寺山修司の戯曲『星の王子さま』 現実社会で星はいかに輝くか

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戯曲『星の王子さま』について

戯曲『星の王子さま』は、『血は立ったまま眠っている』『毛皮のマリー』に連なる、寺山修司の初期の戯曲である。

サン=テクジュペリの名作『星の王子さま(Le Petit Prince)』では、「何百万の星のどれかに咲いているたった一輪の花をながめるだけでしあわせだ」と主張するが、現実には、星の王子さまもいつか大人になり、見たくないものも目にするようになる(世間、歴史、人間、等々)。

すでに「見てしまった」我々は、こうした現実といかに関わるべきなのか、というリアルな問いかけをもって書かれたのが、戯曲『星の王子さま』だ。

年齢不詳の男装の麗人『オーマイパパ』と、旅をしつづける少女『点子』は、大きな天体望遠鏡のあるホテル(元は売春宿?)に滞在している。

ホテルには、恐怖の老処女『ウワバミ』と星の王子さまに使える白髪の少女『ヒツジ』、男装の麗人である『地理学者の星』『王様の星』『のみすけの星』『そろばんの星』『うぬぼれの星』らが現れ、純粋な少女・点子に様々な現実を教える。

点子は、ついに、「星の王子さま」がペンキのつくりもので、何もかもお芝居だったことに気付くが、舞台装置が崩れた後も、星を見上げ続ける――という、シンボリックな物語だ。

寺山氏の戯曲は、みなそうだが、シェイクスピアの『リア王』や『ハムレット』のように明確な筋書きはなく、全てが比喩によって語られる。

抽象的なエピソードを一つに繋ぎ合わせ、感覚的に理解するような詩劇だ。

『星の王子さま』も登場人物が思想や信条を言葉で説明することはなく、象徴的なアイテムや舞台装置の崩壊といった形で、主要なメッセージが描かれる。

なので、『リア王』のように分かりやすい筋書きを期待すると、肩透かしに終るが、一つ一つを詩のように詠むと、そこに込められた皮肉や問題意識が分かる。

演劇ではあるが、本質はどこまでも詩(文学)であり、そういう意味では、他のお芝居とは一線を画している。(たとえば、『黒蜥蜴』や『椿姫』といったもの)

本作は、角川文庫の『毛皮のマリー / 血は立ったまま眠っている』に収録されており、初期三部作をまとめて読むのに最適。

後期の、『身毒丸』や『邪宗門』に比べたら、はるかに分かりやすいので、興味のある方はぜひ。(リンク先に作品紹介を掲載しています)

当方の一押しは、『毛皮のマリー』です。

その他の戯曲は下記をご参照下さい。
寺山修司の戯曲 タイトル一覧

名言集

星の王子さまも大人になる

「何百万の星のどれかに咲いているたった一輪の花をながめるだけでしあわせだ」とサン・テクジュペリの星の王子さまは言っている。だが「見えないものを見る」という哲学が、「見えるものを見ない」ことによって幸福論の猪口をつなごうとしているのだとしたら、私たちは「見てしまった」多くの歴史と、どのようにかかわらなければならないのだろうか。

という書き出しから始まる戯曲『星の王子さま』のノートを読めば、星を見上げて夢見るような、おとな子供を揶揄する演劇か、はたまた、夢を忘れた大人たちへの警告か……と感じるが、ここに綴られているのは、きわめて現実的な話。世の中を変えてきたのは星の王子さまではなく、ある時点から、現実と向かい合い、夢や現実の狭間で悩み苦しんだ大人であるという、一つの達観である。

いわば、『星の王子さま』は、現実から目を背け、ファンタジーに浸り続けるる人の象徴といえる。

理想と現実の狭間で戦う

星の王子さまの大人になってしまった無残な姿はあちこちに見出される。そしてこうした「星の王子さま」を捨ててきた人たち、「見えるものを見えてしまった」人たちが、もっとも深く現実原則と心的な力との葛藤になやみながら歴史を変えてゆく力になってゆくのである。

「私はこの戯曲で復讐をしたいと思った。「星の王子さま」にではなく、「星の王子さま」を愛読した私自身の少年時代に、である。私は、今やパオパブの木に棲む一人である。そして、夜になると出て行って、花を食べるヒツジになる。

ここで大事なのは、「だから星の王子さまは甘いんだ、大人になりきれない理想主義なのだ」と断罪するのではなく、多くの人は、星の王子さまのように、この世で何が一番大事かを知っている。

