側溝男と江戸川乱歩の『人間椅子』 フェチズムの極みは一体化

目次 🏃

江戸川乱歩の『人間椅子』について

作品の概要

人間椅子(1925年) プラトン社『苦楽』に掲載

醜い容姿にコンプレックスをもつ椅子職人の男は、ホテルから大きな肘掛椅子の注文を受ける。
その出来映えに感嘆した男は、その肘掛椅子と一体になりたいと望み、椅子の中を改造して、人間が入れる隙間を作る。
椅子職人の男は、その中に忍び込み、夜になると抜け出して、窃盗を繰り返していたが、いつしか、人が座った時の感触を愉しむようになる。
ある時、男は肘掛椅子に腰掛けた美しい夫人に恋をし、その心情を告白するが……。

究極のフェチズムを描いた、江戸川乱歩の傑作。
その変態的な椅子愛と衝撃の結末は文学史上に残るインパクト。
わずか22ページほどの短編ながら、江戸川乱歩の奇怪なセンスと文章力が凝縮したような名作である。必読。

人間椅子 江戸川乱歩ベストセレクション(1) (角川ホラー文庫)
人間椅子 江戸川乱歩ベストセレクション(1) (角川ホラー文庫)

表紙は、片岡忠彦氏のイラストがよかった.

江戸川乱歩 人間椅子

同時収録の「お勢登場」も読み応えあり。
池上遼一の劇画も素晴らしい。
詳しくは、池上遼一の耽美コミック傑作選 『肌の記憶』/ 禁欲と抑制の隙間からあふれ出すエロス

このレビューは、道端の側溝に何時間も潜み、女性の下着を覗き見ようとした『側溝男』のニュースに触発されて書きました(後述)

椅子職人とフェチズム

物語は、閨秀作家の佳子が「熱烈なファン」を名乗る人物から謎の封書を受け取るところから始まる。

『奥様』という気味の悪い書き出して始まる手紙は、貧しい椅子職人の告白だった。

私は生まれつき、世にも醜い容貌の持主でございます。これをどうか、はっきりと、お覚えなすっていて下さいませ。そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いを容(い)れて、私にお逢い下さいました場合、ただでさえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活の為に、二た目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、堪え難いことでございます。

私という男は、なんと因果な生まれつきなのでありましょう。そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にも烈しい(はげしい)情熱を、燃やしていたのでございます。私は、お化けのような顔をした、その上極貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢な、様々の「夢」にあこがれていたのでございます。

この描写だけで、男の素性が窺い知れる。

じめじめした性格で、友だちもなければ、贔屓にしてくれる客もない。

薄暗い工房で、麹が発酵するように、妄想たくましくする様子がありありと伝わってくる。

一つの椅子が出来上がると、私は先ず、自分で、それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。そして、味家ない職人生活の内にも、その時ばかりは、何とも云えぬ得意を感じるのでございます。そこへは、どの様な高貴の方が、或いはどの様な美しい方がおかけなさることか、こんな立派な椅子を註文なさる程のお邸だから、そこには、きっと、この椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるだろう。

≪中略≫

そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、自分が、その立派な邸の主にでもなった様な気がして、ほんの一瞬間ではありますけれど、何とも形容の出来ない、愉快な気持ちになるのでございます。

男は決して下手の横好きではなく、立派なお屋敷から注文を受けるほどの技術はあるらしい。

ただ、貴族のお抱えというわけでもなく、椅子を特注する金持ち自体が珍しいこともあって、大して稼ぎにはならないのだろう。

だが、自分の作った椅子を使う人のことを、あれこれ想像する気持ちは分かる。

職人にとっては、たとえスプーン一本でも、自分が手がけたものは子供と同じ。親がそうであるように、我が身の一部のように感じ、シンパシーを覚える。

自分の作った椅子の持主について、あれこれ思い巡らせることは、いたって普通の反応だろう。

むしろ、気にならない方が不思議なほど。

そんな男の元に、ホテルから注文が入る。

男は精魂込めて、大きな革張りの肘掛椅子を作り上げ、その出来映えに今までにない満足を覚える。

そして、こう考えるのだ。「私の丹誠を籠めた美しい椅子を、手離したくない、出来ることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい」と。

さて、出来上がった椅子を見ますと、私は嘗て覚えのない満足を感じました。それは、我ながら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当たりのよい板の間へ持ち出して、ゆったりと腰を下ろしました。

何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬すぎず軟らかすぎぬクッションのねばり具合、わざと染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、なめし革の肌触り、適度の傾斜を保って、その背中を支えて呉れる、豊満な凭れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上がった、両側の肘掛け、それらのすべてが、不思議な調和を保って、渾然として「安楽(コンフォート)」という言葉を、そのまま形に現わしている様に見えます。

