エッセイ集『美しく生きるために』について
『美しく生きるために』は、「赤毛のアン」や「フランダースの犬」の翻訳で名高い村岡花子氏(1893~1968年)が、戦後の少女誌『それいゆ』『ひまわり』に寄稿したエッセイを元に編集された本です。
『それいゆ』『ひまわり』は、戦後の混乱や困窮に傷つく少女に希望を与えるため、人気画家である中原淳一が中心となって創刊されました。本書の編集者・内田静枝氏いわく、「夢を忘れがちな時代の中で女性たちに暮らしもファッションも心も「美しくあれ」と幸せに生きる道筋を示して、カリスマ的な憧れの存在となった」とのこと。
翻訳、評論、ラジオのパーソナリティーなど、多忙をきわめた村岡花子氏が雑誌の運営に協力したのも、中原淳一氏の高い志と情熱に心を動かされたから、と解説されています。
戦後、物資もなく、展望もなく、大人たちが引き起こした戦争の結果を一身に引き受けることになった少女らにとって、中原氏のおしゃれな挿絵と、村岡氏の愛と知性にあふれた文章は、どれほど励みとなったか知れません。
村岡氏や中原氏が示した日本女性の美学は、現代を生きる若い女性にも十分に通用すると思います。
以下、印象に残った箇所を紹介します。
村岡花子の経歴
1893年(明治26)~1968年(昭和43)
山梨県甲府市生まれ。東洋英和女学校卒業。歌人、佐佐木信綱主宰の竹柏会所属。山梨英和女学校の英語教師、銀座・教文館の編集者を経て、児童文学の創作や英米文学の翻訳の道に進む。主な著書・訳書に、童話集『桃色のたまご』『たんぽぽの目』ほか、マーク・トウェイン『王子と乞食』、E・ポーター『少女パレアナ』、バール・バック『母の肖像』、C・ディケンズ『クリスマス・キャロル』、ウィーダ『フランダースの犬』など多数。『赤毛のアン』をはじめとするアン・シリーズの翻訳は代表作である。少女雑誌、婦人誌でも評論家として活躍。戦前にはJOAKラジオ番組「子供の新聞」を担当し、ラジオのおばさんとしても親しまれた。
中原淳一(なかはら・じゅんいち)の経歴
1913年(大正2)~1983年(昭和58)
昭和初期、少女雑誌『少女の友』の人気画家として一世を風靡。戦後1年目の1946年、独自の女性誌『それいゆ』を創刊、続いて『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』などを発刊し、夢を忘れがちな時代の中で女性たちに暮らしもファッションも心も「美しくあれ」と幸せに生きる道筋を示してカリスマ的な憧れの存在となった。活躍の場は雑誌にとどまらず、日本のファッション、イラストレーション、ヘアメイク、ドールアート、インテリアなど幅広い分野で時代をリードし、先駆的な存在となる。そのセンスとメッセージは現代を生きる人たちの心を捉え、新たな人気を呼んでいる。妻は、宝塚歌劇の創世記を担った男役トップスターで、戦後映画テレビで活躍した葦原邦子。
村岡花子の名言
友情をめぐりて ~「鑑賞」と「否定」は違う
題名『友情をめぐりて』では、ペルシャの寓話「薔薇が抜き取られた後までも、土は香りを失わなかった」を引き合いに、理想とする友情のあり方を説いています。
親しいからといって、互いの非に目をつぶり、何でもなあなあで済ませてしまうのは良くないし、逆に、親しいからといって、何でも言いたいことを言っていいわけでもない。
互いに向上するためには、互いに磨き合う気持ちが不可欠であるという話です(分かっていても、現実には難しいですね (^_^;
互いに向上してゆくために忠告し合い批判し合ってゆく時に大切なのは、赦す心です。誰にでも欠点はありますし、どんなに完全に見える珠玉にも時に、小さなきずがあるのです。楽しい友情が出来あがってゆく時の嬉しさはそのような友を持った者にはよく分かるところですが、さてその最初の熱情がおちついてゆくに従って、ぽつぽつと欠点が見え始めてきます。この時が大事な時で、ここでなまじいに批評する心ばかりを強くしますと、折角芽生えた友情を枯らしてしまうことさえあるものです。誰も完全ではないのに、すぐれた性格への愛を失うくらい愚かなことはありません。
≪中略≫