だが、愛だけで飯は食えないし、正義を唱えていれば、いかなる不正や暴力にも打ち勝てるわけでもない。

理想は胸に抱きながらも、現実と向かい合う、そのジレンマの中で、人も社会も成長する、ということだ。

最初から、「理想だけ」「現実だけ」は成り立たない。

自分だけの天文学を楽しもう

主人公は、無邪気な女の子、点子。

彼女が「パパ」と呼ぶのは、男装した女性である。

二人は旅行案内所の情報を頼りに、ホテルにやって来る。

“舞台中央に大時代がかった天体望遠鏡。そして額にはサン・テクジュペリの「星の王子さま」の肖像。擬古典的で装飾過多の西洋の売春宿を思わせる。≪中略≫そして室内なのに星が出ている。一目で作りものだとわかるが、中に豆電球がついている。”

パパ 「シリウスを一つ、失敬してやったぞ。おまえにも一つ、とってやろうか? 北斗七星がいいかい? それとも、さそり座の心臓がいいかい?」
点子 「いりません。あたし、星なんてきらい!」
パパ 「でも、きれいだよ。光っている。壜の中に一つだけ入れて枕許においておくと、じぶんだけの天文学が楽しめる」

ここは純粋に台詞がきれい。「じぶんだけの天文学」という発送が素敵。

子供時代を裏切った者は星のように吊される

さて、この部屋には書架から大きな天体望遠鏡が突き出ていて、書架がドアになっている。
ドアの向こうでは、女主人で、恐怖の老処女ウワバミ(ゾウをのみこんだ大蛇のボア)が天体を望遠している。

ウワバミいわく、”昼だって星は見える。あたしは「何百万の星のどれかに咲いている、たった一輪の花をながめるだけで、しあわせ」なんだもの

何を見ているの? という点子の問いかけに対し、

ウワバミ 「二十八年前に、さそり座の前で行方不明になった星! 学者に軌道を推理してもらったら、二十八年周期だっていうの。そろそろ帰ってくるところじゃないかと思ってこうして見張っているんだけど」

点子 「帰ってきたらどうするの?」

ウワバミ 「とっつかまえて、この部屋に吊してやるつもり!」

点子 「まあ、この部屋の星は、みんなおばさんがつかまえた星なのね」

ウワバミ 「一人で迷い込んできたのもあるわ! まだとどけてない新星もあるし。あたしだって ぜんぶの星とのつきあいがあるってわけじゃないもの」

点子 「でも、この星がぜんぶ、星座表にのっているわけでもないでしょう」

ウワバミ 「星座表に? むろん、のってるわ。のみすけの星もあれば、地理学者の星もある。点燈夫の星だって、ちゃんと出ている」

点子 「……」

「ウワバミ 「ときどき、勝手に軌道を変えてあたしから逃げようとする星もあるけど、ぜんぶ、箒で叩き落としてやるってことにしているんだ」

サン=テクジュペリの『星の王子さま』も、王様、実業家、うぬぼれや、学者など、いろんな星の住人を訪れるが、本作にも、いろんな星が存在する。

それを掴まえて、部屋に吊しているウワバミは、いわば、子供時代の証人だ。

サン・テクジュペリの星の王子さまに登場するウワバミは、ゾウを丸呑みするが、大人はその絵を「帽子」と言い張り、正しく認識することはない。

ウワバミは、いわば子供時代の象徴であり、大人が子供の頃、どんな感性や夢を有していたか知り尽くしている。

大人になって、子供時代とは異なる何ものかになると、多くの人はその頃のことをすっかり忘れてしまうが、ウワバミはいつも大人を見張っていて、子供時代を裏切った者たちをコレクションにしている。

