恋する瞳 ~人はなぜ眼差しに惹かれるのか
古今東西の名作の中で、『目』について語った言葉で一番好きなのが、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』の冒頭、ヒロイン・スカーレットの描写です。
『目は、茶のすこしもまじらない淡碧(うすあお)で、こわくて黒いまつ毛が、星のようにそのまわりをふちどり、それが目じりへきて心もちそりかえっている』
私は子供の頃からスカーレットの大ファンで、マスカラを塗るようになってからは、『星のようにふちどるまつ毛』を目指して頑張っていましたが、ブラシ使いが思うようにいかず、しょっちゅうダマを作っては、せっせと綿棒で拭き取っていたもの。出社早々、「あんた、マスカラが目の周りに付いてるで」と言われ、独身時代は恥のみ多き化粧ライフでした。
私の二人の子供は、スラブ系のハーフですが、どちらもバリバリの日本人顔で、お尻に蒙古斑を付けて生まれてきた、純正モンゴリアンですが、二人を連れて歩いていると、道行く人にしょっちゅう「なんて可愛い Czarny Ocy (黒い瞳)なの!」と言われたものです。
日本人が、ハリウッド俳優のような青い瞳に憧れるように、ポーランドの人々にとっては、黒い瞳がとても魅力的に見えるようです。
ポーランドにも黒っぽい瞳の方はおられますが、アジア系の瞳の黒さは格別なようで、あるポーランド人いわく、「宇宙を感じる」と。
有名なロシア民謡『黒い瞳(オーチ・チョールヌィエ)』でも、「惑わしの黒き色(注)」と、人生を狂わせるほどの恋心を黒い瞳にたとえて歌っていますが、ブルー系やグリーン系の透き通るような瞳が大多数を占める中で、黒く輝く瞳は吸い込まれるような魅力を感じるのかもしれません。
「ベルばら」では、アンドレへの愛に目覚めたオスカルが、彼と口づけを交わした後、「黒曜石の、ぬれてきらめく、ただひとつの瞳」と彼の眼差しを表現しています。
普段は凛としたオスカルが情感たっぷりに思いの丈を語る場面なので、この廊下のキスシーンが好きだという人も少なくないでしょう。
それにしても、人はなぜ恋をすると見つめ合い、その眼差しに惹かれるのでしょう。
それには、ちょっとした科学的根拠があります。
手足や内臓、耳や舌の神経など、主要な神経の大半が、首の後ろにある延髄を通して情報を大脳に伝えるのに対し、視神経だけは大脳に直結し、目から得た情報をダイレクトに脳に伝えます。
昔から「目は口ほどに物を言い」「目は心の窓」と言いますが、文字通り、人間の目は「表に現れた脳」、すなわち『心』そのものなんですね。
「ベルばら」でも、スウェーデン軽竜騎兵の制服を着てベルサイユ宮に伺候したフェルゼンを、マリーが惚れ惚れと見つめると、周りの貴婦人たちが、「ごらんあそばせ、王妃さまのあのまなざし。夫のある身でありながら、まあはしたない。あんなにうっとりと見とれたりなさって……」と噂し、マリー自身も、「いまはことばをかわすことはおろか、見つめあうことすらゆるされない……。このからだじゅうが、ぜんぶ目となって、あなたの姿だけをおっているのに……!」と、恋の苦悩を語っています。
このように目は隠しきれない心の窓であり、そこに映るものをコントロールする術はありません。
求めれば見つめ、想えば瞳に溢れ出る。
人がメイクアップに力を入れるのも、そこに魅力の真髄があることを本能的に知っているからでしょう。
アンドレと結ばれる前、オスカルは言います。
「よかった。すぐそばにいて、わたしをささえてくれるやさしいまなざしに、気づくのがおそすぎなくて……」
オスカルにとっては、彼の眼差しこそ、何にもまさる愛の真実だったのかもしれません。
引用文献
「風と共に去りぬ」マーガレット・ミッチェル著
大久保康雄・竹内道之助 河出書房新社刊
(注1)堀内敬三氏の邦訳より
スカーレット・オハラの『星のように、ふちどるまつ毛』
写真は女優のヴィヴィアン・リー。
スカーレットのイメージを決定づけました。
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コミックの案内
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