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【エッセー】 断崖の淵で何度でも立ち上がる
今から6年前、北陸自動車道をぶっ飛ばして、能登半島まで出掛けたことがある。
太平洋よりは、峻烈な日本海が好きで、暇さえあれば、越前海岸や丹後半島あたりをドライブしていたもの。
だけど、ろくに行き先も決めずに飛び出したのは、あれが初めてだった。
「海が見たい」――なんとはなしの思い付きから。
ガラすきの北陸道。
北に向かうダンプの群は皆やかましい。
行く当てもなければ、帰る場所もなく、道の向こうに答えをくれる「何か」が欲しくて、がむしゃらに車を飛ばしていたあの日――。
ほとんど喧嘩腰の追い越し合戦に勝ち抜きながら、韋駄天スターレットはぐんぐん北へ遠ざかっていく。
何処で引き返すかなど考えもしなかった。
たとえこのまま帰らなかったとしても、どうでもいいような気さえしてた。
途方に暮れて、その場にうずくまっているより、行き先は無くとも、何処かに向かって走っている方が、気が紛れたから。
何時の間にか越前海岸を過ぎ、金沢までやって来ると、脳裏にふと、長靴みたいな能登半島の地形が浮かんだ。
(能登半島の先端まで行けば、海だけが見えるかもしれない)
純然たる、青い海だけが)そう思って高速を下りると、海側に向かって、めくらめっぽうに金沢市内を走り回った。
そして、どうにか能登有料道路に乗っかると、目指す先端に向かって更にスピードを上げた。
途中、千里浜渚ドライブウェイに寄り道し、広大な砂浜を蹴散らすように走ってもみたが、オカマのスターレットは四駆のようにワイルドな走りはしてくれない。
ただ車体を泥んこにしただけで、屋台で食った生焼けのイカ同様、何か吹っ切れぬものを心に残した。
それから歯につまったイカをシーシーしながら、国道249号線へ。
半島の西側を走る、海岸沿の国道だ。
先端に着くまでに、日も暮れるかもしれない。
それでも止まりたくない。
とにかく行き着く所まで行きたい。
純然たる青い海が見渡せる所まで走っていきたい。
夜になったら、車の中で寝りゃあいい。
どのみち、帰る気なんかありゃしないんだから……。
そんなことを思いながら、車をすっ飛ばしていると、能登金剛と呼ばれる海岸までやって来た。
能登金剛は、半島のくびれた西側に位置する海岸で、日本海の荒波に造られた険しい海岸線が約29キロメートルに渡って続いている。
見所もいっぱいで、「巌門」と呼ばれる海食でできた巨大な洞門や、伊勢の夫婦岩を思わせる「機具岩」、海に突き出した人の横顔のような岬「関野鼻」などが、観光名所として知られている。
が、分けても目を引いたのが、『ヤセの断崖』だ。
これは松本清張氏の名作「ゼロの焦点」の舞台となった断崖絶壁で、海に突き出た断崖の高さは55メートルにも及ぶ。
立て看板の案内に従い、国道から海岸沿の道路に折れると、前方に壮絶な造形が見えてきた。
まるで鎌首のように研ぎ澄まされた断崖絶壁が。
その上で、恐々と観光客が足元を覗き込み、写真を撮ったり、海に向かって石を投げたりしている。
私は車を駐車場に突っ込むと、断崖へと続く小路を歩いていった。
途中、観光名所らしく整備された公園を通り抜け、「スゴイね」「コワかった~」という観光客の声を傍らに聞きながら、さらに海へ向かっていくと、突然、青一色。
目の覚めるような青が視界いっぱいに広がった。
これは海?
どこからが空?
ここはいったい、地の果てなの――?
