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ニーチェの『曙光』~いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり

宇宙に幾多の星が瞬くように、海の底にも数え切れないほどの光の萌芽が眠っている。

いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり

インドの古典『リグ・ヴェーダ』の一節を胸に浮かべながら、アルはシートに深く身を沈め、未だ見ぬ光の萌芽を思った。

陽は落ちても、また立ち上り、永遠に海を廻る。

アルが本当に掘り出したいのは海底に眠る鉱物資源ではなく、あまたの光の萌芽かもしれない。

第1章 運命と意思

『海洋小説 MORGENROOD -曙光』では、海底鉱物資源の採掘を目指すアる・マクダエルが、解雇された潜水艇パイロットのヴァルター・フォーゲルに目を留めて、自らスカウトに赴きます。いろいろ問題を抱えたヴァルターは決して優秀な人材とは言えませんが、「拾いの神」で知られるアルの目には、深海の鉱物のように可能性に満ちた人物に見えたからです。

作品タイトルの『曙光』は、「いまだ光りを放たざる、いとあまたの曙光あり」というリグ・ヴェーダの一節(ニーチェの名著『曙光』の冒頭に記されている)にインスパイアされたものですが、大洪水で最愛の父親を亡くし、心に大きなトラウマを抱える主人公が、悪夢と不眠症に苦しみ、「いつになったら、爽やかな気持ちで朝を迎えることができるのか」という心情を表した言葉でもあります。

ラストに爽快な朝の光を感じて頂ければ嬉しいです。

目次 🏃

ニーチェの『曙光』について

訳者の解説より ~『曙光』執筆の経緯

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)『曙光』(芽野良男・訳)の解説より転載。

1882年7月1日、ニーチェは『悦ばしき知識』の草稿を完成した。 次は二日あとの手紙の一節である。(ルー・フォン・ザロメ宛て)

「そしてそれと共に六年間に仕事、私の《自由精神》全体が仕上がりました! おお、なんという歳月だったことでしょう! 何というあらゆる種類の苦しみ、何という孤独であり人生に嫌気がさしたことだったか! このすべてに対し、いわば死と生に対して、私は、この私の薬を調合したのです。ごく小さな一筋以外には雲一つない空を自分の上に頂いたこの私の思想を作り出したのです」

《中略》

「旧友よ。内密の話ですが、もし私が最大の規模で生きないとすれば、生きるということは私にとってはあまりにも困難であります! 言い表すことのできないほど重要だと私が思っているひとつの目標がなかったら、暗黒の流れを越えて光の中に高く身を保つことはできなかったでありましょう! これこそ、 私が1876年依頼、書いているような、こういう種類の著作に対する、本来私のただひとつの弁明であります。それは人生に厭気がさすことに対する私の処方であり、自分で調合した薬であります。何という年月でしょう! 何という長たらしい苦痛でしょう! 何という内面的な故障、報復、孤独!」

その六年間は、病気と共に始まった。 ヴァーグナーのバイロイトの音楽祭に幻滅し(1876年7月)、やがてヴァーグナーとの「星の友情」を絶つに至った。1878年であった。心の傷は大きかった。

一方、身体の調子はますます悪化した。 バーゼル大学を辞任した。 ドイツ、スイス、イタリアを転々としながら、病気の最中で、病気に耐えながら、ニーチェはひたすら自分の思想を見つめようとした。 『人間的、あまりに人間的』『様々な意見と箴言』『漂泊者とその影』、それから『曙光』、さらに『悦ばしき知識』がこの期間のニーチェの作品である。

われわれはニーチェがひとまとめにして『自由精神』と呼ぶこの時代の彼の思想の中に、一条の裂け目が実はありはしないか、と考えることができよう。 裂け目ちおうのが言い過ぎであるとしても、少なくとも『曙光』以後のニーチェの思索に何か変わった調子や感じ方の相違がありはせぬか。 そう問うことは全く当然のことである。

– ニーチェ全集『曙光』 芽野良男の巻末解説より

正直、人生に迷った時にニーチェを読んでも、明るい気持ちにはならないと思います。著者の迷いに無理やり付き合わされているような感じで、こちらまでしんどくなります。

では、現代において、ニーチェを読む価値はあるのか? と問われたら、私は次のように答えます。

苦悩の先にある答えは実にシンプルだ。「これが生だったのか、『よし、それならもう一度!』ニーチェの辿った道は、私たちが辿る道でもある、と。

上記に表される「すべて良し!」の気持ちは、ニーチェも、お釈迦さまも、古今東西の偉人も、みな同じ。結局、これだけが魂の平安をもたらし、人生を意味のあるものにするのではないでしょうか。

ニーチェの本を読んでも、人生の回答は存在しません。

でも、読めば納得するでしょう。ああ、この人も、同じように苦しんだんだなと。

一番大事なのは、ニーチェの思想が正しいか否かではなく、「いつ出会うか」だと思います。

特に、ニーチェのように心をこじらせた書物は、気になる時に、ぱっと読まないと、時機を逸すると、苦痛なだけです。みな、そこを通り超して、大人になるので。

『曙光』の名言集

本作のモチーフである、『いまだ光を放たざる、いとあまたの曙光あり』は、『曙光』の冒頭に記されています。ちくま学芸文庫(信太正三・訳)では、『まだ輝いたことのない許多(あまた)の曙光がある』(リグ・ヴェーダ)と訳されています。

