義を疑ってしまう。そして、ついには得意だったことも止めてしまう。その悪循環です。
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でも、寺山修司自身、天才じゃないか! あんたにオレの苦労が分かるか! という意見もあるでしょう。
そうした問いかけにもちゃんと答えがあります。
これは『ぼくは話しかける ――同志社大学のキャンパスで――』という企画の中の大学生とのやり取りです。
そんなことはまったくないと思います。たとえばあなたが今俳句を三句作る場合、あなたは、俳人になれる。俳句がもし芸術ならば、あなたは芸術家なわけですよ。俳句を三句作ったくらいで一般の人よりすぐれたことになったかというと、それは俳句を三つ作ったという経験が残っただけで、自分が変わるわけじゃないんで、それは要するに電気屋が普通の人よりすぐれているか、俳句を作る人が普通の人よりすぐれているか、ハンバーグステーキを作る人がすぐれているかというんじゃなくて、自分がたまたまそれをやるんであって、すぐれているという発想は、どんな場合にも持ちたくない。
≪中略≫
『そうですけれども、実際にはそうじゃないでしょう。能力ということばを使いたくないけど、そういうこともあるんじゃないですか。』
でもね、人間が自分の能力を全部テストすることって出来ない。
≪中略≫
特に大学受験といえば、ぼくなどは、文学部も受ければ、工学部も受けて、政治経済学部も受けたわけです。たまたま文学をやることになったけど、もし商学部にはいっていたら、今、ここでこういう話をしていないで、スーパーダイエーなんかで売り上げについて非常に熱心に考えていたかも知れないんです。実際そういうものだと思うんです。非常に偶然的なもので。
たまたま非常に早く自分の好きなものをみつけて、それがたまたまほかの人と興味を共有出来るような形で、表現することにめぐまれたら、その人は、開花されていくということだけであってね。
≪中略≫
ある特殊な専門家がいてね、その人が一種のパワーエリートというか、その代表として、うまくやるっていうのは、つまり、ある社会的な、このような、産業革命以後の社会で約束されていることがあるわけですよ。
たとえば、全員が自分のはいている靴を作るわけにはいかないわけです。いくらスペシャリストが不必要だとしてもね。靴を作れないじゃなくて、靴を作るためにかける時間がもったいないわけですよ。
自分の眼にはめるコンタクトレンズを自分で作るってのは、大変なことなわけです。
そういった形で、人にやってもらったほうが便利なものってのはあるわけです。
でも泣いたり笑ったり、でも自分が今考えていることを何も人にやってもらう必要はないわけですよ。それまで人にやってもらったら、自分で何をやるんですか。全部人にやってもらって、泣いたり笑ったりするのは、俳優にやってもらって、食い物はおふくろさんに作ってもらって、洋服や洋服屋さんに作ってもらって、絵は絵描きのかいたものをしみじみと眺めるんだったら、自分はただ通りすぎの風みたいなものであって、いてもいなくてもいいじゃないですか。
自分が今やりたいことが何かということを知ってることは、ある意味で、自分が社会との関係を持ってのことであって、自分が何もスペシャリストになることではないと思います。
恐らく、この箇所は意見交換会の書き起こしだと思うので、ちょっと分かりづらい点もあるかもしれませんが、この話には二つのポイントがあります。
一つ目は、人間としての意義。
二つ目は、社会的存在としての意義です。
今は何でも細分化、商業化され、人はお金さえあれば、楽して生きることができる。自分でお茶を煎れる必要もなければ、洗濯する必要もない。配管が壊れたら電話一本で修理を頼めるし、夏休みの宿題でさえ通販で買うことができる。