友情にも批評の精神が必要であり、正しい批評の精神というのは、鑑賞であって、否定であってはならない。。
『ひまわり』 第一巻 第一号 1947年
「友情にも批評の精神が必要であり、正しい批評の精神というのは、鑑賞であって、否定であってはならない」というのは全くその通りで、これは聞く方にも言えることだと思います。
現代人は、とかく、「傷ついた、傷つけられた」に敏感で、他人の些細な言動にも「自分を否定された」と受け止める傾向があります。
相手にしてみたら、「文化教室のイベントに白黒のスポーツウェアで出席するのは、ちょっとまずいんじゃない」と注意しただけなのに、自分の存在を否定されたと思い込み、逆恨みするばかりか、ますます反抗的な態度を取ることがありますね。
白黒スポーツウェアも悪くはないですが、文化教室のイベントにはそれにふさわしい服装がありますし、注意する方も、人格を否定して注意しているわけではありません。
稀に、奇抜なファッションが許される人もありますが、それは、そういう芸風で売っている才人だからこそ受け入れられる話で、何の才能もない一般人が同じ事をしても嫌がられるだけですね。
物にも言い方がありますが、聞く側にも謙虚さは必要です。
そうしたルールをわきまえた上で、お互いに切磋琢磨できればいいですね。
鑑賞とは
ちなみに、村岡氏の言う「鑑賞」とは、映画を見た時、「ここは良いけど、ここはイマイチだね」という観察眼であり、批評です。鑑賞する側も、決して俳優や映画監督を貶めるつもりはなく、単純に、映画としての良し悪しを述べているだけです。
人間もそれと同じで、一人の人間をじっくり観察すれば、良い所と悪い所が見えてきます。
「あなたは考え深くて、立派な見識をお持ちだけど、少し過敏なところがありますね。もう少し、おおらかに受け止めてはいかがでしょう」と言う時、その人の存在自体を否定していると思いますか?
また、過敏なところには目をつむり、「立派ですね、凄いですね」とお世辞しか言わなかったら、それは本当の友情でしょうか。
村岡氏の言う、「互いに磨き合う気持ち」とは、そういうことです。
習慣について ~一つの文化が根付くには長い時間がかかる
『習慣について』の章では、行儀ではなく、文化について語られています。
一つの文化習慣が社会に根付くには、長い時間がかかります。
『自由の国』と言われるアメリカでも、一世紀半前(現代から見れば、2世紀以上前)「音楽会の番組の間にはさむのでなければ、劇を上演することは出来なかったというくらい、娯楽に対しての考え方が固苦しいものであった――を一例として、現代では当たり前と思われていることも、「まったく当たり前ではない時代」があり、「全ての習慣には歴史がある」という話です。
一つの習慣が、習慣として出来あがるまでには、それが全く新しい試みであった時がかつてはあったのだということを、一応考えなければならない。古くなった習慣にも、一度はそれが新鮮な、もぎ立ての果実のようにみずみずしかった時があったのだ。即ち、習慣には歴史が宿っていることを忘れてはならない。
≪中略≫
私たちの生活は樹木と同じようなものである。根を持っている木でなければ枝は張れない。上の方に拡がれば拡がるほど、土の中の根は固くなければならない。そのように、私たちも過去にしっかりと根を置きながら、現在の新しいものを取り入れるのでなければ、ほんとうの成長も進歩も望めない。何でもかでも西洋の習慣を真似て枝を張るばかりで、根底にしっかりとした母国の習慣への批判と愛情を持たなかったなら、歯の浮くような軽薄な人物になってしまう。
『ひまわり』 第一巻 第二号 1947年
どんな習慣も、その社会に根付くまで、長い時間を要するものであり、人間であれば、なおのこと、意識的な学習と反復が不可欠です。「文化的な国に住んでいるから、私も文化的」とはなりませんし、たくさん知っているからといって、文化に精通しているわけでもありません。
外国語にしても、読書にしても、それが文化習慣として自身に根付くまでは、意識して学ばなければなりませんし、学んだことは、何度でも実践して、自身の血肉としなければならない。そうして初めて、外国文学の意義を知り、読書の有り難みを知る、といったところでしょうか。
