「本当に果てしないのね。海だけが永遠に広がっているみたい」
第2章 採鉱プラットフォーム
「でも、西に飛び続ければ、一巡りしてまた元の場所に戻ってくる。果てがないように見えて、全ては一つに結ばれている。まるで『永遠の環』The Ring of Eternity のように」
「The Ring of Eternity……」
「そう。今日は沈む夕陽も海の向こうでは朝日になる。この世に終わりも始まりもなく、すべてのものは形を変えながら永遠に廻るという意味だ」
ニーチェの思想に『永劫回帰』があります。
『魂の幸福とは、自身を肯定し『それでよし!』と思える気持ち ~ニーチェの生の哲学』にも書いているように、『幸福』とは、この人生をもう一度生きてもいいと思えるほど、自分自身と自身の生を愛する気持ちです。
劣等感や虚無感を抱え、死にたいと願う人が多い中、心の底から「もう一度」と思える気持ちは、ある意味、最高に恵まれた、最高に幸せな人間の証かもしれません。
本作では、言葉の問題と学校での苛めから「死にたい」と嘆く息子のヴァルターに、ニーチェの永劫回帰の思想を説く父親のグンターが登場します。
しかし、幼い息子に永劫回帰の意味など分かりません。
そこで、グンターは「永遠の環」という言葉に置き換え、たとえ人より劣っても、自分を好きでいる気持ちが大切だと説きます。
そうは言われても、ルサンチマンの塊で、父親の死後、激しい喪失感に陥るヴァルターにはなかなかその意味が理解できません。
何度も自滅の道に向かい、その度に、運に助けられます。
では、いつ、どのような形で、その意味に気づくのか。
それが後半のパートです。
参考になる記事
ニーチェの『ツァラトゥストラ』の世界観は、下記の記事で紹介しています。
【小説】今日は沈む日も海の向こうでは朝日になる
ヴァルターとリズは格納庫を出ると急ぎ足でブリッジに戻った。
細長いスチールメッシュの階段を上り、縦横に入り組んだ通路を抜けながら、彼はリズに手を差し伸べ、リズも自分を委ねるようにその手を取った。そこには邪念も下心もなく、ただ優しい気遣いがあるだけだ。
ブリッジの手前まで来ると、リズは「もう少し海が見たい」と甘えたが、彼はダイバーズウォッチを見やると、「もう十分、見ただろう。それに周りは海だらけだよ」と答えた。
「そうじゃなくて、ほら、あそこ。ヘリポートから見たいの。まるで雲の上を飛んでいるみたい」
彼はダイバーズウォッチを見やり、「じゃあ、十分だけだよ」と非常階段に回った。
二人は手を繋いでヘリポートに上がると、ぎりぎりまで縁に近づき、ゆっくり腰を下ろした。
ヘリポートの周りにはセーフティーネットが張り巡らされ、万一、転落しても最下まで墜落することはない。それでも五階建ての高さから見下ろす大海原は圧巻だ。まるで空を飛んでいるような気分になる。
リズは蜂蜜色の長い髪を風になびかせながら、「本当に果てしないのね。海だけが永遠に広がっているみたい」と目を細めた。
「でも、西に飛び続ければ、一巡りしてまた元の場所に戻ってくる。果てがないように見えて、全ては一つに結ばれている。まるで『永遠の環』(The Ring of Eternity)リズが解るよう英語に訳しているいるのように」
「The Ring of Eternity……」
「そう。今日は沈む夕陽も海の向こうでは朝日になる。この世に終わりも始まりもなく、すべてのものは形を変えながら永遠に廻るという意味だ。もっとも、これは父の受け売りだけど」
「素敵ね。他にはどんな教えがあるの?」
「あり過ぎて一言では語り尽くせない。まるで一生分を凝縮するように、いろんな事を話して聞かせてくれた。わけても心に残っているのは『永遠の環』だ。父が言うには、人生には似たような場面が何度も訪れるらしい。まるで時間軸の周りに螺旋を描くように。そうした体験を繰り返すうちに知恵も磨かれ、心も強くなる。その完成された最高の形が円環(リング)だ」
「解ったような、解らないような、抽象的な話ね。でも、『似たような場面を繰り返す』というのは何となく理解できるわ。仕事も、人間関係も、躓く石は同じだもの。気が付けば、いつも似たような場面で立ちすくんでいる」
「そこで一歩踏み出すか、踏み出さないかが、人生の分かれ目なんだろうね。君にも踏み越える力はあるよ。現に自分の意思でここまで来たじゃないか」
「そうね。生きていくのは私自身だものね」
「父はいつも言ってたよ。どれほど辛く、悲しくとも、何度でもこの人生を生きたいと願う――『これが生だったのか。よし! それならもう一度』と心の底から思えた時、あらゆる苦悩から解放され、魂の幸福を得ると。だが、俺には『もう一度』の気持ちは理解できない。なぜそれが心を自由にし、魂の幸福に繋がるのかも。今俺に解るのは一つだけ、今日は沈む夕陽も、海の向こうでは朝日になるということだ」
「それだけでも大きな糧よ。私たち、これからまだ何十年も生きていくのよ。お父さまが夕陽なら、昇る朝日はあなただわ。生涯かけて理解したいテーマがあるだけでも有意義よ。多くの人はそれさえ分からずに生きているのだから」
「君にも夢はあるだろう」
「夢と生涯のテーマは違うわ」
「どうして」
「夢なんて絵空事と変わらない。現実の光に当たれば消えていく幻みたいなものよ、パパやここの人たちが成そうとしている事とは比べものにならないわ」
「人間って、それほど立派な事を成し遂げなければならないものかい? 俺の母は、俺を産んでからずっと家事に専念してたけど、ご飯は美味しいし、家の中もいつもきれいに片付いて、とても楽しかった。定職に就いていないからといって、母のことを怠惰とか、志が低いとか思ったことは一度もない。それぞれの立場で努力することに優も劣もないよ」
「そうかしら……」
「君も一所懸命に頑張ってると思うよ。もっと自由に遊び回りたいだろうに、パパの言い付けを守って、いつも行儀よくしている。頭で分かっても、なかなか出来ることじゃない。プラットフォームの人たちも君に見惚れてた。黙っていても分かるんだよ。君が上品で優しい女の子だってことが」
「だからといって、心の底まで温まるわけじゃないわ。いろんな人に『綺麗だ』『立派だ』と褒めそやされたところで、愛情とは別だもの。私が本当に聞きたいのは真心のこもった言葉よ。無骨でもいい。心の底から『好きだ』と言って欲しい」
「それなら、俺にも言いたいことがあるだろう。この前のことだよ。怒ってるなら、正直にそうだと言ってくれた方が分かりやすい」
リズは顔を上げ、唇を震わせた。今も言いたいことはたくさんある。だが、本人を目の前にすると、何も言えなくなってしまう。どれもこれも、子供じみた悩みに思えて……。