たまに、過ちに気付いて、そこから逃げだそうとしても、ウワバミは箒で叩き落とし、慚愧の部屋に連れ戻してしまうのだ。

宿帳にヒツジを描く

このホテルにはもう一人、「ヒツジ」という使用人が住んでいる。

サン=テクジュペリの『星の王子さま』では、小さな星に生えている草を片っ端から食べてしまう。

それは巨大な樹木バオバブから星の破壊から救ってくれるが、同時に、大事な一輪の花も食べてしまうかもしれない、真ん中の存在だ。

使用人のヒツジは、宿帳の代わりに、パパに「ヒツジの絵を描く」ことを要求する。

これは本家・星の王子さまと飛行機乗りの出会いのエピソードだ。

サン=テクジュペリの『僕』は、いろんなヒツジの絵を描いてみせるが、王子さまはどれも気に入らない。

困り果てた『僕』は、箱を描き、「ほら、木箱だ。きみがほしがってるヒツジは、このなかにいるよ」と手渡す。

すると、小さな気難し屋さんの顔が、ぱっと明るくなり、「これだよ、ぼくがほしかったのは!」と歓喜する。

これも、「本当に大切なことは目に見えない」のセカンドバージョンで、現代でも、様々に解釈されるが、寺山版『星の王子さま』では、何を描いても構わない。

こんなものは、ただの仕来りみたいなものだから。

パパ 「しばらく滞在することになりそうだ」

ヒツジ 「では、宿帳をかいて貰わねばなりません」

パパ 「宿帳を?」

ヒツジ 「はい。ここに、お名前ではなくて、ヒツジの絵をかいていただくことになっております」

パパ 「ヒツジだって?」

点子 「どんなヒツジ?」

ヒツジ 「どんなでも構いません。そのまま描くと、大変な手間ですから、ヒツジがかくれている箱を外から描くだけでも結構です。稀に、毛を一本だけおかきになる方もいらっしゃいますが、それでも結構です」

花を眺めても苦痛は誤魔化せない

場面はかわって、星の王子さまの変装をしたウワバミと点子が向かい合う。

ウワバミは、点子に「星の王子さまと仰い!」と要求し、点子は気圧されて「似ています」と応える。

ウワバミ 「あたしはこうして、昼のあいだは星を眺めつづけていて、夜になると「星の王子さま」に化けるの。女学校の宿舎に入っていた頃から、ズーッと同じ日課よ」

点子 「どうして、一日中星ばっかり見ているんですか?」

ウワバミ 「星には花が、咲いているからよ。「何百万の星のどれかに咲いているただ一輪の花をながめるだけでしあわせだ」って、王子さまが言ってるわ。あたしは、一日中その花をながめていられるだけで、もう何もいらないの。でも、ヒツジが花を食べると、星という星がみんな消えてしまう。だから、あんたもヒツジには油断しちゃ駄目よ」

寺山修司のウワバミが言うと、有名なフレーズもまったく違うニュアンスになる。

現実的に考えれば、「何百万の星のどれかに咲いているただ一輪の花を眺めるだけでしあわせ」に感じる人間など、お目出度いだけだし、花を眺めるだけで観じられる『しあわせ』とは、どの程度のものなのか、ほとんど説得力がないからだ。

それより、金が欲しい。

現実なんて、そんなものじゃないか?

サン・テクジュペリの星の王子さまは確かに美しいが、一輪の花を眺めるだけで苦痛が誤魔化せるほど、我々の人生も社会も単純ではない。

幸福になろうとする子は、花だけ見ていればいい

点子とウワバミの会話。続き。

ウワバミ 「あたしは、あの本を女学校一年生の一学期のときに読んだの。それから、あの本とお友だちになった。何べんも何べんも読んでいるうちに、あの本の中の「ぼく」というのに嫉妬を感じるようになって、もしあの本の中の「ぼく」というのがなかったら、あたしがそのかわりに「星の王子さま」のお友達になれるなじゃいか、って思ったのね。それで、ハサミで、本の中から「ぼく」という名をぜんぶ切り取ってしまった。でも、どうやったら「星の王子さま」と話しができるのか、わからなかった。あたしは、本の中に入ってゆく方法を知らなかったのよ。さあ着せてあげるわ。星の王子さまの意匠。あなたにも、これを着る資格がある」

点子 「資格って?」

ウワバミ 「あの本をよんだ人なら、誰でも星の王子さまになることができるのよ」

点子 「星の王子さまって何歳なの?」

ウワバミ 「さあね、本にも年のことは書いていなかった……幸福になろうとする子は、年のことなんか考えずに、花だけ見ていればいいんだから

「幸福になろうとする子は、年のことなんか考えずに、花だけ見ていればいい」というのは確かにその通り。

現実を知れば、幸福どころか、かえって不幸になる方が多い。

にもかかわらず、花だけ見て過ごした老処女のウワバミは、今も星の王子さまの格好をして、とんちんかんな事を言っている。

点子 「星の王子さま、って大人になったら、やっぱり背広着て、よれよれのワイシャツ着て、満員電車に乗って会社に出て行くの?」

ウワバミ 「会社になんか、いかないよ。星の王子さまがすんでいるのは、じぶんのからだよりほんの一寸だけしか大きくない星だもの。会社なんか、あるもんですか!」

点子 「じゃあ、オフロなんかないのね……でも、いつもからだの汚れている王子さまなんて、あたしは、いや!