ニーチェの『曙光』より

あわれな人間

あわれな人類 !  脳の中の血が一滴多すぎたり、少なすぎたりすると、われわれの人生は、いいようのないほど惨めになり、つらくなることがありうる。 そこで、プロメテウスがそのハゲタカに苦しんだより以上に、われわれはこの一滴に苦しまなければならない。 しかし、あの一滴が原因であることをわれわれが知りさえもしないときこそ、一番恐ろしいことになる。知りさえもしないで「悪魔」! とか 「罪」! とかいうときである。

ニーチェの『曙光』

「脳の中の血」が他より一滴多い人は少なくないと思います。

脳の中の血とは、現代風に例えれば、迷い、不安、怒り、不条理感、虚無感、といったところでしょうか。

しかし、こうした感情は、正しく生きればこそ発生するもの。過ちもせず、悔やみもしない人間に、人生の苦悩は訪れません。

大事なのは、ニーチェのように考え抜くこと。

考えて、考えて、考え抜いた末に、心の闇にも一条の光が射すと思います。

最も個人的な真理問題――。
「私がしていることは、そもそも何であるのか? ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」
これはわれわれの現在の教義の在り方では、教えられず、したがって問われない真理問題である。 そのための暇がないのである。
これに反して、子供には冗談を言って、真理は言わない。
やがて母となるべき女性には、お世辞を述べて、真理はしゃべらない。
青年には、その将来と楽しさを談じて、真理は語らない。
――そうする暇と気は、いくらでもあるのに!

しかしたとえ七十年が何であろう!
走り去ってすぐ終わる。
どういう具合に、どこへ流れるのかを、波が知っていても、問題ではない!
いや、知らない方が賢明かもしれない。

――「その通りだ。しかし一度もそれを問題にしないとは、誇りがない。われわれの教養は、人間に誇りを与えない」 ―― なおさらよい! 

「本当か?」

ニーチェの『曙光』- 196 –

多くの場合、大人は人生の問題を笑いや理屈で誤魔化して、若者に自己探求の機会と時間を与えません。
たとえば、子供が「僕は何の為に生きているの?」と問いかける。

その時、大人が「そんなことは、生きていれば分かる」「そういうの、中二病って言うだよ(笑)」と誤魔化したり、嘲笑ったりすれば、子供も考えることを止めてしまいます。そればかりか、そんな思索は無意味と考え、その子自身も笑いや理屈で誤魔化すようになります。

そうして考える機会を奪われると、感性もだんだん鈍磨して、空っぽな人間になっていく――という話です。

もちろん、自己探求が必ずしも人を正しい方向に導くとは限りませんし、自己探求のし過ぎでおかしくなる人もあります。

それでも一生に一度、なるべく若いうちに、「私がしていることは、そもそも何であるのか? ほかならぬ私は、それで何を望むのか?」ということを、自己に深く問いかける時間は必要でしょう。

それは「社会に役立つ人間になる」とか「思いやりをもて」といった道徳と異なり、個々の内側から湧いてくる悟りであり、創造性です。

世界の破壊者――。
この人はあることがうまくゆかない。とうとう彼は怒って叫ぶ。
「世界がみんな滅びてしまうといいんだが!」
この嫌悪すべき感情は次のように推論する嫉妬心の絶頂である。
わたしはあるものを所有し得ない。
だから全世界には何も持たせたくない!
全世界を無にしたい!

ニーチェの『曙光』- 304 –

これは分かりやすいですね。
自分の欲しいものが手に入らないなら、他の人も持つべきではない。
いっそ世界を無にしてしまいたい。ルサンチマン=呪いの感情です。

党派の中の勇気――。
あわれな羊たちはその隊長に言う。
「とにかく先に立って行ってくれ。そうすればわれわれは君について行く勇気を決して無くさないであろう」
あわれな隊長はしかし心の中で考える。
「とにかく私の後をついて来てくれ。そうすれば私は諸君を導く勇気を決して無くさないであろう」

ニーチェの『曙光』304 –

これも分かりやすいですね。
強い隊長に付いて行く羊タイプと、援護があれば前に進める隊長と。
どちらが良いという話ではなく、人間の本質です。

諦め――。
諦めとは何か? それは病人の最も気楽な状態のことである。
彼はそれを見つけようとして長いこと苦悩して輾転反側し(てんてんはんそく)
そのために疲れた――
そして、それをはじめて本当に見つけたのである!

ニーチェの『曙光』- 518 –

ニーチェの主張とはちょっと異なりますが・・

「諦め」はしばしば「投げやり」と勘違いされますが、投げやりは途中で放棄するのに対し、諦めは、とことん突き詰めた先にはっと閃く悟りのようなもの。

諦めは「明らめ」に通じる所があり、そこには静かな満足があります。

諦めは必ずしも敗北ではないし、また新たな道に続くものです。

脱皮する――。
脱皮することの出来ない蛇は破滅する。その意見を変えることが妨げられた精神の持主たちも同様である。 彼らは精神であることをやめる。

ニーチェの『曙光』

若いうちに「○○主義」を標榜するのが危険なのは、そこから脱皮できなくなるからです。 精神は絶えず変化するものだし、自分の置かれた環境や周りの価値観に合わせて、伸び縮みするのが自然です。

○○主義で凝り固まるのは、蛇がサイズの合わない皮を纏い続けるのと同じです。

書籍の紹介

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上記のパートは、『第1章 運命と意思』に掲載されています。
ストアで立ち読みもできますので、興味のある方はお気軽に覗いてみて下さい。

誰かにこっそり教えたい 👂
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