この箇所で一番好きなのが、「ねばり具合」という表現。これはなかなか、出そうで出ない。多分、多くの人は、「硬すぎず、柔らかすぎぬ」で止まると思う。

ここに「ねばり具合」という一言を加味することで、男の粘着質な性格や椅子の質感を見事に表している。

私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入り口の蓋を開けて、椅子の中へ、すっぽりともぐりこみました。それは、実にへんてこな気持ちでございました。真っ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入ったような、不思議な感じが致します。
考えてみれば、墓場に相違ありません。私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ蓑でも着た様に、この人間世界から、消滅して了う訳ですから。

「人間世界から消滅してしまう」というのは、現実逃避ではなく、椅子そのものと同化することだろう。

「わたし」と「椅子」の境目もなくなるほど互いに溶け合い、一体化してしまう。

さながら『トリスタンとイゾルデ』に描かれた、エロス(性)とタナトス(死)のようだ。

そうして、椅子と一体化し、夜な夜な抜け出しては、ホテルで盗みを働いていた男は、ある時、椅子の中で大柄な西洋人の男の肉体を感じ、以来、人間椅子の虜となる。

真っ暗で、身動きも出来ない革張りの天地。それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生き物として感ぜられます。彼らは声と、鼻息と、跫音と、衣ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊に過ぎないのでございます。

≪中略≫

この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に、惑溺してしまったのでございます。私は考えました。これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、本当のすみかではないかと

私の様な醜い、そして気の弱い男は、明るい、巧妙の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥ずかしい、みじめな生活を続けて行く外に、能のない身体でございます。それが、一度、住む世界を換えて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱をしていさえすれば、明るい世界では、口を利くことは勿論、側へよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き肌に触れることも出来るのでございます。

本人は『恋』と言うけれど、自分の中に完全に閉じた恋である。

相手と一切、顔を合わすことなく、耳と鼻と肌から得られる情報だけを頼りに、相手の姿形を思い浮かべ、恋をする。

二人の間に、終わりもなければ、始まりもない。自己完結型の恋だ。

男に言わせれば、「それは、ただ、触覚と、聴覚と、そして僅かの嗅覚のみの恋でございます。暗闇の世界の恋でございます

だが、対象愛とは、そういうものだ。

女が身に付けていた靴、下着、あるいは、手だけ、足だけ、自転車のサドルに興奮する人もある。

女そのものではなく、身に付けていた物から連想される、様々な情景――たとえば、女のまたがっていたサドルであるとか、靴のすり減り方から思い浮かぶ女の足の形や温もりといったものに想像たくましくして、欲望をかき立てられる。

普通の人には理解不能だが、自分の妄想に恋する人の気持ちも分かるような気がする。

何故なら、画家も、作家も、大なり小なり、自分の創作物に恋するものだからである。

世の中には、恐ろしく勘の鋭い人がいて、そういう人の感性は常識の物差しでは測れないものだ。

この椅子職人も、変態的な性的嗜好というよりは、椅子と自分自身が完全に同化してしまう、ユニークな感性と想像力の持主なのだろう。

また、そうした人は、男として女性を愛でるより、椅子として女性と触れ合う方がはるかに深く愛することができる。

女性恐怖症でもなければ、差別主義者でもなく、男にとってはそれが最善なのだ。

やがて、椅子職人の男は、洋館に住まう若く美しい夫人に特別な感情を抱くようになる。

私は、せめて夫人に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起こさせようと努めました。芸術家である彼女は、きっと常人以上の、微妙な感覚を備えているに相違ありません。若しも、彼女が、私の椅子に生命を感じてくれたなら、ただの物質としてではなく、一つの生き物として愛着を覚えてくれたなら、それだけでも私は十分満足なのでございます。

私は、彼女が私の上に身を投げた時には、出来る丈けフーワリと優しく受ける様に心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分からぬ程度にソロソロと膝を動かして、彼女の身体の位置を換える様に致しました。 ≪中略≫

その心遣りが報いられたのか。それとも、単に私の気の迷いか。近頃では、夫人は何となく私の椅子を愛している様に思われます。彼女は、丁度、嬰児が母親の懐に抱かれる時の様な、又は、処女が恋人の抱擁に応じる時の様な、甘い優しさを以て、私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、身体を動かす様子までが、さも懐かしげに見えるのでございます。

そして、男は、手紙の受取人である『奥様(佳子)』に、「一生の御願いでございます」と懇願する。

「ひと言でも、この哀れな醜い男に、慰めのお言葉をおかけ下さる訳には行かぬでございましょうか」

その時、佳子は、男の語る肘掛椅子の特徴や、「夫人の暮らし」にある種の符号を感じ、慄然とする。

恐怖にかられて、立ち上がった時――。

*

続きは、ぜひ、作品をお読み下さい。

青空文庫にも全編、掲載されています(無料。著作権が切れたので)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56648.html

『側溝男』は文学的存在

さて。私がこのレビューを書くきっかけとなった『側溝男』だが、メディアでは下記のように紹介されている。

http://www.sankei.com/west/news/151207/wst1512070012-n1.html(リンク先は削除されています)

