『かもめのジョナサン』の概要と五木寛之の解説
かもめのジョナサン(1970年) Jonathan Livingston Seagull
原作 : リチャード・パック
翻訳 : 五木寛之
あらすじ
かもめのジョナサンは、「飛ぶ歓び」「生きる歓び」を追い求めるが、周囲と価値観が合わなくなり、群れから追放される。
やがて、ジョナサンは究極の飛行を会得し、仲間に伝え始めるが、彼の弟子達は、ただ早く飛ぶことだけを追い求め、空疎なものになっていく。
最後にジョナサンが到達した境地とは。
作品の見どころ
今でいう、スピリチュアル本の先駆けのような作品である。
いわば、自己意識の高いジョナサンが、平凡な生き方に見切りをつけ、群れから去っていく。
厳しい修行の末に、誰よりも速く飛ぶスキルを身に付けたジョナサンは、新しい生き方に開眼し、弟子たちに教え諭すが、弟子らは「速く飛ぶ」という華やかさにだけ目を奪われ、本質を見失っていく。
訳者の五木寛之は、「あとがき」で、次のように述べている。
私は最初、この短い物語を読みすすんで行くうちに、何となく一種の違和感のようなものをおぼえて首をかしげたものだ。この本はアメリカの西海岸のヒッピーたちがひそかに回し読みしていて、それが何年かのうちに少しずつ広がってゆき、やがて一般に読まれるようになった、と何かの雑誌で読んでいた。カモメの写真がたくさんはさまった薄っぺらな本で、大した宣伝もしなかったのに何年かたって爆発的に読まれるようになった。
≪中略≫
この物語の主人公であるジョナサンというカモメクンは、実際、相当の頑張り屋さんなのである。しかも頭もよく、向上心もつよい。おまけに「愛」することの意味までもちゃんと知っている大したカモメなのだ。
そのジョナサンが、他の仲間のカモメたちを見る目に、どこか私はひっかかったのだった。
ジョナサンにとっては、食うことよりも飛ぶことの方が大切なのである。それだけではない。飛ぶだけでなく、飛ぶことの意味を知り、さらにそれを超えることすら彼の求めるところとなるのである。そして、さまざまな苦しい困難な自己と外界との戦いの末に、枯れ葉完全な自由を吾がものとした光り輝くカモメとなって暗黒の大空へ飛び去って行く。
そんな大したカモメに、ただただ関心して、ひとつおれも食うことにあくせくするのは今日限りでよして、生きることの本当の意味を探る旅へ出発しよう、などと素直に反応するほど現代の私たちは単純ではない。
現代でも、「好きなことをして生きよう」「イヤなことはやらなくていい」「社畜になるな」等々、迷える若者にとっては、綺羅星のような文言が巷にあふれかえっている。
若者は、自分もワン・ノブ・ゼム(その他大勢の中の一人)とは思いたくない。
自分にだけ特別に与えられた役割や栄誉があると思いたい。
すると、周りと同じように単調な仕事をしている自分がたちまち無価値に思えて、「こんなこと、やってられっか」と、せっかくの安定した職さえ投げ出してしまう。
そういう意味で、『かもめのジョナサン』は劇薬にもなるし、何だか周りと一緒に平々凡々と生きている自分がダメに思えてくる、麻薬のような作品と言えるだろう。
五木氏は、こうも述べている。
井上謙治氏の書かれた文章によると、特異な作家として私たちの間にも宗徒の多いレイ・ブラッドベリーは、この作品のことを「読むものがそれぞれに神秘的原理を読み取ることのできる偉大なロールシャッハテスト」だと語っているそうだが、まあ、それこそ評価の仕方にもいろりおあるな、という感じで、私自身はもっと冥界単純に物語に即して、面白がったり笑ったりといった読み方を楽しんだほうである。
≪中略≫
それにしても私たち人間はなぜこのような≪群れ≫を低く見る物語を愛するのだろうか。私にはそれが一つの重苦しい謎として自分の心をしめつけてくるのを感ぜずにはいられない。食べることは決して軽侮すべきことではない。そのために働くこともである。それよりは高いものへの思想を養う土台なのだし、本当の愛の出発点も異性間のそれを排除しては考えられないと私は思う。
雇用も不安定になり、「食べる」ことすらおぼつかなくなった令和の時代においては、ジョナサンのイキった哲学より、五木氏に共感する人の方が多いだろう。
そう考えると、ジョナサンが速く飛ぶことを追求できた時代は幸福だったし、飛行法を極めたジョナサンといえども、結局は、社会の大部分の構成員である≪群れ≫に依存して生きていた、と言えなくもない。
【コラム】 群れを愛そう
ジョナサンへの違和感
『かもめのジョナサン』といえば、一人、平凡な群れから離れ、『極限速度』を追い求める、元祖・意識高い系。
「一族の尊厳と伝統を汚した」という理由でカモメ社会から絶縁され、流刑の場所『遙かなる崖』に追放された、孤高の人(鳥)。
前から読みたい――いや、読まねばと思いつつ、なかなか食指が動かなかったのは、某宗教団体の幹部の愛読書と知ったからだ。