今はネットもありますから、文化に関する情報はいくらでも入手することができます。作者、タイトル、書かれた年代、評価。それを知ったからといって、正しく理解できるわけではありませんし、難しい漢字は読めても、トンチンカンな解釈しかできない人はたくさんいます。
そのものの価値を知り、またそれが習慣化するまで、地道な学習が不可欠ですし、一つの学問を修めるには、それ以外の、人間、社会、歴史、芸術といった、幅広い知識が不可欠です。そして、その基盤となるのは、自国文化に対する愛情と尊敬であり、それらを欠いて、知識やノウハウだけ仕入れても、分かった振りの仮装大会で終わってしまうでしょう。
真の文化人となり、心豊かに生きていくためにも、意識して学び、自国・他国を問わず、文化に対する愛情と敬意を持ち続けることが大事、という話です。
文化は生活です ~文化は精神生活の集大成
「あの人は文化的ね」と評する場合、どんな人を「文化人」と定義するでしょうか。
多くの人は、「音楽が出来て、ダンスが上手で、映画通で、文学の鑑賞眼があって、哲学の本も読んで、服装はいつもスマートで……」みたいな、洗練された都会人をイメージするのではないでしょうか。
その点、村岡氏は、「文化とか教養とかいうことを、ただ外からかざりのようにつけるものとしか考えていないのですね。ピアノがひけて、外国語が話せて、日本の伝統的芸術をも身につけて、そしてスマートな洋裁で音楽会へ行ったり、外国映画のロード・ショーを楽しんだり……それが文化人だとしたら、何々文化というものは浅はかなものでしょう」と指摘しています。
中には、電化製品を揃えて、家庭を機械化することを「文化」と勘違いしたり。
文化的=上流、上級というイメージがありますから、誰もが「文化的」「文化人」を名乗りたがるのは分かります。
だからといって、知識武装やハイテク武装をしても意味がないのは言うまでもないですね。
村岡氏いわく、
本当の科学的な、文化的な生活は、お金があってじゅうぶんな設備の出来る時ばかりに限りません。すくない費用で、ほんのちょっとした改善でも家の中におこなったために、みんなが便利に暮らせるようになったとか、そのかんたんな改善を少しばかりの費用は、自分の我慢と倹約から作り出したものだとか、いう中に、実に不快文化的な意味があり、教養の高い人の愛情の深さがにじみ出しているものです。
≪中略≫
機械を使って生活するから文化的だとか、むずかしい学問が出来るから文化人だとかいう考えかたからもう一歩進んで、生活科学化は何のためにするか、自分を向上させ、まわりの人々のためになるための時間が欲しいから、生活のむだをはぶく研究をするのだという考えかた、学問を研究するならば、それに依って社会の幸福を進めていきたいという愛情を持つこと、こういうふうに、心のありかたと文化とを関係をつけて見るのが大切です。どんな人とでも親しんでいける。広い、深い心もまた文化人の資格の一つです。
『ひまわり』 第二巻 第十号 1949年
文化とは心の在り方であり、心が識っていれば、自ずと態度や言動に現れるもの。訪問先にお土産を持参する際、スーパーの袋にそのまま入れて、ガサゴソと持って行くのと、きれいな包装紙や風呂敷に包み替え、手紙の一つも添えるのでは、印象がまったく異なりますね。また、お土産の値段よりも、ちょっとした気づかいに感激する方が圧倒多数と思います。
その際、包装紙にするか、風呂敷にするか、色使いは、デザインは……といった事を、相手に合わせてセレクトできるのが「文化」であり、包装紙の色柄一つ選ぶにも、美術や宗教の素養が問われます。何でも「高級ならいいだろう」とはならないですね。
こうしたセンス、知識、配慮が積み重なって、一人の人間を形成します。
文化とは、ある意味、精神生活の集大成といっても過言ではありません。
あれもこれも知っているから文化的、とはならない所以です。
機械を使って生活するから文化的だとか、むずかしい学問が出来るから文化人だとかいう考えかたからもう一歩進んで、生活科学化は何のためにするのか、自分を向上させ、まわりの人々のためになるための時間が欲しいから、生活のむだをはぶく研究をするのだという考えかた、学問を研究するならば、それによって社会の幸福を勧めていきたいという愛情を持つこと、こういうふうに、心のありかたと文化とを関係をつけて見るのが大切です。
