平昌五輪で大人気の『モルゲッソヨ』のアスキーアートがあまりに素晴らしいので、寺山修司の名句と掛け合わせてみました。
モルゲッソヨは立ち会いを許された覗き魔である。
寺山修司の仮面画報より
正しくは、「観客は立ち会いを許された覗き魔である」。
どんな鳥だって
モルゲッソヨより高く飛ぶことは
できないだろう
『ロング・グッドバイ』より
正しくは、「どんな鳥だって 想像力より高く飛ぶことは できないだろう」。
モルゲッソヨがかなしいのは
いつも何かを消してゆくだけで
だんだんと多くのものが失われてゆき
決して
ふえることがないということです
正しくは、「消しゴムが悲しいのは」。
歴史をかえてゆくのは革命的実践者たちの側ではなく、むしろくやしさに唇をかんでいるモルゲッソヨたちの側にある。
正しくは、「唇をかんでいる行為者たちの側にある」。
まったくのところ、オリンピックを必要とする社会は不幸かも知れぬが、オリンピックのない社会の方がもっと不幸なのだということは、肝に銘じておく必要があるのではあるまいか。
正しくは「サーカスを必要とする社会は不幸かも知れぬが、サーカスのない社会の方がもっと不幸なんだということは」。
サーカスは『娯楽』『タブロイドネタ』に置き換えても分かりやすい。私も前後の文章を知らないので、これは推測になるけれど、大衆が現実に倦んで、真剣な論争や学びよりも、サーカスのような娯楽をより求める社会は不幸かもしれないが、それさえも生み出す余裕のない社会はもっと不幸ではないか……というような意味と思う。
隣国の情勢も難しいが、とにかく、オリンピックが開催され、モルゲッソヨに湧いている状況は救いである。
モルゲッソヨの一生は、いわばその父を複製化することにほかならない。
正しくは、「男の一生は、いわばその父を複製化することにほかならない」。
要は、どんな男も、自分の父親の一生を辿っていく……ということ。絶望すんなよ!
モルゲッソヨは 人間の作る いちばん小さな像です。
正しくは「なみだは人間の作るいちばん小さな海です」。
ユリシーズの時代には、肉体が見事だというだけで英雄になれた。
だが現代では見事な肉体の持ち主は、労働者になるか、モルゲッソヨになるしかなくなってしまった。
そして、君臨しているのは貧弱な肉体とゆたかな頭脳を持ったインテリという種族である。
病める英知のなかで、ああ、見事なモルゲッソヨの夢は、いずこ?
正しくは、「見事な肉体の持ち主は、労働者になるか自衛隊に入るしかなくなってしまった。~病める叡智のなかで、ああ、見事な肉体の夢は、いずこ?」。
書かれたのは1970年代ですから。自衛隊という言葉に過剰に反応しないように。……というような注釈を付けねばならない時代もあまり幸福とはいえないな。
マッチ擦る つかのま海に 雪ふかし 身捨つるほどの モルゲッソヨはありや
正しくは、「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」。
「ぼくは引き算がきらいです」
と、小学生だった私は父に言った。
「なぜだね?」
「引き算は、だんだん少なくなってゆくから、さびしいです」
「では、足し算ならいいだろう。数がふえるのは、賑やかでいい」
これはそのまんま。
日本の笑いとアスキーアートとクソコラ
アメリカに言って、TVのトークショーやコメディを見ても、何が面白いのか、さっぱり分からないことが多い。
単に英語力の問題ではなく、映画の『ラストベガス(吹替版)』とか『オースティン・パワーズ(吹替版)』とか『空飛ぶペンギン (字幕版)』とか、周りがおすすめするコメディを字幕付きや吹替で見ても、笑いのツボが全く違っていて、いつも途中で寝るか、チャンネルを変えてしまう。
それはネットで人気のオモシロ画像やジョーク漫画も同じこと。面白いといえば面白いけども、腸がよじれるような笑いには至らない。
私にとって笑いといえば、やはり日本のネットが誇るアスキーアートであり、クソコラであり、かつての『オレたちひょうきん族』のような笑いだからだ。