実は男の側溝侵入癖は十数年前から続いており、近所では有名だった。肉親の一人は「幼いころから、家の軒下や排水溝のような狭い場所で遊ぶのが好きだった」と明かした。

側溝に入るようになったのは中学生のころ。最初は、側溝から突然顔を出して近所の人を驚かせる「いたずら」のつもりだった。それが思春期を迎え、たまたま側溝から女性の下着を見たことで、「側溝と性的嗜好が結びついてしまった」(肉親)という。

男は「側溝に入ることで迷惑がかかることは分かっている。入らないでいいのなら苦労はしない」と身内に〝苦悩〟を明かすこともあった。

「側溝には多い時で年間80回ぐらい入った」

「側溝は落ち着く場所」

また、ロケットニュースでも、下記のように紹介されている。

【独占インタビュー】側溝に入ってスカートを覗いた「生まれ変わったら道になりたい」男についてパンツ愛好家に意見を聞いてみた

常人には理解しがたいが、文学的には十分有りだと思う。

江戸川先生が存命なら、きっと理解を示されただろう。

側溝男に限って言えば、こういう嗜好は理屈で変わるものではないし、誰にも迷惑かけずに、心の中で愉しむだけなら、他人にとやかく言われる筋合いはないからだ。

もちろん、この現実社会を生きていく上で、倫理は法治が重要なのは百も承知である。

しかし、人間というものは、善悪だけで推し量れるものではないし、弱いものは醜いものにも存在意義はある。

「その他大勢のまともな人」と異なるだけで、一方的に断罪されては、救われるものも救われないだろう。

この世に何の為に文学が存在するのかといえば、奇異なものにもYesという為だ。

文学においては、卑怯者も、極悪人も、存在を許される。

何故なら、それも我々の一面だからである。

社会に倫理と法律しかなかったら、多くの人が居場所を奪われ、人間関係は裁きの場と化すだろう。

世の中には、文学でしか理解できない人間もいる。

人間椅子や側溝男はその典型だ。

彼らのような文学的存在にも門戸を開いてこその多様化ではないだろうか。

大槻ケンジのあとがき ~冷徹だから書ける異形愛

筆者が所有する単行本の巻末に収録されている、大槻ケンジ氏のあとがきが面白いので、併せて紹介したい。

ダメ人間ですよね。社会不適応社です。世の中とうまく交われないんですよ。乱歩はまた、そういった、自尊心ばかり強くて、そのくせ人間関係はてんで苦手で、だから人間が嫌いで、でも本当は人と接したくて、できなくて、どうすれば人と接することができるのだろう? 考えて、考えすぎて、奇想に至り、そしてついに見つけた方法が、一般の社会では犯罪と呼ばれるものだった、という、なんだか現代のニート・引きこもりの起こす事件を思わせるような、青春の悲喜劇、を数多く書いています。

「屋根裏の散歩者」「パノラマ島奇譚」「虫」等々、主人公の中にはもう青春とは呼べない大人も登場しますが、それでもダメ人間の青春の悲喜劇であるなこれはと、読めばわかります。個人的には十代から二十代前半にかけては、乱歩の作品のこの側面に教官して、青春小説として愛読したものです。

≪中略≫

乱歩が書庫に使っていた土蔵が、池袋に現存しています。僕は何度か入る機会に恵まれました。ヒンヤリした土蔵の中には、洋の東西を問わず、犯罪や変態心理学に関する文献、怪奇探偵小説などがビッシリと揃えられていて、主のいなくなった薄闇の中で、それらが長い眠りについているように見えました。隣接の住居には乱歩が使用した部屋がこちらも現存。布張りのソファーに、乱歩になったつもりで座してみると、それは僕の身体をずい分深々と沈み込ませたものです。もちろん、使い古されてスプリングがやわらかくなっていたからでしょう。でも、そこはそれ、「あ、今日はあの椅子職人、中にいないんだな」と僕は思いました。

側溝男さんには、『側溝男』という小説でもお書きになって欲しい。

この世で、異形とか変態とか呼ばれる人のために、文学は門戸を開いているからだ。

その類い希な想像力を生かして、ぜひ側溝と一体化できる男の心理を書き表して欲しい。

側溝のじめじめした暗さや息苦しさの中で味わう、究極の悦楽を。

ただ、側溝男自身が小説を書くなら、側溝と一体化する自分自身を客観的に分析する必要があるので、そんな理性があるなら、最初から側溝に入ることもないと思うのだ。

そう考えると、奇形や異形愛に詳しい乱歩も、中身は、まっとう至極の人で、むしろ冷徹なほどだったのではないか。

多くの場合、小説を書くのは、筋金入りの革マニアではなく、革に興味のある真面目な会社員である。

乱歩も、自分自身が異常でないから、アブノーマルの世界を生き生きと描くことができたのかもしれない。

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初稿 2015年12月7日

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