どんな人とでも親しんでいける、広い、深い心もまた文化人の資格の一つです。
『ひまわり』 第三巻 第十号 1949年
おけいこごとと雑感 ~成功者より求道者であれ
日本文化の独自性は、海外でも広く知られていますが、だからといって、「言わなくても分かるだろう」というものでもありません。一口に外国人といっても、感じ方も考え方も様々だし、当然、日本文化に対する見方も異なります。
日本人が「日本文化はこうだ」と定義して、そのように理解しろと外国人に要求するのもおかしいし、世界中の人々が関心を示しているからといって、日本文化が「誰からも愛される最高の文化」というわけでもありません。
ところが、下手にプライドを持つと、華道も茶道も日本が最高で、外国人は何も知らない、みたいな錯覚に陥ってしまうようです。
その点、村岡氏は次のように指摘します。
「小泉八雲の日本婦人礼讃もありがたいですが、今の場合、私は寧ろ、今まで女性の美徳として讃美されて来たものを、一応こわしてしまって、新しいものを打ち建てなければならないと思います。いわゆる日本婦人の美徳としてたたえられて来たしとやかさとかやさしさとかつつしみぶかさなどというものは、かなりに茶の湯やいけばなの芸術によって培われて来たと思いますが、このような芸術は大体が、形式に重きを置くものなのですから、この教育がどのくらい婦人の自発性や自主性を殺して来たか知れません。型を尊重する芸術に傾倒していると、型を脱けるところまで行かないうちに、型そのものにがんじがらめに束縛されてしまうのじゃないでしょうか」
≪中略≫
私はふっと心に浮かんだままを、かたわらの文士N氏に語りかけた。
「石垣のわれめから咲き出した
みすぼらしい花でも
その花の根を葉と茎のあいだに
潜む微妙な関係を見て解くことが出来たなら
その時にこそ我々は、
神と人と宇宙との間に潜む
神秘を解き得るのだ――
とテニスンが言いましたが、意味深い言葉ですね」
N氏はそれが特徴のほそい眼元に笑いをうかべて黙ってうなずいた。
≪中略≫
一茎の草の中にも深い人生の神秘を感得すればこそ、一輪の花の中にも潜む生命の不可思議や時劫(じごう)のきざみのおごそかさに圧倒されて、「この神秘を解き得たなら、人生と宇宙の神秘をも解き得るのだ」とテニスンは歌ったのであろう。
けれども、日本人のように花を扱うことに自信を持ち過ぎ、花の芸術を独占した気になり、何もかもわかったような、自己の「芸」に陶酔している者たちがこれを聞いたなら、みずから深く人生を索(さぐ)ろうとする謙虚な態度の足りなさに禍いされて、「花と根と茎の関係が分からないのは愚昧だ」とも考えるかも知れない。
型から入りつつもついには型を脱却することを志すのでなければ、定型に通じ切ることは陳腐と停滞を招くことになる。
『それいゆ』 第五号 1947年
『型』は大事だけど、型を究めたからといって、その分野において「最高」というわけではないし、むしろ型に縛られて、新しい創造の力が奪われるのではないか、という喩えです。
ちなみに、『道』と『型』は異なるし、求道と完成も別のものでしょう。
成功者よりは、求道者たれ、と村岡氏は訴えているような気がします。
<女学生時評> 新しい憲法 ~男女同権・男女同等について
戦後、あるいはそれ以前から、男女同権・男女同等について、様々に論じられてきたことは興味深いです。
これほど長い歴史があるにもかかわらず、現代に至るまで問題を引きずっているということは、社会制度にも原因はあるでしょうけど、根本的なところで、男女の違いを理解してないのが一番大きいのではないでしょうか。
たとえば、動物園の猿山では、サルとイノシシが仲好く暮らしていますが、二種類の異なる動物が共存できるのは、両者の特性を理解すればこそ。サルもイノシシも「同質」とみなして、同じように扱えば、喧嘩になります。
男女もそれと同じ。
それぞれに特性があり、精神的、あるいは身体的役割があるのですから、その違いを無視して、一つの社会や家庭で暮らそうとしても、上手くいきません。