記憶も計算も以前のように必死にやる必要はなく、友達の住所も緊急連絡先もスマホのメモ帳に記録すればOK。同好の士もネットで探せるし、ヴァーチャルの技術は今に架空の子供を生み出すことさえできるでしょう。映画『サロゲート』や『マトリックス』みたいに、本体は自宅のカプセルで休息、精神世界の分身だけが何度でも望みの人生を体験できるという、マンガみたいな現実がすぐそこまで迫っていることを考えると、『人間って、何の為に存在するの』という根源的な問題に行き着きます。ご飯を作ったり、遠くに出かけたり、しまいに考えたり感じたりすることまで他の何かに委ねたら、もはや自分として存在する意味もないでしょう。
そこまで極端にいかなくても、「行為の中に人生がある」という原理は変わらないと思うのですよ。
ところで行為とは何か。
それは自身の思考や感性の選択に他なりません。
面白そうな映画の宣伝を見て、劇場に行くかどうか決めるのは自分だし、今朝はトーストにするか、お茶漬けにするか、決めるのも自分自身です。
自身に基づいて決めたことは、自分らしい行為だし、そこで得たものも自分のものです。その経験の積み重ねが自分らしい生き方になります。
でも、自分の本意とは別に、面倒くさいとか、リスクが大きいとか、世間体が悪いとか、その他の理由で選んだ行為はどこまでいっても「自分のもの」になりません。
そういう意味でも、まず自分の意思ありきで、選び、行動することが第一義です。
二つ目は、人間は社会的存在であるということ。どれほど内向きで、非社交的な人でも、社会とまったく関わらずに生きていくことはできません。一見、社会と距離を置き、閉じこもっているような人でも、社会は常に意識しているものです。ある意味、意識するから、余計で外に出られなくなる一面もあるでしょう。
そんな中、「自分のやりたいことが分かる」というのは、単に自分自身だけの問題ではなく、「周りに褒められる」「友人が楽しんでくれる」という社会の反応があって、やる気に繋がる部分も大きいと思います。マンガを描いても、100メートル走っても、何の反応も得られなければ、好きでいるのは難しいですから。そして、周りの反応が得られる条件の一つには、「上手い」「優れる」といった要素がある。それを能力というなら、そうなのでしょう。
『自分が今やりたいことが何かということを知ってることは、ある意味で、自分が社会との関係を持ってのことであって』というのは、これまでの過程で、一度でも人に褒められたり、喜んでもらえたり、自分の得意なことや好きなことが社会に受け入れられた経験がある、という意味で、そうした経験は、体裁や、リスクや、収入といったものより、はるかに上回る――という事ではないでしょうか。
その後に続く『自分が何もスペシャリストになることではないと思います』の意味は、たとえば、「プロの漫画家になる」「プロの歌手になる」「プロのアスリートになる」=能力を商品化することではない、と。
昨今、『能力』といえば、『商品化』の意味合いが非常に強いし、商品化できない能力は能力にあらず、といった風潮もあると思います。
でも、人間の能力には、マンガを描いたり、作曲したり、アーティスティックなもの以外にも、「計算が正確」「整理整頓が得意」「客あしらいが上手」「細かなことに拘らない」という性質的なものもありますし、それはそれでいろんな活かし方があると思います。きっちり計算のできる人は、経理や会計で重宝されるでしょうし、客あしらいが上手な人は接客業で絶大な信頼を得られるでしょうし。
要は、自分に合ったもの、好きなことを優先した方が、結果的には長続きする。
安定路線に進んだものの、自分はどうせ社畜とか、何の為に生きているのか分からないとか、くさくさするぐらいなら、自分の意思や趣味を大事に生きていけばいい。
道というのは、案外、その先に開ける――ということ。安定路線に進んだところで、死ぬまで壮健、会社も潰れず、上司も隣人みな絵に描いたような善人とはいかないのですから。
能力が商品化して語られることは、大人にとっても、子供にとっても、絶望と無気力しか生まないと思います。
そうではなく、もしその人の得意なことや好きなことが社会にも温かく受け入れられるなら、その社会性こそ評価して、上手に伸ばすことが、結果的には、本人と周りを幸せにするのではないでしょうか。
これが原本。二度と入手不可です。縁あって、私の手元に来てくれました。感謝!
初稿:2017年9月14日