マリー・アントワネットの負けの美学 ~オーストリア女に生まれ、オーストリア女として死す 

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オーストリア女に生まれ、オーストリア女として死す

近頃は、国際人を目指して早期の英語教育も盛んですが、果たして言葉は本当に国や民族の違いを超えるのか、時々、疑問に思うことがあります。

たとえば、日本人相手に「ベルばらがね……」と言えば、池田先生の名前はもちろん、あらすじ、キャラクター、歌劇やアニメにもなったベルばらブームの熱気まで、瞬時に理解されますが、ポーランド人相手に「ベルばら」の話をしても、何のことか分かってもらえません。

情報として、ベルばらブームを説明することはできても、「なぜ日本女性がこれほどベルばらに夢中になり、オスカルに憧れるのか」という肌感覚まで伝わらないからです。

そもそも、漫画自体が『子供の読み物』という扱いなので、大人の女性が夢中になるというだけで不思議がられるほど。

だから、「すごい作品だ」と言っても、「ああ、そう」で終わりなんですね。

また、その逆も然りです。

ポーランド人から、「社会主義の時代は、靴一足買うにも徹夜で店の前に並んだのよ」と言われても、日本人の私には想像もつきません。

知識として理解しても、徹夜で並ぶ大変さや暮らしの不便など、当時を生きた人と同じように共感することはできないからです。

そういうことが、積もり積もれば、精神的に断絶することもあります。

「あきらめ」とでも言うのでしょうか。

ある程度は共有するけど、それ以外は、お互い踏み込まなくなってしまうんですね。

人間というのは、やはり分かり合う者同士で寄り集まるし、その中に属する方が居心地いいものです。

その中に、一人、通じない人間がいると、どこか見えない壁はできます。

マリー・アントワネットの場合、流暢なフランス語をお話しになったそうですが、フランス宮廷に馴染むのは、庶民が想像する以上に大変だったと思います。

言葉は話せても、マリー・アントワネットがオーストリア人であることに変わりなく、どのように振る舞おうと、「よそ者」という立ち位置は終生変わらなかったのではないでしょうか。

私がポーランドに来て、ベルばらを読み返した時、一番心に突き刺さったのが「オーストリア女」という罵倒でした。

庶民にとっては、マリー・アントワネットこそが、フランス国民を不幸に陥れる象徴だったのかもしれません。

最後まで、「オーストリア女」と蔑まれ、オーストリア女(=マリア・テレジアの娘)として死んでいったマリー・アントワネットの胸中を思うと、国と国の隔たりや相互理解の難しさを思わずにいられないのです。

『オーストリア女』 マリー・アントワネット ~異国の女として生き、異国の女として死す

美しく敗れる ~マリー・アントワネットの美学

マリー・アントワネットの最後について、安達正勝氏の『マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書) 』では下記のように紹介されています。

マリー・アントワネットは、かつて八頭立てのきらびやかな馬車に乗って通ったパリの街を、みずぼらしい荷車に乗せられて、刑場へと引かれていった。23年前、応対私費としてフランスに輿入れしてきたばかりの頃は人々の観光の声に迎えられたものだったが、この日、聞こえてくるのは悪罵と呪詛の声だけであった。眼の周りに隈ができ、眼は赤く充血していた。まだ三十七歳だというのに、老婆のようにやつれ果てていた。

沿道の人手が多すぎて馬車がゆっくりとしか進めなかったため、大して長い距離でもないのに、刑場に着くまでに一時間半もかかった。

マリー・アントワネットはサンソンの助けを借りて馬車から降りた。処刑台の階段は非常に勾配がきついので、サンソンは引き続き体を支えようとしたが、マリー・アントワネットは「いいえ、結構です。ありがたいことに、あそこまで行ける力はあると思います」と言って、後ろ手に縛られていたにもかかわらず、一人で処刑台の急な階段を上り始めた。

「ヴェルサイユ宮殿の大階段でもあるかのように、同じ威厳ある態度で段を上っていった」と『サンソン家回想録』は伝えている。

「さようなら、子供たち。あなた方のお父様のところに行きます」――これがマリー・アントワネットの最後の言葉であった。

≪中略≫

直性的な意味からいえば「生まれながらの王妃」とは、ずいぶん不正確な言い方である。マリー・アントワネットは生まれたときから王妃だったわけではない。オーストリア大公女として生まれ、十四歳でブルボン家に嫁いで王太子妃になり、ルイ十六世の国王即位にともなって十八歳で王妃になった。

「生まれながらの王妃」とは「王妃であることがいかにもふさわしい女性」「王妃以外にはなり得ないような女性」という意味である。

フランス革命前の時代には、国は王家の私有財産のようなものであり、国王が好きにしていいものだった。マリー・アントワネットは、そういう時代に生まれ育った。したがって、「王家は神聖にして侵すべからず」という思いは彼女にとって自然なことだった。王権に一般の国民が異議を唱えるなど、とんでもないことだと思ったのも、彼女にしてみれば当然であったろう。

国というのは自分たちのものであり、ほかの人間(たとえ革命かたち)が口を差し挟むこと自体が許せないのであった。「国民主権」ではなく「国王主権」でなければならなかった。

彼女にとっては革命前の王政が正しきものであり、そのために革命をつぶし、なんとしてでも元の王政に戻そうとした。

この下りだけ見れば、「マリー・アントワネットは王政に固執して身を滅ぼした」という印象がありますが、安達氏曰く、「あくまでも自分の信じる『本当の王妃』であり続けようとした生き様が、後世の人々の共感を誘った。『美しく敗れる』という美学を貫いたのである」。

女優が死ぬまで女優であろうとするように、マリー・アントワネットも生涯、『王妃』であろうとした。

ただ、それがたまたま時代にフィットせず、また世の潮流を見誤る原因になった、ということ。

別の時代に生まれていたら、それで十分通用したのです。

人間の美しさには数ありますが、マリーの場合、

マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書)
マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃 (中公新書)

初稿 2007年3月6日

この投稿は、優月まりの名義で『ベルばらKidsぷらざ』(cocolog.nifty.com)に連載していた原稿をベースに作成しています。『東欧ベルばら漫談』の一覧はこちら

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