ウワバミ 「心! 心! からだが汚れてたって、花さえ美しければ、それでいいんですよ」

大人になるチャンスを逃すと、キレイゴトばかり言う

ウワバミは、点子を椅子に縛り付け、「目をとじてごらんなさい……面白いものが見えるから」と強要する。

だが、目を閉じている点子には何も見えない。

すると、ウワバミは、点子をぐいぐい締め上げて、「見ようとしないからよ。地理と算数と文法しか勉強しなかったからよ。あなたみたいに遠くの星の花が見えない子には小さな椅子の星が似合っているんだ」と、責め立てる。

その後、点子は使用人のヒツジに助けられ、「あのおばさん(ウワバミ)、アタマが少しおかしいんじゃない? あんなにキレイゴトにばかり、世の中のことを考えるなんて」と口を尖らせる。

ヒツジ 「純粋すぎるのよ……大人になるチャンスを失ったのよ……すみれの花の手淫常習者、天文学のもの狂い、東京のどこかにまだほんとに「星の王子さま」がかくれていて、ヒツジに花を食い荒らされないように、守っていると信じている女、おなべの底のナベネズミで、かなしい女の一生を、かいてもかいてもかいきれぬ、聖なる処女のなれの果て!」

点子 「そういうあなたは、何者なの? あたしを助けて下さったあなたは一体、誰なの?」

ヒツジ 「あたしは、ただの狂言まわし。これからあなたに、地獄を見せてあげましょう」

現実なんか、見たくない。作りものは、決してあたしを傷つけない

そこに王様の星、そろばんの星、うぬぼれの星、地理学者の星、のみすけの星が現れて、「地獄の星の王子さま!」とふっかける。
ますます点子はパニックに陥る。

その後、パパは女性に戻り、点燈夫と絡み合い、暗闇に落ちていく。

パパを探し回る点子は再びウワバミと再会し、パパの真相を聞かされる。

ウワバミ 「あんたのパパは、点燈夫の星と一緒に落ちていったよ……暗い、天体のしじまの底に。「花のいうことなんかきいちゃいけない……花はながめるもの、匂いをかぐものだ」って、あれほど教えてあげたのに、言う通りにしなかったから。 ≪中略≫ あたしにはちゃんとわかってるんだ、あの女(パパのこと)はおまえをダシにして、男に変装して逃げようとしたんだ。それを自分の口で言うのを、あたしはドアのかげで、ちゃんとたしかめましたからね。あの女は、夜中に出てきて花を食べてしまうヒツジだよ。あたしの済んでいるこの小さな星に、めいわくをまきちらす、疫病つきのヒツジなんだ! ≪中略≫ 何てきたならしい……何てむごたらしい……でも、ほんとのことってのはみんなそうなんだ……一皮むけば、みな地獄! お月さまの裏側の成分を科学するあばたの学者! 童話殺し! でも、おまえには、まだ、ほんの少しだけ、救いがないって訳じゃない」

点子 「それは……?」

ウワバミ 「あたしの言う通りにすることだよ……「星の王子さま」になりきってしまうことだよ……何百万の星のどれかに咲いている一輪の花をながめてくらす……」

点子 「でも、あたしには花なんか見えない」

ウワバミ 「見えないものを見るんだ! 見えないものだけを見る」

点子 「でも、そうしたら 見えるものが見えなくなる!」

ウワバミ 「いいじゃないの! そんなもの。今まで見てきたものなんか、みんな捨ててしまえばいいんだ……すると、ほら、見えないものが見えてくる! 作りもの……作りもの……でも、作りものは安心よ、決してあたしを傷つけないから」

『ほんとうに大切なものは、目に見えない世界にある』のも本当だが、『目に見える世界』にも大事なものはたくさんある。

たとえ、それが愛や優しさや正義といった美しいものでなくても、裏切りや理不尽から学ぶこともたくさんある。

愛や感動も人の心を動かすが、怒りや失望も、同じくらい、人の子心に火を付けるものだ。

しかし、こうした醜い側面と向かい合うには、勇気と強さが必要だ。

ある人は目を背け、ある人は知らない振りをし、ある人は現実を否定するだろう。

だが、そうして自分の世界に閉じこもり、望遠鏡を覗いているだけの者に、どんな幸せが掴めるというのだろう。

『ほんとうに大切なものは、目に見えない世界にある』という理屈は、現実を見たくない人には都合のいい方便で、かえって人を迷わせることもある。

見たくないものも、しっかり見詰め、目の前の現実と対峙できる人が、様々な苦難を乗り越え、地上的な幸福を掴むのではないだろうか。

それでもどこかに、ほんとの星はある

ウワバミの言説に、違和感を覚える点子は、「この壁のうしろに、青い空だなんて、ある筈がない…… どうせ、あるのは、紙の星と、豆電球の天の川! いつまでも、いつまでも、大人になりきれない「星の王子さま」! きたないものを見ないふりをするごまかしの童話!」と非難する。