男女は同権、同等であっても、『同質ではない』ということを理解しないと、お互いに不幸になるだけではないでしょうか。
その点、村岡氏は次のように言及しています。
一家の主婦であるひとが、全くふみつけにされた仕打ちを受けていた場合もあります。どんなに無理を言われても「女であるゆえに」我慢しなければならなかった私たちの先祖の中の多勢の者たちは、今日のように、女と男とは人としては同等の権利と義務と責任を持っているのだと証明される日が来ようなどとは夢にも思わなかったかも知れません。
けれど、あなた方はその日にめぐり逢ったのです。憲法の下に私たちは明るく、元気に、自信をもって踏み出すことが出来るのです。
こう言ったからとて、私は決してあなた方に男と同じようになってしまえと申すのではありません。ここのところがかなりにまちがわれているらしいですね。
男女同権だから、男も裁縫をし、料理をし、子供のおもりをしなければいけないなんて言っている女のひとたちもあります。男がお料理をし、子守りをしてわるいというわけはありません。どうしてもそうしなければならない場合には、「男だから、そんないやしい仕事は出来ない」なんて威張りかえっているのはおかしいことですが、先ず毎日の普通の生活では銘々ちがった分担を持っているのですから、それを受け持って行ったらいいでしょうね。
≪中略≫
憲法には男女の「本質的同等たる」という言葉が出ていますが、仕事が何もかも全く同じというのではなく、ほんとうの人間としてのねうちは変わらないという意味なのです。
『ひまわり』 第一巻 第一号 1947年
「仕事が何もかも全く同じというのではなく、ほんとうの人間としてのねうちは変わらないという意味なのです」は、本当にその通り。
男女同権、男女同等を実現するのに、仕事の分担や、業務上での男女差の撤廃は、救いになりません。
たとえ、夫が妻と同じくらい皿洗いするようになっても、愛と尊敬を勝ち得たことにはならないし、管理職の人数が男女半数になっても、女性に対する侮蔑や下心は無くならないからです。
もちろん、法律や制度の上で、男女同権、男女同等を整備することは重要ですが、心もそれにならうわけではないし、男性が女性を慈しみ、また女性も男性を敬う気持ちがない限り、仕事量や給与など、数値の上で同一にしても、意味ないと思うんですね。
いつの時代も、男性は、「自分が役に立つ。尊敬されている」という実感がない限り、女性に対して攻撃的になりますし(侮蔑や性的いやがらせなどを含む)、女性は、そうした男性の態度を敏感に感じとって、「愛されてない」と自己無価値感や無気力に陥るもの。愛がない限り、制度は幸福の解決策にはなりません。
そこを重々理解した上で、積極的に改革を推し進めていかないと、結局は、制度(数値)だけが一人歩きして、誰の救いにもならないどころか、男女間の怨恨をいっそう深めるだけではないでしょうか。
クリスマスの意義 ~価値のある贈り物とは
今も昔も、クリスマス――というよりは、『クリスマス商法』が人の心に与える影響は計り知れません。
家族や恋人のいる幸福をかみしめる人もあれば、孤独感や自己無価値感に陥る人もあり、どちらかといえば、心や暮らしに問題を抱えた人には辛い時季と言えるのではないでしょうか。
その点、村岡氏は次のように言及しています。
一年は夢のように過ぎてしまったと言える人たちは考えかたによっては、しあわせな人々です、広い世の中には、それとは全くちがった意味で、「夢としか思われない、夢であったら醒めて欲しい。醒めたらどんなに嬉しいだろう」というように、わずか十二ヶ月の間に世をへだてたほどの変化を身辺に経験した人たちもあるわkです。
その変化が幸福から不幸へ、喜びから悲しみへの変化でもあった場合など、昔の人の歌にもある通り、「忘れてはゆめかとぞ思う」(いまだにこのことが信じられなくて、夢ではないかとさえ思う)という感じも出て来ることでありましょう。
喜びの月のクリスマスは幸福な人たちが互いに喜びを取り交わすだけでな淋しい人、悲しんでいる人々に喜びを運んでゆく月でもあらせたいとお思いになりませんか、みなさん?