見渡す限りの青にしばし圧倒される。
「純然たる海が見たい」と望んで来たが、目の前に広がるそれは、想像以上の美しさだった。
……そうして、ふと足元を見下ろすと、奈落のような断崖の底に、影を帯びた青い水が蠢くように波打っている。
吸い込まれそうに遠い水面。
寂滅の影。
何も無ければ、ふいと身を投げてみたくなる。
その彼方に真の静けさがあるような気がして――。
私は膝を折り、両手を崖の縁につくと、幾多の人と同じように身を乗り出し、崖の下を覗き込んだ。
鎌首のようにせり出した崖の縁には、柵も、ロープも何も無い。
越前海岸の東尋坊でさえ、近頃はあちこちに柵が張り巡らされ、でこぼこの岩場もコンクリートで均されている。
だが、この『ヤセの断崖』は、まさに剥き出しの断崖。
生と死が一筋に繋がれている。
阻むものは何も無い。
生きるか、死ぬか、どちらかである。
私は両手を崖の縁についたまま、奈落のように遠い水面をいつまでも見つめていた。
ここが地の果てなら、もう何処にも行き場はない。
再び立ち上がる勇気が無いなら、ここで朽ちるしかないし、それが嫌なら、潔く身を処すしかない。
影を帯びた青色が、あんなにも静かに、魅惑的に見えるのは、心の弱さゆえか、あるいは持って生まれた憧れなのか――。
分かるのは唯一つのことだけ、それに身を委ねれば、『一切が終わる』ということだ。
『一切』とは魂――”物思う私”のすべてである。
真に生きているのは肉体ではなく、魂。
“物思う私”から逃れようと思えば、”入れ物”ごと葬るしかない。
私にとって『一切の終わり』とは、「何も思わなくなること」であり、『静けさ』とは、「何も感じなくなること」だった。
そして、ここは断崖の際。
地の果て。
生死の境。
阻むものは何も無い。
在るのは唯一つ、己の意志のみ――。
飛び込むも良し、その場で朽ち果てるも良し、正答を示してくれるものなど何も無い。
決めるのは唯一つ、己の意志のみ――。
人間はどうにでも自分の未来を選び取ることができる。
そうしてふと顔を上げ、落ちた視線を真っ直ぐ前に向けると、漠々たる大海原が広がっている。
凪いだ水面。
眠りのような静けさ。
空を渡る風さえも、行き場を無くしたように波の上を廻り廻っている。
生きているのか、死んでいるのかも分からない。
ただ茫漠たる水が横たわっているだけだ。
だが、すべての生命はここから生まれた。
無とも思える果てしない広がりから、一つずつ生まれてきた。
今、目の前に広がる青い水が、死んだように眠っているからとて、もう何をも生み出せぬわけではない。
一見、無とも思えるような水の底にも生命の種は在り、自ら掘り出せば、世界をも変えるような実を結ぶかもしれぬのだ。
陽もまた昇る。
空と海がとけゆく彼方から再び姿を現わし、漠たる闇を一条の光で貫く。
未だ光を放たぬあまたの曙光が、海の彼方にどれだけ眠っていることか。
人はただ気付かぬだけ。
本当の希望は夜の底にあることを。
『無より転じて生を拾う』――
これが意志の力であり、真の英知と思う。
人間は生に向かう限り、何度でも立ち上がれる。
無の底からでも何かを築き上げていける。
創造とは、既成のものを膨らませていくことではない。
一見、何も無いような海の底から何かを拾い上げることだ。
無から掘り出した一点の源流を、命あふれる海へ満たしてゆくことだ。
そうして自己の探求と完成が全体の福祉と幸福に還元された時、創造は究極の目的を果たすのではないかと思う。
さらに頭を上げ、天を仰げば、そこに輝ける陽を見出すことができるだろう。
『偉大な正午』と呼ばれた、永遠の光を。
悦びも、悲しみも、すべてを超えた至純の輝きを。
そうして二度、立ち上がる。
地の果て、生死の境である断崖の際で。
地にしかと足を着け、今一度、大海原を見渡せば、きらめく波間に新たな波動を感じることができるだろう。
ひそかに息づく希望の萌芽を。
あれは空と海のとけゆく彼方。
光が生まれては、死んでゆくところ。
時が廻り廻るように、運命もまた永遠に廻る。
何かを無くしても、生ある限り、何度でも見出すだろう。
あの海の彼方から――
眠れる海の底から――。
海を語った言葉は数あるけれど……私が一番好きな言葉は、