『極限速度』を追い求めた果てが、地下鉄サリン事件か……と思うと、なんともやりきれず、ずいぶん長い間、ウィッシュリストから除外してきたのだが、最近になって、「そういえば、ジョナサンはどうなったのか」と初めて紐解いてみれば、なんとも違和感の嵐。
10代から20代に読めば、「ジョナサン、すごい」と感銘を受けたかもしれないが、それなりに年を取り、すっかり地域の一員に収まると、ジョナサンには違和感しか覚えなくなった。
そう感じるのは、私が老いたからかと思っていたが、訳者の五木寛之氏も『あとがき』で同じことを書いておられる。「私は最初、この短い物語を読みすすんで行くうちに、何となく一種の違和感のようなものをおぼえて首をかしげたものだ。そんな大したカモメに、ただただ感心して、ひとつおれも食うことにあくせくするのは今日限りでよして、生きることの本当の意味を探る旅へ出発しよう、などと素直に反応するほど現代の私たちは単純ではない」と。
五木氏の『あとがき』は、1974年の刊行時には批判もされたようだが、確かに、読後の高揚感に水を差すような文言は、ジョナサンに続こうとする者にとって、年寄りの冷や水でしかないだろう。
しかし、平凡な群れに埋もれることなく、高みを目指すことが、そんなに非難されるべきことなのか。
真理を会得したのは、群れの長ではなく、ジョナサンではないか。
若者の反論にも一理ある。
だが、私が引っ掛かるのはこの部分だ。
おれのこの<限界突破>のことを聞いたら、きっと大騒ぎして歓ぶぞ。
いまやどれほど豊かな意義が生活にあたえられることか!
漁船と岸との間をよたよた行きつもどりつする代りに、生きる目的がうまれたのだ!
おれはただ、自分の発見したことを皆とわかちあい、われわれ全員の前途にひらけているあの無限の地平を皆に見せてやりたいだけなのだ。
気持ちは分かるが、「余計なお世話」とカモメの群れは口を揃えて言うだろう。
俺は最高のものを体得した! 皆もそれを知れば、同じように幸福を感じるに違いない!
なぜ、ジョナサンの価値観に、皆が一様に頷かなければならないのか。
漁船と岸との間を、よたよた行きつもどりつする人生にも、歓びや役割はあるだろうに。
だが、ジョナサンは、次のように断じる。
ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらに岸までもどってくるか、それさえ判れば十分なのだ。
すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった
こうしたジョナサンの傲慢さが、長老やカモメの皆さんには「鼻持ちならない奴」と映ったのだろう。
そもそも、漁船と岸の間を行き来して、餌を採る人生を、一方的に断じる方がおかしい。
ジョナサンの目には平凡に見えても、カモメの皆さんには、自分の存在が群れの役に立ち、周りの誰かを幸せにしているという自負もある。
人生の目的は、速く飛ぶことが全てではなく、群れで仲良く暮らしたり、雛を養うことも重要だからだ。
カモメの皆さんは、(恐らく)善良で、常識的で、勤勉な方々だ。自分の存在が社会の役に立ち、周りの誰かを幸せにしているという自負もある。
そもそも、なぜジョナサンが『最高』で、群れが『平凡』なのか。
ジョナサンが教える立場で、群れはジョナサンに学ばなければならないのか。
その違和感を、五木氏は次のように言及している。
食べることと、セックスが、これほど注意ぶかく排除され、偉大なるものへのあこがれが上から下へと引き継がれる形で物語られるのは、一体どういうことだろう。総じてジョナサンの自己感性が、群れのカモメ=民衆とはほとんど切れた場所で、先達から導かれ、さらに彼が下へそれを伝えるという形式で達成されるのも、私には理解しがたいところなのだ。
厳しい見方をすれば、ジョナサンは、自分だけの世界で『極限速度』を追い求め、一人で悦に入ってるに過ぎない。
ジョナサンにとっての『最高』が、必ずしも万人に共通とは限らず、世の中には、仲間とのんびり飛ぶのが好きなカモメもいれば、海辺でぼーっと夕陽を眺めるのが好きなカモメもいる。
そのようなカモメを捕まえて、「オレが最高の生き方を教えてやるぜ!」と息巻いても、鬱陶しいだけだろう。
食べることは決して軽侮すべきことではない。そのために働くこともである。それはより高いものへの詩想を養う土台なのだし、本当の愛の出発点も異性間のそれを排除しては考えられないと私は思う。
カモメの皆さんも、五木氏も、決してジョナサンの生き方を否定しているわけではなく、一方を排除して、己の生き方こそ正しいと信じて疑わない態度に危機感を抱いているのだ。
