「世話する」と「育てる」は違う。
「愛する」と「可愛がる」も違う。
どこが、どう違うのか、私には明言できないけれど、
一つだけ確かなのは、愛にはいつも迷いが付き物だ・・ということだ。
なぜなら、完璧に愛せるのは、神様だけだから。
人間には、人間の愛し方しかできない。
それは、いつだって、不完全なものなのだ。
愛しても、愛しても、愛し足りないと思い、
ふとすれば、「これでいいのか」という自問自答に明け暮れる。
親として、十分してやれなかったような気持ちのまま、
いつか、私たちは、子供を外に送り出さなければならない。
愛し足りなかったような悔いは、きっと一生、心に残るのだろう。
でも、その悔いがあればこそ、
私たちはいつまでも、子供の人生を見守ることが出来る。
物足りないからこそ、いつでも手を貸す用意があるのだ、と。
親子は一生のもので、愛も、生きている限り、そこに存在し続ける。
それが、「世話」と「育てる」の違いであり、
「愛」と「可愛さ」の差であるようにも思う。
「世話」には終わりがあるけれど、「育てる」ことに終わりはない。
「可愛さ」は気まぐれに失せるけど、「愛」は無くならないから。
自分の子育てというものが、何処に辿り着くかは知らないけれど、
多分、一生、「これでいい」ということはなく、
中途半端な気持ちのままに、
別れを告げねばならないものなのだろう、と思う。
それがどうであったか、真に知っているのは、子供だけだ。
そして、あなたがどんな親だったかは、
多分、あなたが死んだ後、
子供が、子供をもった時、
初めて分かる。
親となった子供が、あなたを想って、空を見上げる時。