『全海洋の97%を占める100メートル以深の部分は、太陽光はほとんど吸収され、実際には闇の中にある』
《 新しい海洋科学 : 著 能沢源衛門 》
海面に到達した太陽放射の一部は反射されて宇宙空間に戻るが、大部分は屈折してから海水中を進む。
しかし、外洋の澄んだ海水中でも、太陽放射は深さ10mまでに約90%が吸収されてしまうので、
海というのは、その大部分が『闇-未知なる世界-』なのだ。
我々は、目映いばかりに輝くあの美しい姿を『海』と呼んでいるが、それはほんの表層に過ぎない。
本質はその内側にあり、多くが闇に包まれている。
人間もかくの如し――世界もまた謎のるつぼだ。
もし、地球上の海水が全て干上がったとしたら、我々はそこにどんな地球の姿を見るだろうか?
初稿:99/07/04 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より
【哲学コラム】 ニーチェのニヒリズムより : 神は死んでも、人は生きてゆく
ニヒリズムが蔓延しだした19世紀末、ドイツの哲学者ニーチェは言いました。
『神は死んだ』と。
『神』=すなわち「人間を導く超越的真理」「時を超えて人間を導くもの」「道なるもの」「理念」「世界軸」。
著しい科学の進歩や、多様な価値観や個人主義、溢れかえる情報が、それに代わるものを見いだせぬまま、私たちの『神なるもの』を殺したとニーチェは主張し、それゆえの人間の不幸と社会の混乱を指摘し続けました。
身近な例を挙げれば、教師の権威が失墜して、学級崩壊をきたしたような状態。
「教師の言うことなんか聞いてられるか」
「授業中に携帯かけて何が悪いの? 誰にも迷惑かけてないじゃん」
従うべきルールや人を導くものが無くなれば、皆、好き勝手しだしてメチャクチャになる。
そのくせ、「何の為に勉強するの?」「将来、何をすれば良いの?」
「友達付き合いに悩んでます」となった時、何処に答えを求めれば良いのか解らない。
指針となるものもない。
だから迷う。空しくなる。
――そういう状態。
そこで、ニーチェは『現代人の処方箋』について考えました。
つまり、人間にとって苦悩は避け難い本質として存在する、ということになる。
人間がこの避けがたい生の苦しみの中で、そこから逃げる道筋は三つしかない。
宗教、芸術、道徳である。
これらだけがそれぞれ独特の仕方で、人間に生の苦悩から脱却し得る可能性を与える。
要約すれば、
【 現実世界の超え難い矛盾にもかかわらず、いかに生を是認し、肯定できるように考えるか 】
これがニーチェの哲学の根幹であり、処方箋への道筋なんですね。
世の中には、美人もいれば、そうでない人もいる。
ステータスの高い人もあれば、ネットカフェで寝泊まりしているような人もいる。
宝くじで3億当てる人もいれば、事業に失敗して1億の借金を作るもいる。
個々の違いは厳然と有るし、すべて公平とはいきません。
皆、それぞれに、何らかのルサンチマン(怨念)を抱えて生きているのが現実です。
「生の肯定」とは、ありのままの自分を認め、受け入れる所から始まります。
貧乏なら貧乏、不器用なら不器用、その事実を自分の現実として、そっくり受け止め、そんな自分に「YES」というところ
から始まるのです。
ニーチェは言いました。
「自分の価値は自分で見出せ」と。
それは自分自身に「YES」という気持ちから始まるのです。
そしてひとたび、自分の価値を見出したら、自分の良さを最大限に発揮できるような生を築き上げていこう。
神や他人に頼るのではなく、両足を大地にしっかと踏みしめ、自分の力で上へ上へ登っていけ、というのがニーチェの教えでした。
ところが人間はそんなに強くない。
迷いもすれば、過ちもする。
どうしたって救いが欲しいし、道を説いてくれるものも欲しい。
ニーチェの言う通り「自分」を基軸に生きていたら、何処かで無理が生じるし、行くべき道を見失ってしまいます。
また、彼は「超人」になれ、「自らを超克して強くなれ」と説きましたが、誰もがそんなに強くなれない時もあるんですよね、現実には──。
となると、やはり人間には『神なるもの』が必要。
じゃあ『神なるもの』て何だろう?