すると、ウワバミが言い返す。

ウワバミ 「あんたは、おもちゃをこわしてしまった。人形の手をもぎとり、言葉をねむらせた……でも、言葉がねむってしまうと、目をさますのは、あの世界だけ! 早く終わりすぎてしまった芝居は、おそろしいあの世界に引継がれる……」

点子 「うまく化けることのできないって人もいる。お芝居と同じように、人生にも上手な人と下手な人がいるのよ。酔っ払ったパパがなけなしの鞄とスポーツ新聞を小脇にかかえて居眠りしている終電車! もう何年も、星をかぞえたことのない東京中の100万人のパパ! 受験戦争にくたびれて、深夜放送のラジオから「星の王子さま」の声がきこえてくるかと、心待ちにしているイクマ・マサキくん。みんな星を見ましたか? ほんものの星を! この、すぐ上にあるのは幕です。幕の上にあるのはボーダーです。新宿文化劇場の屋根があります。ネオンはありません。でも、星はある筈です。ほんとの星はある筈です。たぶん、今夜も見えないかもしれないけれど、紙でも豆電球でもない星がある筈です。みんな、ここを出たら空を見上げて下さい……言葉がねむると、あの世界が目を醒ます……たとえ見えなくても星は光っているんです。でも、あの星もお芝居なの?

この作品のメッセージはは、点子の最後のセリフ、『でも、星がある筈です。ほんとの星はある筈です』に集約されていると思う。

寺山修司も、「見えないものを、見続ける」、プチ星の王子さま達を決して馬鹿にしているわけではなく、大事なものは、何処かにあると示唆している。

今は、舞台装置の隠れて、何も見えないが、『たとえ見えなくても、星は光っている』と。

本作では、ウワバミが部屋中に吊す偽物の紙の星や、望遠鏡の向こうに輝く星、本当に存在するかどうかも分からない星たちが次々に登場するが、そんな“まやかし”ではなく、自分が今住んでいるこの現実社会にも、見ようと思えば見える星があるはず。

目には見えない美しさにこだわらなくても、星はちゃんと頭の上で輝いていて、そんな『本物の星』を見出す理知と感性こそが、本当の大人の証ではないだろうか。

どうせお芝居なのさ
ゆめから抜け出せずに
星の王子さま いまでも読む子よ
夜空を仰ごう

言葉が
死ぬとき
めざめる
世界がある

「言葉が死ぬとき」というのは、理屈であれこれ考えるのを止めた時・・と解釈すると分かりやすい。

人間というのは、深く考えているようで、その実、同じ平野をぐるぐる回っているだけ・・ということが往々にしてあるので、時には、思索も信条も投げ出して、五感に委ねるのが大事です。

現代社会で、星はいかに輝くか

人はいつ大人になり、子供時代に別れを告げるのだろう。

大人と子供の違いを明確に示す基準もなければ、今日から大人という境界もなく、いつの間にか、自分も大人の仲間入りをして、子供時代とは全く異なる日々を生きている。

その過程で、変節することもあれば、子供時代の夢や誓いなど、すっかり忘れてしまう人もあり、大人というのは、子供に比べて、つくづく身勝手で、汚れた生き物かもしれない。

それでも、世間では、『子供』という言葉にはどこか侮蔑するような響きがあり、「いい年して、子供みたい」と言われるのは、決して褒め言葉ではない。

子供は遊びの天才とか、純粋で汚れがないと持ち上げても、現実社会においては、決して美徳でないことは、大人なら誰もが知っている。

にもかかわらず、子供の純粋さを美化して語りたがるのは何故だろう。

大人自身は、現実社会において、星の王子さまのような純粋さを決して高く評価してないのに、サン=テクジュペリの『星の王子さま』を有り難がり、とうに無くした純粋さを懐古する。

