「本好きな子供に育てたい」とか、「クラシック音楽を聴く子に育てたい」とか、高尚かつ上品なイメージで子供に求める親も少なくないと思います。
しかしながら、「さあ、読め。さあ、聴け。これが教養だ。頭がよくなる」とゴリゴリに押しつけたところで、真に素養のある子供には育ちません。なぜって、本当の意味で、子供の想像力や創造力が入り込む余地がなくなるからです。
私の場合、盆も正月もない、多忙な自営業の家に生まれ育ちましたので、当然、遊び相手といえば、本がレコードがメインでした。
学校から帰っても、親は仕事仕事で、べったり構う暇もないし、勉強だって教えてもらったことは一度もありません。それはネグレクトではなく、親は仕事で疲れ切っていたし、良い意味の放任主義で、子供のことを絶対的に信頼していたからなんですね。うちの子は、阿呆なことはせえへん、と。
忙しくて、子供に構ってる暇などないから、本とレコードだけは際限なく与えてくれました。「TVの見過ぎはあかんけど、本やレコードならかまへん」と。家が自営業で、BGMを流すことが多かったので、ラジオやレコードプレイヤーが身近にあったこと、父親がなかなかの風流人で、当時としてはかなり高価なステレオセットがあった影響も大きいと思います。
そんな訳で、音楽に関しては、いろんなものが家の中にありました。
童謡、童話の読み聞かせはもちろん、演歌、アニメの主題歌、ちあきなおみや郷ひろみ、FMラジオから流れるクイーンやローリング・ストーンズまで、当時としてはかなり音楽漬けの環境にあったと思います。
そんな中、幼稚園の年長になった姉貴がピアノを習い始めたこともあり、親は早速、ショパンの名曲集を購入。これがクラシック音楽との最初の出会いです。その後、交響曲や室内楽がセットになったクラシック大全(10枚組)なども我が家にやてきて、それが共働き家庭の子供の最大のオモチャだったのです。
友だちと遊ばない日は、まずレコードをかけるところから始まり、ベートーヴェンやヨハン・シュトラウスなどが流れる中で、ままごとをしたり、絵本を読んだり。
時には、ショパンのエチュードに合わせて、くるくるバレエの物真似をすることもあれば、シンフォニーに合わせて、宝塚歌劇の「マリー・アントワネットはフランスの女王なので・す・か・ら」の名場面を演じたり。本当に面白かった、という記憶しかありません。
その間、親は何をしていたか。――仕事です。ひっきりなしにお客さんが訪れて、本当に忙しかった。
たまに子供の部屋を覗いて、「お利口さんに遊んでるな、よしよし」。それで終わりです。
「ベートーヴェンは古典派のなんちゃらでね」「この曲の聞き所は、こうこうでね」なんてレクチャーは一切なし。
ただ、子供がぐずることなく、怪我することなく、商売の邪魔をすることなく、一日を終えたら、それで満足してたんですね。
そんな風に、誰も何も教えてくれないから、漢字や専門用語がいっぱいのライナーノーツも必死に読むし、「ロマン派って何? ノルウェーって、どこにあるの?」、いろんな疑問をもって、できるだけ自分で調べもする。当時はGoogleなんてないから、当然、本で調べないといけない。すると必然的に図書室や本屋に行くことになる。そこで、いろんな本を手に取り、そこからまた縦横に知識と興味が広がっていく。その結果として、小学生のうちに、ほとんどすべてのクラシックの名曲を知っている、という子供が出来上がるわけ。『頭のいい子に育つ名曲アルバム』とかゴリゴリ聴かせたところで、本人の心に響かないことには、またそこから物語が始まらないことには、どうにもならない。子供というのは、曲の価値や権威よりも、旋律の面白さと、それにインスパイアされた自身の想像力の中に感動や愛情を覚えるわけですから、子供が独自の世界観を構築する前に、親がセオリーを教えて、イメージを固定してしまうと、それ以上広がらないんですよ。
ショパンの『子犬のワルツ』も、お姫さまのバレリーナを想像する子もあれば、ただただ、そのテクニックに聞き惚れる子もあるでしょう。
そこで大人が「これは子犬のワルツというの。子犬がわんわん、駆け回っているみたいね」と言ってしまうと、もうそれ以上、想像は働きません。
子供が「いや、子犬じゃなくて、バレリーナよ」と言った時、「ああ、そういう風にも聞こえるね」と一緒に楽しめる親ならいいですが、ワルツとは、ショパンとは、理屈に走れば、子供の頭の中には犬しか思い浮かばなくなるし、音楽で想像する楽しみも奪われてしまいます。
幼少時からアカデミックな教育を施すならともかく、教養として親しむなら、「感動と遊びが先、理屈は後から付いてくる」、これが基本かと思います。
たとえば、うちの姉妹間では、ショスタコーヴィチの交響曲第五番の第四楽章を聴いて、戦争ごっこをするのが一時期ブームでした。
粗品でもらったドーナツ盤に収録されていあのですが、第四楽章が始まると、「戦争や、戦争が始まった~!」って、押し入れに隠れて、音楽が鳴り止むまで押し入れに籠もるのが面白かったんです。たまに相手を探し出して襲撃したり、ね。
当然、その頃は交響曲第五番も、ショスタコーヴィチという作曲家の存在さえ知りません。ただただ、デンドンデンドンデンドンというイントロが面白かったのです。
その後、大きくなってから、音楽雑誌などで、ショスタコーヴィチや作曲の背景を知り、ああ、やはり激動と粛正の時代を反映した作品だったのだと理解する。それが知識を得る悦びであると同時に、自分たちの想像の世界が決して的外れなものではなかった……という点で、いっそう愛情と自信を深めていくわけです。
そうした体験をする前に、「これは、こういう曲で、こんな風に鑑賞するのが正しい」と理屈を与えてしまうと、そういう風にしか聴かないから、やはりそれ以上の物語には広がらないだろうと思うのです。
今は子供の側にべったりくっついて、あれやこれやと指導する親が偉い、みたいな風潮がありますが、親が世話をやけばやくほど失われていく世界があることも自覚せねばなりません。本当に子供の自主性や創造性を育みたければ、子供にも絶対的孤独の時間は必要だと思っています。子供を一人にできないのは、周りに冷たい親と思われたくないから、とか、自分の思うとおりに支配したいから、とか、子供と物理的精神的に距離を置いたら嫌われるような気がするから、とか、親自身に自信が無いからでしょう。しかし、そうして、手取り足取り物事を教えこんでも、必ずしも設計通りに育つわけではないし、親の想像を超えることをするから創造力というのであって、親の思い描いた通りというのは単なる型通りであって、自主性でも創造性でもないと思いますよ。
子供にしてみたら、こう言いたいのではないですか。
子供の創造力を育みたければ、お父さん、お母さん、邪魔しないで下さい、と。
タフネスも、クリエイティブも、良き孤独の賜なのですから。