ネットにすら居場所がない 「ネカマ裁判」とGoogle検索の顛末

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ネカマ裁判 インターネット黎明期のレジェンド

「ネカマ裁判」とは、読んで字の如く、ネカマ(女を装った男性ユーザー)が出会い系で男性ターゲットを釣り上げ、メールやチャットでの赤裸々なやり取りをネットで晒すという、90年代末期のアングラサイトの代表格のような人気サイトです。

「ネカ裁のゆん様」と言えば、ネカマ界隈では知らない人がないほどの存在感。似たようなアングラサイトは数多くありましたが、その中でも、文章のセンス、スキルともに際立ち、特に「判決」と称して、相手のメールアドレスに何千通ものメールを送りつける「メールボム(爆弾)」の手法は、ネットいじめに苦しむ弱者ユーザーの憧れでもありました。(もちろん、ゆん様が手法を明かすことはありません)

これも閉鎖されて、二度と閲覧できないと思っていたら、なんとキャッシュを取得して、今も保存している人がいるらしい。

内容はエロ満載なので、直接リンクを張ることはありませんが、興味のある人は自己責任で見に行って下さい。90年代のネット芸を凝縮したような、アングラサイトの見本です。

被告人・古代文明男(ファラオを名乗る調教希望メール)
http://web.archive.org/web/20040606004933/http://www.nekasai.com/sanae10.htm

被告人・盲腸男(頭カラッポ大学生)
http://web.archive.org/web/20040606005539/http://www.nekasai.com/ryouho05.htm

ちなみに、「アングラサイト」と「ダークウェブ」は似て非なるもので、ダークウェブが違法を前提で闇に潜っているのに対し、アングラは知性も常識もある管理人が「とても世間様にはお見せできない」ことを自覚した上で、こそっとやるウェブサイトです。そこには「申し訳ない」「恥ずかしい」「やってはいけない」という感情が常に漂い、訪問者もうしろめたい気持ちを感じながら閲覧するのが常です。

ネカ裁のゆん様にしても、多分、外では、真っ当な社会人ですし、メールボムの手法も、「ここまで説明して、意味が分からないなら、やる資格なし」で、結論は絶対に教えない。その点が、悪の手法を高額でやり取りするダークウェブとの大きな違いです。(だとしても、メールボムはやり過ぎと思いますが(^_^;

そしてまた、こうしたアングラサイトが花を添え、ネットの個人文化も百花繚乱の成長を遂げたわけですが、それを快く思わない勢力も多数存在しました。

その最大手が、Googleです。

Googleはネット民に何をしたのか

Google検索エンジンが登場するまで、ネットの人気サイトは「口コミ」で拡がるのが常でしたし(SNSと異なり、本当に好きな人だけが、同じように好きそうな人に紹介するシステム。主に趣味のサイトやメールで拡散)、当時、ネット検索の権威であったYahooディレクトリも、自称・ネットのプロが、視認で品質を確認したウェブサイトだけをリストに登録し、それ以外は、「ウェブリング」のようなネット同好会にでも入らない限り、ほとんど存在を知られることもない状態でしたので、一部の物好きが狂ったように「ゴルゴ13」や「銀河鉄道999」のレビューを書き続ける、まさにオタク・オブ・オタクの世界でした。だからこそ、多種多様な個性が花開き、本当に好きな者同士だけが集まり、わいわいガヤガヤ、情報交換を楽しむことができたのです。

ところが、それではネットの役に立たぬ、世の中はWEB2.0を求めているとかで、Googleがキーワード主体の検索エンジンを開発し、個々のウェブサイトは口コミや権威によるランク付けではなく、キーワード(質問)を介してユーザーに届くようになりました。

WEB1.0の時代は、横浜の美味しいラーメン屋を探そうと思ったら、ラーメン通で定評のある個人ウェブサイトを渡り歩き、何日もかけて探し出すような状況でしたが、Google後は、「横浜 ラーメン店 美味しい」とキーワードを打ちこむだけで、詳細な地図とともに、有名なラーメン屋のリストが秒速で返ってきます。

