谷川俊太郎が僕のことを「あまり文学を高貴に考えすぎているんじゃないかな。
純粋で勤勉すぎるのは実作者として損じゃないかな」といっていた。
谷川俊太郎は決して読書しない。古典は敬遠し冒険小説ばかりよむ。
彼は恋愛しても決して嫉妬しない。所有しないで享楽するのが彼の信条だ。
こうした生き方を僕は軽蔑しはしないが、僕のものではないと思う。
ただ、本をよみすぎると書けなくなるというのは本当だと思う。
よくわかることは実は自分を失くすることなんじゃないだろうか。
ふと湧いた感想。
どこの世界でも知ることは美徳だし、勉学も最高位に位置づけられる。
そして、それは非常に正しいけれども、観念の世界から遠ざかっていくのもまた事実。
学者や識者ならともかく、作家さんは、常に世界や自身に疑問をもたないと生きていけない。
何か書こうとする時、そこに厳然たる事実があっては困るのだ。
たとえば、空は青いし、雲は白い、といったこと。
文学の始まりは、空や雲の本質を夢想することだから、空とは何か、雲とは何かということが、あまりに明快だと、想像力の入り込む余地がなくなって、文章を書いていても、いつしか学者の世界になってしまう。そして、誰が作家に学術的正しさを期待するだろうか?
時に「わからない」ことの方が、心に多くをもたらす。
もう一度、月の絵を描けと言われても、あれが地球の衛星であり、土の塊と知ってしまえば、二度とウサギは現れないのと同じで、どんな物事に対しても、常に探訪者たらんとするなら、わたしたちは、どこか無知なところを残しておかないと、人生に対する動機や想像力を失ってしまう。人の倍ほど読んで、物知りになり得たとしても、魂が幸福を感じることと、人生に失敗しないことは、また別だ。そのいい例が、子どもである。彼らは無知ゆえに元気で、よく笑う。世の中のことを知れば知るほど、無邪気な笑いも失われていくけれど。
それよりも、自分の感じるまま、心の命じるままに、耳を傾けてみたい。
誰かの作り上げた理論や周知の事実ではなく。
月に不思議な魔力を感じる心よりも、月とは何かという知識がまさる時、わたしたちは世界に近づく反面、自分自身という、もっとも大事な基軸から遠ざかるのではないだろうか。