いろんな親御さんと話して、しみじみ思うこと。
それは、絵に描いたような理想的な子育てをしている人など皆無、ということです。
それを売り物にしている人やサービスもあるかもしれませんが、多くの親御さんは、子育てビジネスとは何の関係もない一般人です。
悩み、落ち込みしながら、どうにか良くならないものかと四苦八苦するのが普通です。
もし、自分の子育てに何の問題もないと言い切れる人があるならば、それはそうなのでしょう。
周りを見ていて、「どうやったら、こんな優秀なお子さんに育つんですか (@_@)」と訊きたくなるような子どもが存在するのは事実ですし、そういう親御さんから見れば、子どもが学校に行かないとか、勉強しないとか、当たり前のことで心を痛めている親は、「自分の育て方が悪いんでしょ」としか映らないと思います。
が、一方で、これほど賢く、真面目な親御さんの子どもが、なぜそうなるかな? と首をひねりたくなるケースがあるのも事実です。
よくよく話を聞いてみれば、クラスメートの苛めや教師の偏見、学生同士の見栄の張り合い(SNSやファッション)など、親以外が原因で子どもがおかしくなっている感じです。
いくら家庭内で励まし、慰めても、容赦ない苛めや、学生同士の見栄の張り合いから、子どもの心をすっかりすくいあげることは非常に困難です。
真面目に学校生活を送っていても、不良グループに因縁を付けられ、お金を強請られたり、苛めに加担させられたり、そうした経験が引き金になって、悪い方に転落する子だっています。(私の中学時代の同級生がそうでした)
もう少し大人になれば、不況のあおりをうけて就職に失敗し、精神的にも社会的にもボロボロになる人もあるでしょう。
それを考えると、『すべて親の責任』とは言いがたいし、上手く行っている人は少なからず運に助けられている部分もあると思います。
だからといって、開き直れ、というわけではないですが、何もかも自分の責任と背負い込んでしまえば、子どもだって辛くなります。
子どもが一番見たくないのは、「自分のせいで親が不幸になった」という姿なんですね。
しかし、あなたのお子さん、そんなに悪いですか?
どうやっても問題だらけに見えるでしょうか。
わたしが周りの子どもたちを見ていて、つくづく思うのは、生まれてからこのかた、病気らしい病気もせず、文句を言いながらも毎日学校に通い、クラスや近所には仲のいい友だちがいる、休日には趣味を楽しむ余裕があって、近所のおじさんやおばさんにも「こんにちは」「ありがとう」が言えるなら、まだまだ救いはあると思うのですよ。
だって、こんな当たり前のことすら叶わない子どもが、世の中には少なくないからです。
幼少時から難病に苦しんでいる子どもや、災害で親も家もなくした子ども、絶え間ない暴力や貧困に喘いでいる子どもなど、可視化されているだけでも大変な数です。世界的に見れば、内戦や飢餓で日常的に命の危険に晒されている子どもも数え切れないほど存在します。
それを考えると、成績低空飛行、親に反抗するのが仕事みたいなティーンでも、毎日学校に通って、級友と悪ふざけ、それでもご近所さんには一応礼儀正しく、「ご飯よ」と言えば自室から出てきて、もりもり食べる、というだけで、平均をはるかに上まわっているように感じるんですよ。親はどうしても成績表で子どもの優劣を判断しがちですが、子どもだって、多分、勉強以外に頑張っていることはたくさんあるはずなんです。ジャイアンみたいな級友とか、面倒な宿題とか。大雨の日、ずぶ濡れになりながら登校するのも、子どもには結構な労力ですよ。親は「学校に行くのが当たり前」と思って、雨の中登校したぐらいで褒めもしませんけども。
その上に、創造性だの、生産性だの、プラスアルファの能力を求められ、「まだ足りない」と生活態度や友だち付き合いまでマイナス評価されたら、子どももたまったものではないと思いませんか。
これは自省も込めた話ですが、我が子が近所の子どもたちと元気に遊んでいる姿を見ると、「部屋を片づけない」とか「数学のテストが悪い」とか「シイタケが嫌い」とか、それがどれほどの問題なのか、としばしば思います。皆さんの学生時代はいかがです? 周りに褒められ、自慢できるような中高生でしたか? 皆、一つや二つ、恥ずかしい経験や欠点があって、それでも今は普通に社会人やってます、というのが大半ではないでしょうか。
知人と話してつくづく感じるのは、傍から見れば「それがどれほどの問題?」と思うようなことも、親御さんにしてみれば、「うちの子、もう駄目かもしれない」と断崖絶壁で、針の頭ほどの欠点を象の頭ほどに思い込み、親自身が問題を見つけ出しては、それを自分で拡張しているのではないか、という事です。
もちろん、親にしてみれば、こんな内向的な性格で、普通に就職したり、結婚したりできるのか、一生まともな仕事にも就けず、貧しく、淋しい人生を過ごすのではないかと、心配も尽きないでしょう。どれほど他人に「大丈夫」と言われても、もう一度、虫眼鏡で子どもを観察して、「やっぱり悪い」と、ただ一つの欠点にフォーカスしてしまうのが親心だと思います。
しかし、こうして気を揉むこと自体が愛情だと思うのですよ。
いつも子どもを注意深く観察して、欠点も、素行も、丸わかりだからこそ、他人には見えないものも見えてしまって(将来とか、可能性とか)、過剰に心配もするのです。
子どもに何の関心もなければ、心配もしないし、良心も痛まないでしょう。
案じれば案じるほど頑愚になっていく、それが普通の親の本質だと思います。
だって、人間なんですから。
神か偉人のように突き抜けてしまえば、もう悩む必要もないでしょう。
そして、子どもはそんな親の苦悩など知りもせず、価値観が古いだの、束縛するなだの、言いたい放題です。
でも、そんな大風を吹いている子どもだって、いざ自分が逆の立場になれば、汲々とせざるを得ないわけで、多くの人は、こうした双体験を繰り返しながら、世界の発展に少しばかり貢献しているのです。人を援助したり、役立つ商品を開発したり、サービスを向上したり、等々。
世の中には立派な子育て論やサクセスストーリーが溢れかえって、我が子も、我が人生も、なんと冴えないのかと溜め息をつくこともあるかもしれません。
しかし、バスに乗る時、蛇口をひねる時、料亭で美味しい料理を口にする時、それを現実にしているのは誰かと言えば、皆さん一人一人です。
我が子は問題の塊で、親の自分も残念な部類に入るとしても、親子ともども、この社会において『普通に暮らしている』というだけで、実は凄く価値あることなのではないでしょうか。