それだけに、平昌五輪の関連ニュースでモルゲッソヨを目にした時、どれほど自分の中で盛り上がったことか。
新国立競技場のクソコラ大会以来、少々、界隈が淋しかっただけに、モルゲッソヨの破壊力は時空を超えるほどの衝撃だった。
とりわけ今回のオリンピックは政治問題ばかりが先行し、本来、名誉なはずの出場者が気の毒に見えたりして、どうなっちゃうのかと心配していたが、暗雲も吹き飛んだ。
モルゲッソヨのおかげで隣国とも楽しい話題を共有できれば、これほど目出度いこともない。
韓流ドラマ『冬のソナタ』が流行っていた頃、「ペ・ヨンジュンは100人の外交官にまさる」といわれていたが、モルゲッソヨもそれに勝るとも劣らない笑いのアイコンだ。
おかげで、私も一つ、確実に韓国語を覚えた。『モルゲッソヨ(分からない)』。
似たような人は他にも大勢いるだろう。
私もいろんなコメディやパロディを目にしたが、やはり日本の『いじり』は偉大だと思う。
確かに、スティーブ・ジョブズのiPhoneや、ビル・ゲイツのWindowsに比べたら、イノベーションには程遠いかもしれないが、それとは異なる才能が日本人にはある。
それは何かといえば、誰かが生み出したものを、いじる、こねる、拡張する、二次創作力だ。
アスキーアートやアイコラに限らず、料理でも、ファッションでも、いじらせたら、世界に類を見ない面白いものを作り出す。
0から1を生み出すだけが天才でもあるまいに、いじって、異質なものに昇華させるのも立派な才能だろう。
そんでもって、日本的な笑いは、アメリカン・ジョークのように相手にストレートパンチを食わせるのではなく(「腹のサイズもビッグマックに合わせたのさ」みたいなのでなく)、
とことん隠微で、比喩的である。
モルゲッソヨにしても、ホントは「○○」とストレートに揶揄したいところを、ユニークな裸絵に描いて毒気を薄め、可愛く仕上てはいるが、言いたいことはきっちり伝える。
この韻を踏むような笑いは、高度なセンスがなければ出来ないことだ。
実際、アメリカン・ジョークや海外のおもしろ画像は、あまりにストレートで、笑うに笑えないところがある。
それこそデブを後ろ指でさして、せせら笑うような残酷さだ。
その点、日本のアスキーアートやクソコラ界隈は、どこか笑いが上質で、相手を傷つけない程度にいじるセンスを持ち合わせている(絵柄は下品でも)。
デブを後ろ指でさすのではなく、誰もが抱える痛みや劣等感を自嘲や激励の中に昇華し、共感へと導く優しさだ。
モルゲヨッソも、「こんな下品な絵にして失礼じゃないか」と怒る人もあるかもしれないが、分かる人には分かる、私たちにとっては「いじることが愛なんだ」。
奇妙きキテレツなオブジェではあるが、皆、ほんとは好きだろ?
決して笑いものにする為にアスキーアートにしてるんじゃなく、好きな気持ちを表現したら、こうなっちゃうんだろ?
それがデブに「デブ」と言うアメリカン・ジョークとの違いだ。
日本人にとっては、突如、オリンピック会場に出現した弾丸男に魂を宿らせ、飛んだり、鼓舞したり、淋しがったり、一つの人格に昇華させることが『愛』であり『笑い』なんだよ。「経済制裁で銅像のパンツも買えなくなったみたいだ」とブラックジョークにするのではなく。
アスキーアートの職人さんたち、面白い作品をありがとう。
おかげで私もストレス解消になりました。
ちなみに、この記事を手がけたのは、冒頭のイラストを見た時、「観客は立ち会いを許された覗き魔である」という言葉を思い出して、ムラムラきたからです。
記事中のアスキーアートは『モルゲッソヨのAA集(永久保存モルゲッソヨ版)』を参考にしました。
現在このURLは削除されています → https://matome.naver.jp/odai/2151817950504639901
モルゲッソヨの起源などは、ハフィントンポストで詳しく紹介されています。
なんだこりゃ? 平昌オリンピックに謎の物体「モルゲッソヨ」