これほど便利なサービスもなく、Googleは瞬く間にネットの神となりましたが、一方で、「○○ 詐欺」「○○ はだかの写真」「○○ タダ読み」など、よからぬ目的でアクセスするユーザーも後を絶たず、Googleは威信を懸けて、デマ、詐欺、誹謗中傷といった低品質コンテンツの排除に乗り出します。

その結果、どうなったか。

『ネカマ裁判』のようなアングラサイトは言うに及ばず、個人のレビューやコラムまで、山の彼方に吹っ飛び、一般の目に触れなくなりました。ネットから多様性は失われ、それまで好きなアニメの話をすることだけが生き甲斐だったオタクも居場所を失い、今では、マネタイズできない表現者や、多数に相手にされないアカウントは、無視され、馬鹿にされ、存在しないも同じことです。

これが百花繚乱ネット文化のなれの果てかと思うと、「人類にネットは早すぎた」というより、実は恐るべき金と権力の収集スキームであったことを痛感せずにいられません。

もう二度と90年代のようなネット文化は戻ってこないし、今後ますます規格が統一されて、真面目なものや美しいもの、金になるものしか存在しない、息苦しい世界になっていくのは間違いないと思います。

ネットにすら居場所がない

本来、ネットは、安心して愚痴や本音が吐ける世界でした。

恋の悩み。

仕事の悩み。

ぎりぎりきわどい告発もあれば、批判もあり、それはそれで何かの役には立ったものです。

もちろん、嫌がらせをする人は90年代から存在しましたが、そんな時は、さっさと看板を掛け替えて、一からやり直せばいいだけの話。

それよりも、自分の思いや考えをストレートに綴り、誰かと分かち合う方がはるかに楽しかった。

それこそ表現によって、オタクも、弱者も、自分の居場所を見出し、知るる人ぞ知る小さな井戸端で、意見交換やストレス発散することができたんですね。

ところが、今では、「表に出しても恥ずかしくない」オフィシャルなもの、有名なものだけが優遇され、名も無きネットの表現者は存在すら抹殺されつつあります。

それは表現者のみならず、求める側も同じこと。

皆が皆、有名作家の有り難い文章が読みたいわけではないし、広告の裏に書き殴ったような文章に、思いがけず感銘を受けた人も多いはず。

それを一企業が全てコントロールして、画一化すれば、活動の幅も狭まりますし、弱者や変人はそれこそ居場所がなくなってしまいます。

いわば最後のフロンティアであったネットがこの状態では、人も社会もかえって不幸になるだけではないでしょうか。

書いて救われる

本来「書くこと」や「描くこと」は、自分自身を解放し、脳内に散らばった思考を一つのストーリーに練り上げ、魂を可視化する、素晴らしい行為です。

それが愚痴であれ、批判であれ、書く方も、読む方も、そこに誰かの存在を感じて、気持ちを浄化することができますし、どんな人も、具現化して手放さない限り、心が救われることはありません。

もちろん、今でも好きにつぶやき、手軽に共感を得ることはできますが、「つぶやくこと」と「文章化すること」は似て非なるものですし、共感が目的になれば、それはもはや自己表現ではなく、商売です。そして、商売には結果が不可欠で、商売にならない執筆はやるだけ無駄、ということになります。しかし、それが本当にその他大勢の願いでしょうか。

90年代のネット黎明期が理想モデルとは言いませんが、少なくとも、名も無き者にも居場所はありました。それゆえに、ネットもここまで発展したと思います。

錦鯉だけでは池の生態系は成り立たないように、雑魚を一掃したネット・サービスも、いずれ飽きられ、それでも儲けたい経営者が看板だけを取り替える、不毛な作業が続くだけではないでしょうか。

誰かにこっそり教えたい 👂
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