気の利いた「言葉」は、しばしば良質のブランディを思わせる。
一人でしみじみと味わうのもいいし、二、三人で語りあいながら、酔うのも愉しい。気の利いた「言葉」は、それ自身で、友人になることもある。途方にくれているとき、いいアドバイスをしてくれるからである。
≪中略≫
ときどき、話すのが惜しい言葉もある。「言葉にケチな男」というのもある。
だが、いい「言葉」を沢山もつことは、銀行に沢山、預金するよりもゆたかなことである。「名言集というのは、言葉の貯金通帳なのね」
と言った女の子がいる。そうかも知れない。私はときどき、気の利いた言葉を書いてきた。しかし、書いたことは大抵忘れてしまった。それを小林伸一さんが、拾いだして、ふたたび磨きをかけてくれたのが、本書である。
私は、旧友にでも出会うようななつかしさで、今、本書を読みかえしはじめたところだ。
両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫) あとがきより
言葉とは、突き詰めれば、人間だ。
書かれた言葉も、語られた言葉も、その出所は同じ人間であり、具象化される手段が日記であるか、講演会であるか、の違いでしかない。
言い換えれば、人は人に救われ、支えられる。
逆に、人を傷つけるのも言葉なら、悪意を込めるのも言葉なのだ。
幾千万の言葉があふれる中、私達は友人や伴侶を選ぶのと同じくらい慎重に言葉を選ばなければならないし、どれほど好きな言葉も、立場や環境の変化に応じて自分から離れていく。
そうして、くっついり、離れたり。
まるで学校のサークル仲間みたいに、その場その場を連れ合い、気持ちを分かち合えるのが、言葉のいいところだ。
本物の友人や伴侶は、作るにも、離れるにも、何かと気を遣うが、言葉は、ただ忘れればいいだけ。距離をおけば、自然と離れていくものだから。
「いい言葉をたくさんもつ」とは、即ち、善き友達に支えられ、善き親に導かれるのと同じだと思う。
現実の社会に出会いはなくても、本屋や図書館に行けば、いい出会いは無限にある。
私達は、ほんの少し、想像力を働かせ、賢明でありさすれば、その場その場で必要な言葉を見いだせるのである。