人間にとって、
「人生の指針となるもの」
「世界の基軸となるもの」
「人間を導く道となるもの」
「時を超えて生き続ける真理」
とは、一体、何?
与えてくれるのは誰?
教えてくれるのは誰?
どうやってそれを伝えていくの?
私はどうしてもニーチェの先にあるものが知りたくて、背伸びもしてみましたけど、今のところ、コレと納得行くものは見つかっていません。
最後に――
新作『ジャンヌ・ダルク』を完成させた、映画監督リュック・ベンソンの言葉。
ベンソン: 現代は、信じられるものがない。だから、何かを信じぬいた少女を描きたかった。
ジャンヌが「信じぬいたもの」って何だと思います?
私は、「神の声」そのものではなく、『私は神の声を聞いた』という「自分自身」だったと思います。
記: ‘99.12.16
参考記事 → 何を信じ、どう貫くか リュック・ベンソンの映画『ジャンヌダルク』と正しい信仰心
【哲学コラム】 自己超克は本当に必要なのか
要は、『愛の問題』と結論づけたら、どつかれるのかな(笑)
でも、結局のところ、それしかないんじゃないか、と私は思うのだけど。
女性に縁のなかったニーチェ。
『自己超克』などしなくても、不完全な自分を支えてくれる人を見つければいい。
不完全な人間同士、温め合い、助け合い、そっと寄り添って生きていけばいい。
それで万事、解決するんじゃないか、と。
ニーチェに手紙を書きたくなったのが、1998年末のこと。
強く生きるのは、私も好きだ。
でも、強く生きられない人のために、愛の処方箋も要る。
神は死んでも、愛は生き続ける。人の世のある限り、きっと永遠に。
今は、書を閉じて、バレンタインを君と祝おう。
私の青春を支えてくれた、「ツァラトゥストラ」と共に。
『のぼれ、のぼってこい、お前、偉大なる正午よ──』
その陽の中に、ハート型の輝きがある。
ニーチェ おすすめ書籍
「ニーチェって何ですのん?」という方におすすめのビジュアル伝記&哲学解説書。
70年代調のサイケなイラストを豊富に取り入れ、ニーチェの哲学のバックボーンを初心者に分かりやすく説明してくれる。
できればキリスト教の知識もあった方が分かりやすいが、気軽に手に取るならこれ一冊でもOK。
私も大好きな一冊です。
ニーチェ (FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 47)
「生の高みと肯定」を主張する、ニーチェの最高傑作。
いろんな訳本が出ていますが、私にはこれが一番読みやすかったです。
分厚いですが、ツァラそのものが詩の形式をとっているので、一節ごとに分けて読み進めることができます。
いつの間にやらハマってしまう励ましの言葉も多いので、全然読んだことがない方も、これだけはトライして頂けたらと思います。
ニーチェの名言と現代人の生き方を照らし合わせながら、一つの生きる方向を示唆する人生読本。
といっても、お説教くさい内容ではなく、人間や社会の真実を真っ向から見据え、いかに戦い抜くか、といった、地に足のついたお話がメイン。
入門編としてもおすすめです。
初稿:1999年7月4日