若者が生き辛いのは当たり前

小説の抜粋、『それでも人生はいいものだ 。もう一度生きてもいいと思えるくらい』に関連して。

いつの時代も、若者の「生き辛さ」が取り沙汰され、中には世を儚んで命を絶つ人も少なくありません。それは昨日今日始まったことではなく、人類社会が始まって以来の課題です。

しかし、考えてみれば、若者が生き辛いのは当たり前で、年を取るほど、どんどん幸福感が増すのは、自然の成り行きです。

クラブ活動でも、昨日入ったばかりの新入部員は、テニスのラケットを抱えて、うろうろ、きょろきょろ。その傍らで、先輩は、勝手知ったる余裕で、伸び伸びとプレーを楽しんでいます。

新入部員は、クラブの決まりも、ボールの打ち方も、何も知らないのだから、当たり前です。いくら教則本を読んでも、実際にボールを打ったこともなければ、試合に出たこともない。そんな状態で、「テニスの楽しさ」を実感できる方がどうかしています。

人生もそれと同じで、昨日、ようやく人間社会の仲間入りを果たしたような若い人(子供)に、仕事の面白さだの、人生の価値など、実感できるはずもなく、思ってもせいぜい、「大坂なおみさんは素敵だな。あんな風になりたいな」と憧れるのが精一杯でしょう。

なおみさんのような強さや明るさが身に付くのは、何百ものトレーニングを重ね、勝ったり、負けたり、厳しい国際試合を勝ち抜いてきた末です。

昨日今日、ラケットを手にしたばかりの人間が、なおみさんと同じような強さや明るさを身につけて、「テニス道を極めた!」みたいな事を語っていたら、そっちの方が眉唾ものですよね。

ゆえに、若者が悩み苦しむのは当たり前、新入部員みたいに、あっちから、こっちから頭をこつかれて、それでも先輩と同じようにテニスコートに立って、プレーしなければならない、となれば、辛く感じるのが普通でしょう。

自分自身を振り返っても、人生が一番厳しかったのは子供時代。

絶望と共に人生が始まって、思春期、青年期、中年期と、一段ずつクリアして、近頃、だいぶ気持ちが落ち着いたな、というぐらい。

思春期から青年期にかけてとか、しょっちゅう他人や世の中に腹を立てて、毎日、頭が沸騰したヤカン状態。

何でやねん、何でやねん、と、始終、苛立って、落ち込んで、生き辛いなんてものじゃない。

宮崎駿の映画『もののけ姫』で、アシタカが「生きろ。そなたは美しい」と言ってくれるまで、納得することなどなかったんですよね。

しかし、見方を変えれば、若者が些細なことで大人や世の中に疑問や怒りを感じるのも、これまた当たり前なのですよ。

世の中のことも、人間のことも、よく知らないからこそ、矛盾点が敏感に感じ取れるし、当たり前と言われていることに反発を感じたりするのです。

自分の価値観と違うから。

喩え話、賞味期限の切れた饅頭について、若者の感性は、「これ、11月30日で賞味期限が切れています。12月1日になれば、廃棄すべきです」と生真面目に考えますが、おじさん・おばさんになると、「かまへん、かまへん、一日ぐらい。何やったら、ラベルを貼り直しといたらええねん。ほら、見た目は、わからへんやろ」みたいな感性になってきます。

そこでいちいち、生真面目に対応していたら、とてもじゃないけど、この世の中は生きていかれない――ということを身に染みて知っているからです(饅頭の期限はあくまで喩え話ですよ)

でも、若い人にすれば、「なんで? 許せない! 大人はずるい!」となりますよね。

そして、その通り、世の圧倒多数を占める、おじさん・おばさんは、自身も周りも煙に巻くほどの図太い感性や手管を身につけているので、若者など、どれほど大層な理屈を並べても、到底太刀打ちできません。

だから、余計で、腹が立つし、この世は生き辛く感じられるのです。

しかし、そういう若者も、やがて図太さを身につけて、「かまへん、かまへん」と鷹揚に構える側になります。

歴史は、その繰り返しです。

それゆえに保たれている秩序もあります。

ところが、中には、若い時代の疑問や怒りを大人になっても持ち続け、世間があっと驚くようなモノやサービス、施策などを打ち出して、従来の方法や価値観をひっくり返すスーパーマンみたいな人が現れます。

いわば、若い時分に感じた疑問や怒りが創造の原動力になっているわけで、そこで変に物わかりのいい青年になってしまうと、コバンザメのようにすいすい出世はしても、本当の意味でパイオニアにはなり難い、ということです。

今も昔も、「悩んだり、迷ったりするのはダサイ」「生き辛いのは自分が悪いから」「中二病」みたいな見方があって、早く世の決まりに馴染んで、要領よく生きていくのが賢い――という考えは、これから先も変わらないと思います。

もちろん、その方が生きやすく感じられるなら、そのように生きていけばいいし、こっちがダメで、こっちが正解、というものでもありません。

コバンザメにはコバンザメの役割があって、お追従がいればこそ、丸く、円滑に運ぶ物事もあります。

そこはもう、本人の個性や能力の問題であって、他人がとやかく審判するものでもないです。

ただ時々は、自分に問いかけ、それは本当に妥協していいことか、一線を設けるのも大事です。

賞味期限の切れた饅頭が気になるなら、「長持ちする工法を考える」「品質管理を確実にするシステムを開発する」、それこそが真のイノベーションです。

疑問や怒りを感じても、自分に理屈で言い聞かせて、変に”物わかりのいい青年”になってしまうと、自分を見失ったり、革新の機会を逸したりするからです。

「人生が素晴らしい」と心の底から実感するのは、50代、60代、70代になってからでも、遅くはありません。

そんな言葉は年寄りに任せて、自分の中の疑問や怒りを大事にしましょう。

もしかしたら、それこそが、革新の芽になるかもしれないので。

最後に、谷川俊太郎の詩。一部省略しています。

全文が読みたい方は、谷川俊太郎の詩集「空の青さをみつめていると」をご一読下さい。

『うつむく青年』 谷川俊太郎

うつむいて
うつむくことで
君は私に問いかける
私が何に命を賭けているかを

≪中略≫

ポケットからはみ出したカレーパンと
まっすぐな矢のような魂と
それしか持ってない者の烈しさで
それしか持とうとしない者の気軽さで

うつむいて
うつむくことで
君は自分を主張する
君が何に命を賭けているかを

≪中略≫

うつむけば
うつむくことで
君は私に否という

否という君の言葉は聞こえないが
否という君の存在は私に見える

うつむいて
うつむくことで
君は生へと一歩踏み出す

初夏の陽はけやきの老樹に射していて
初夏の陽は君の頬にも射していて

君はそれには否とはいわない

誰かにこっそり教えたい 👂
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