寺山修司の詩 『ふしあわせという名の猫がいる』
いつもわたしにぴったりよりそっている
でも その猫は気まぐれなので
突然 どこかに行ったりします
そして ふらりと帰って来た時には
しあわせ という名の 大きな魚を
口にくわえていたりします
しあわせ ふしあわせ
どちらも わたしの かけがえのない友達
同じ顔をした
気まぐれな影
返歌
創造的に生きる ~ふしあわせも詩として
当方の作品に「『人間とは乗り越えられるものだよ』と髭の教授は言った。『創造的であることが、あらゆる苦悩から我々を救ってくれる。傷つき、苦しむ自分を恥じなくなった時、本当の意味で君は悲劇から自由になれる』という台詞があるのだが、この考え方を教えてくれたのが、ドイツの著名な哲学者、フリードリヒ・ニーチェである。(『人間とは乗り越えられるものである』のフレーズは『ツァラトゥストラ(手塚富雄・訳)』に収録)
いわゆる自己超克であり、青年期の私にとって、「乗り越えられる」という言葉は非常に励まされるものだった。「乗り越える」でもなく、「克服する」でもない、”乗り越えられる”という響きの中に、真の可能性を感じたからだ。
そして、その要となるものは、創造だ。
創造といっても、絵を描いたり、動画を編集したり、作品を作るという意味ではなく、無の平原に意味を与え、価値あるものを立ち上げることである。
少し生活スタイルを変えるのも創造だし、どこかに旅するのも創造だ。同窓会に顔を出し、互いに励まし合うのも創造なら、誰かと恋をして、家庭を築くのも立派な創造である。
そうした小さな日々の積み重ねが、いつか心を癒やし、新しい人生を築き上げていく。
じっとその場にうずくまり、世を呪っても、どこにも救いはない――というのが、ニーチェに限らず、古今東西の偉人の一貫した主張である。
詩作も同様で、不幸を「猫」に喩えれば、どこか慰められるものがある。。手もかかるし、気まぐれに振り回されることもあるが、それも自分の人生の一部なのだと。
不幸は、ただあなたという人が好きで、寄り添っているだけ。悪意も、敵意もない。
こちらから好意を示せば、いつか猫の方から飽きて、何処かに行ってしまうのではないだろうか。
初稿 2018年1月12日
追記 2021年9月11日