おまえの時代など永遠に来やしない  寺山修司の小説『ああ、荒野』より

新次が少年院を出て来て最初に耳にした「音楽」は村田英雄の「柔道一代」であった。

若いうちだよ きたえておこう
いまにおまえの時代がくるぞ
泣きたかったら講道館の
青い畳の上で泣け

それをききながら新次はパチンコ屋の地獄の雑踏に背中を洗われながら、じぶんのあまりにも早すぎた人生の挫折について、しみじみと考えていた。村田英雄の、あの分厚い唇はいつもスピーカーごしに「おまえの時代」「おまえの時代」と唱えつづけているが、ほんとうに「おまえの時代」なんてものを待っていたら、いつかはその分け前を貰えるだろうか?

*

実は「おまえの時代」なんてありゃしないのさ。誰だって「おれの時代」のことには熱中しているが、「おまえの時代」のことにまでは手がまわらねえ。そんなものを待っていたら老いぼれになってしまっても、まだ少年院の世話になりっ放しでいるだろう。「おまえの時代」なんてのにありつくのはまるでお月さんへ梯子をかけるような話だよ。

≪中略≫

村田英雄さん、あんたは嘘つきですね。「おまえの時代」にかける梯子なんざ、どこにもありゃしませんよ。それなのにあんたはいつも俺たちに甘い言葉をかけてくれる。

あゝ、荒野 (寺山修司)

昔も今も、若者にとっては甘い言葉があふれているものです。

「夢はかなう」
「君にもできる」
「いつか きっと 幸せになれるさ♪」

そうでも言っておかないと、どうにも救いようがないし、また歌っている本人自身が自分にそう言い聞かせている部分もあって、ガンバリズムな内容になるのは致し方ないと思います。

第一、そう歌わないと、売れない。

町中から、中島みゆきの恨み節みたいに、「信じるな 夢なんて かなうはずないのさ」「諦めろ おまえの人生 知れたもの」なんて歌が町中のスピーカーから流れるようになれば、大人も子供もみな発狂して、一億憂鬱の時代が来るでしょう。

にもかかわらず、なぜ大人はそう言い聞かせるのか。

自分だって大した人生は生きてない、せいぜいローンで買った高層マンションを見せびらかすのが関の山なのに、なぜ夢が、希望が、大志が、と、幸福教の教祖さまみたいに繰り返すのかと。

それはね、教祖は既に大勢の信者を獲得して、お金もコンスタントに入ってくる、これ以上、不幸になる心配はしなくていいし、実際、幸福に感じるから、そのように胸を張れる。いわば、教祖の幸せは、それを信じる信者によってもたらされるわけで、もし信者が全て無くなったら、気の持ち方も変わるでしょう。卵が先か、ニワトリが先か、という話になれば、このケースに関しては「ニワトリが先」で、信じる人あっての幸福なんですよね。

かといって、一から十まで醒めた現実感では、庶民は到底生きていかれない。

上でも向いてないと惨めでしゃあない、という、のっぴきならない事情もあります。

大人だって、何かしら、素敵なことを信じたい。

お互い、慰め、励まし、ささやかな希望を分け合いながら生きているのが世の中ではないでしょうか。

それでも、百人に一人、千人に一人かは、幸福教の祝詞を支えに夢を叶える人がいる。

幸福教の教祖さまもその一人だから、そう歌える。

あれは、百人に一人、千人に一人かの、特別な人に向かって歌っているのだから、そうではない、残り99%の人には白々しく聞こえても仕方ない。

皆が皆、スティーブ・ジョブズを目指しても、せいぜいAppleの新製品を買えるほどの小遣いを手にする関の山かと。

だとしても、どんな人にも二つの選択肢がある。

それは星を見て生きていくか、泥しか目に入らないか、どちらかです。

たとえ、死ぬ間際まで、「オレはいつかプライベートジェットに乗って、いい女を抱くんだ」と言ってたとしても、夢を見るのは自由だし、それで本人が楽しければ、それでいいと思うんですよ。そう願っていれば、あの世で叶うかもしれないし(^∧^)

『おまえの時代』など永遠に来なくても、人は何かしら作り出すことができる。商品であれ、家族であれ。

運にも幸福にも見放された人にも、創意は残されている――というのが、人間の真の偉大さではないでしょうか。

「おまえの時代」など待っていても、永遠に来ないのだから、いつ来るか分からない栄光の時を、月を見上げるように待ち続けるより、今を精一杯生きよう、の喩えです。
誰かにこっそり教えたい 👂
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