それは多分、自分で自分を裏切った苦さや、子供時代の自分に対する後ろめたさがあるからだろう。

私たちが、サン=テクジュペリ『星の王子さま』に胸を突かれるのは、それこそ、自分が一番見たくない現実がそこに在るからかもしれない。

だからといって、『星の王子さまを読む子供たち』が絶対正義という訳でもなく、目の前の不都合な現実と正面から向かい合うことで、見えてくることもあるはずだ。

それを拒否すれば、ウワバミみたいに、作りものの星に執着し、現実を見ようとしない老女を大量に生み出すことになる。

たとえ大人になり、現在の自分に失望することがあっても、作り物の星を眺め、望遠鏡を覗くことを止めれば、本物の星の輝きに気付くはずだ。

現実社会で星はいかに輝くか。

それは芝居が終わり、舞台装置が崩れた後も、空を見上げ続ける点子の姿に集約されるのではないだろうか。

その他の名言

天の川の堤防

上記で紹介した他にも、美しい台詞がたくさんあるので、幾つか。

ウワバミいわく、「天の川は流れが速いから、誰も泳いじゃいけないって言っておいたのに、キツネが泳ぎわたろうとして、流されて……それを助けようとして、人がいっぱい上にのったので、堤防がケッカイして、とうとう星が氾濫しちゃった……ほら、星が洪水を起こしているでしょう」。

そこで、大工。

大工 「天の川の堤防が決壊したので、修理をしにゆくんだ」

天の川の堤防という発想がよい。
キツネは友だちだから、皆が助けようとするのは当たり前なのだけど。

星ばかり見ていたら、無知な老女になる

ウワバミ 「星ばかり見ていたから、ほかのことを知らないうちに年をとってしまいました」

星に限らず、自分が見たいものしか見ない、見たくないものは見ない、という姿勢でいると、他のことは知らないうちに、年だけとって、恐怖の老女になるという喩え。

この世で一番小さい星とは

ウワバミ 「食べるかい? この世で一番小さい星だ!」
点子 「コンペイトウ!」

世界で一番小さい星=コンペイトウという発想がいい。

随所に詩的な表現がちりばめられているのが、寺山戯曲の魅力。

物語より、処世の知恵

寺山修司の戯曲というと、『毛皮のマリー』や『邪宗門』が有名で、『星の王子さま』は世間一般にあまり知られてないが、皮肉が利いた面白い作品だと思う。

何も考えずに読めば、ずいぶん意地悪い見方をする人だと思うかもしれないが、作中でも繰り返し指摘されるように、サン=テクジュペリの『星の王子さま』には、「見たくないけど、向き合わざるを得ない世界」とどう向き合うべきか、という処方箋は書いてない。

否応なしに童話の世界から締め出され、現実と向き合って生きる大人にとって、サン=テクジュペリの『星の王子さま』は美しい物語だが、何の慰めにもならないのが実状ではないだろうか。

だが、崇高な星の輝きは、現実に藻掻き苦しむ大人たちを決して見捨てたわけではない。

それらは今も私たちの頭上で輝いているし、もしかしたら、童話に描かれる星より、もっと強く、美しいかもしれない。

寺山修司の『星の王子さま』は、美しい物語の世界を突き放しているように見えるが、その実、物語の世界が壊れたことに誰よりも心を痛めている一人である。

だからこそ、芝居の舞台が崩壊した後も空を見上げ続ける点子の姿に説得力があるのではないだろうか。

最後に、寺山氏のあとがきより。

レズビアンバーや宝塚OBの協力を得て、天井桟敷によって初演されたこの戯曲は、「毛皮のマリー」と同じように大入り続きで日延べ公演までやった。

ただ、この作品が「毛皮のマリー」とちがうのは、ラストシーンの崩壊である。

「星の王子さま」のさし絵のような装置が屋台くずしで崩れ、メイクをおとして素顔に戻った俳優たちが出てくる手法は、その後「邪宗門」へと展開されてゆくものだが、ここで初めて試みられたのである。

「少女コミック」、宝塚少女歌劇、サン・テクジュペリの童話、といった「少女的なるものの政治学」が私の関心であり、同時に前年までの天井桟敷風俗の自己否定をはらんだのがこの作品である。

その意味で、「毛皮のマリー」よりも多くの問題を内包し、私自身にとっても愛着の多い作品となっている」

サン=テクジュペリのような、少女漫画の世界は、美しいが、現実社会では役に立たないことが多い。

なぜなら、現実社会の大人が求めているのは、処世の知恵だから。

そのギャップが、人間の不幸でもあり、知恵の源ではないだろうか。

初稿: 2018年3月3日

誰かにこっそり教えたい 👂
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