「死にたい」の反対語は「生きろ」ではなく、「それでもあなたが好き」だと私は思います。
大洪水で父親を亡くしたヴァルターは、移住のストレスもあり、すっかりやつれて、悪夢にさいなまれるようになります。
母のアンヌ=マリーは、なんとか息子を力付けようとしますが、サッカーも、学業も、父に結びつく思い出は息子の心を苦しめるだけ。かっては少年サッカーのスターだった息子も、同じ年頃の少年らが元気よくサッカーに興じる姿を見て、幼子のように涙をこぼすだけです。
傷ついた子供に「頑張って生きるのよ」と言葉で励ますのは簡単ですが、絶望しきった人間に、生きる力など、そうそう湧いてくるものではありません。
まして死んだ親への愛着に対し、慰める術もないというのが現実ではないでしょうか。
打ちひしがれた息子の姿を見て、アンヌ=マリーは、今、息子に「生きろ」と言うことは、「死ね」と同じくらい残酷に感じ、ただただ側に寄り添うことを選びます。
あれこれ立ち直りを急がせるより、心の傷が癒えるのを、ゆっくり、共に待つ姿勢が大切だからです。
心が弱った人にとっては、幾千の励ましより、目に見えるアクションより、ただ黙って側に寄り添うことが最大の支えです。
逆に、支援者が「何かしなければ」と急ぐのは、「何もしない(できない)」自分への負い目や罪悪感の裏返しではないでしょうか。
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「生きろ」をテーマにした小説のパートです。
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