本章では、東洋英和女学校の恩師である校長ミス・ブラックモアから聞いた話として、「ある国の王様が、クリスマスの贈り物を持ってくるよう、国民におふれを出した。人々は、真珠やダイヤモンドなど、競うように高価な捧げものをしたが、王様は生まれたばかりの、まっしろな子羊を捧げた貧しい少年の心遣いにいたく喜ばれた」という物語を紹介しています。
ホワイト・クリスマスは、品物の値段ではなく、与える人の愛情こそがクリスマス・プレゼントの値打ちである、という精神からきているとのこと。
幸福なおもいでの積み重なりである少女の年月の間に、光の塔のようにそびえているクリスマスの若々しい友情の喜びを思う存分に味わうのはいいことです。それはそれでいいとして、親しいものたち、身ぢかに愛するものたちが、あたえたり受けたりする幸福だけが、クリスマスの季節の喜びだと思ったら大まちがいで、クリスマスの精神はもっと偉大な奉仕と犠牲から発する同胞愛、人類愛の中にあります。
とぼしき人々、さびしい人々、頼りすくない人々への同情と助けの心を、何か具体的の、すなわち形のある実質的の役に立つ贈り物に、あらわそうとするくふううと計画のなかに、いいしれぬ喜びがあります。
年末にクリスマスがあることについて私はいつも何か救われたような、ほっとしたものを感じます。もし、クリスマスがこの師走の月の間に廻って来なかったら、私たちはどんなにあわただしく、あくせくと、この一ヶ月を暮らしてしまうことでしょう。
『ひまわり』 第三巻 第十一号 1949年
ちなみに、「慰め」と「施し」は違うし、「支援」と「同情」も異なります。
クリスマスの精神は、それよりもっと深い、慈愛に通じるものなので、貧者におにぎりを投げて寄越すような、「なんでも、やればええじゃないか」というものではないです。
一年に一度、総決算という形で、自身の生き方を振り返る機会にしたいものですね。
若さをどう考えたらいいか ~最上のものはなお後にきたる
誰にとっても若い時代は宝石みたいなものです。
身も心も活力にあふれ、何をやっても許される、人生のボーナスタイムです(あっという間に終わってしまいますが)。
村岡氏が学んだ東洋英和女学校の校長ブラックモア女史は、卒業式に際して、一人の女生徒が泣きながら口にした、「一番幸せな時代はこの学校ですごした年月です」という言葉に対して、次のように述べています。
「むすめたちよ(校長はいつでも私たちを、〝Girls!〟と呼びかけた)今から十五年、二十年、三十年ののちにあなたがたが今日のこの時代を思い返して、なおかつ、あの時分が一番たのしかった、一番幸福だった、としんそこから思うようなことが、もし、あるとしたならば、私はそれをこの学校の教育の失敗だといわなければなりません。
人生は進歩です。きょうはきのうよりも良く、あすはきょうよりもすぐれた生活へと、たえず前進して行くのが真実の生きかたです。若い時代は準備のときであり、その準備の種類によって次の中年時代、老年時代が作られていきます。最上のものは過去にあるのでなく、将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ちつづけて進んて行く者であってください」
村岡氏は、英国詩人ロバート・ブラウニングの言葉、
我と共に老いよ
最上のものはなお後にきたる
を引き合いに、次のように述べています。
最後のためにこそ最初があるという一貫した人生への愛着を私はいだいている。
若いときに何もかも経験してしまわなければ損をする、なんでも一人前に経験してよい年ころになったというような「若い時代」への喜びの、はかなさともろさとをはっきりみきわめて、もっと強靭な青春への信頼を持ちたい。
『女性の生き甲斐』牧書店 1953年
「最上のものはなお後にきたる」(最上のものは過去にあるのでなく、将来にある・編集者 内田静枝)という言葉がいいですね。
年を取るということは、前方に残された時間がどんどん減っていく、ということ。
まだ70年が、50年になり、40年になり、30年になり、20年になり、ついには、あと10年になってしまう。
いろんなチャンスも遠ざかり、身体も老いて、どんどん先細りしていくのが、すべての人間の宿命です。
多くの人は希望もなくし、「どうにでもなれ」という気分になりがちですが、最後の瞬間まで、希望を失わず、「最上のものはなお後にきたる」と思えたら、どれほど素晴らしいか。
何歳になっても、前だけを向いて、自分の可能性を信じて生きていければいいですね。
おわりに ~「美しく生きる」とは
村岡氏の言う「美しく」とは、顔形の美しさでもなければ、皆が「素敵」と賞讃する生き方でもない。本人はもちろん、その人が存在するだけで、周りも幸福になるような、感動的な生き方だと思います。たとえるなら、その人が去った後も、いつまでも惜しまれるような存在。いつの時代の、何ものであれ、手本にしたいと思うような生き方。言葉の数々や所作が、そのまま伝説になるような、あっぱれな人生ではないでしょうか。
昨今、人の魅力も存在価値も、すべてが数値化・可視化され、これといった心の指針を持つのも難しいですが、良質な書物を通して、先人の教えに耳を傾けることはできます。
なぜ一世紀も前の人の言葉が今に語り継がれるのか、その理由を考えれば、「美しく生きる」ことの意味も、その価値も、分かるのではないでしょうか