周りがどれほど心配しても、「平凡なカモメに、オレの高尚な生き方が分かってたまるか」と突っ撥ね、ますます自分の思想に凝り固まれば、そこに誕生するのは、神のようなカモメではなく、神と勘違いした痛いカモメである。
世間の笑いものになるだけならいいが、それが高じれば、利己的な暴君を生み出さないとも限らず、実際、これを愛読書とする者によって、凶悪な事件も起きた。
そう考えれば、カモメの皆さんや五木氏の感じる違和感にも納得がいくのではないだろうか。
群れと共に生きる ~極限速度とは魂の高み
『群れ』といえば、「皆、同じ格好をして、同じように行動し、毎日同じことを繰り返して生きている、退屈な集団」と定義されがちだが、コミュニティとしての『群れ』と、同調圧力の群れ(集団)では大きく異なるし、群れを成して生きるのが間違いというわけでもない。
カモメの皆さんも、コミュニティの一員として、自負もあれば生き甲斐もあり、コミュニティで生き抜くための知恵も、ジョナサンの『極限速度』と同じくらい価値があるはず。
どちらが上で、どちらが下とか言い出したら、この世には上下関係しかなくなってしまうし、自分勝手な尺度で高みを目指しても、万人の胸に響かない。
その結果としての「孤独」なら、それは孤高ではなく、孤立ではないだろうか。
だからジョナサンも首をかしげる。
「一羽の鳥にむかって、自己は自由で、練習にほんのわずかの時間を費やしさえすれば自分の力でそれを実感できるんだということを納得させることが、この世で一番むずかしいなんて、こんなことがどうしてそんなに困難なのだろうか?」
それはジョナサン一人が空回りしてるからだよ、と私は思う。
いかなる『高み』も、群れを離れては説得力がないのだと。
しかし、ここに一つ救いがある。
ジョナサンと、弟子フレッシャーの会話だ。
「ジョナサン、あなたはずいぶん前にご自分で言われたことを憶えていらっしゃいますか? あなたは群れに戻って彼らの学習の手助けをすることこそ、群れを愛することなのだ、とおっしゃった」
「勿論おぼえているとも」
「もう少しで自分を殺しかねないほど暴徒化した鳥たちを、どうして愛せるのか、ぼくには分かりませんね」
「フレッチャー、きみはああいうことが嫌いなんだろう! それは当然だ、憎しみや悪意を愛せないのはな。きみはみずからをきたえ、そしてカモメ本来の姿、つまりそれぞれの中にある良いものを発見するようにつとめなくちゃならん。彼らが自分自身を見出す手助けをするのだ。わたしのいう愛とはそういうことなんだ。そこのところをのみこみさえすれば、それはそれで楽しいことなのだよ。」
ジョナサンも、「お前ら、下民」と完全に見下すのではなく、自分なりに群れと生きる道を模索している。
「それぞれの中にある良いものを発見」し、「自分自身を見出す手助けをする」と。
これこそ真の導師であり、魂の高みである。
そして、それこそが、ジョナサンの目指す『極限速度』なら、周りも納得する。
ちなみに、神祖のように祭り上げられたジョナサンは、過熱する弟子たちに次のように言っている。
「彼らにわたしのことで莫迦げた噂をひろめたり、わたしを神様にまつりあげたりしないでくれよ。
いいかい、フレッチ?
わたしはカモメなんだ。
わたしはただ飛ぶのが好きなんだ、たぶん……」
ジョナサンの『極限速度』を誤読した幹部らが凶悪な事件を引き起こしたのも、皮肉な話である。
復活した第四章 ~ジョナサンと弟子が到達した境地
『かもめのジョナサン』は、実は四部構成で、長い間、最後の第四章は、世間の目に触れることはなかった。
作者いわく、
わたしは『かもめのジョナサン』の物語にこの結末が必要だとは信じられず、どこかへ置きっぱなしにした。
わたしたちが選び取った自由なき生き方が、やがて規則と儀式によって少しずつ殺されていく物語を、わたしは拒否したのだ。
初版から半世紀後、第四章は完全版として復活した。
「これはわたしが書いたのではない。あいつが書いたのだ、あの時のあいつが」という作者の声によって。
第四章では、教えに続く者たちが、ジョナサンと直系の弟子を神格化し、儀式をしたり、石塚を作ったり、念仏のようなものを唱えたりする。
わけても、若いカモメのアンソニーは、次のような極端な思考に陥ってしまう。
たとえ百万個の小石を積んでも、ぼくが神聖になることはありません、ぼく自身がそれに値しないのならばね』と現行のやり方に背を向け、ついには『生きることは無益であり、無益ということはすなわち無意味であるとするなら、唯一まともな行動は、海に向かって急降下し、溺れ死ぬことではないだろうか。
そして、どうなったか。
自分の説を証明し、生きることに意義を見出す答、日常を優れた歓びのあるものにする答をわずかであっても確かに示してくれる(伝説の)カモメ。
そのカモメを見つけるまでは、自分の生活は灰色で荒れはて、雑然とし、日常もないままであるにちがいない。
あらゆるカモメは、血と羽の偶然の結合にすぎず、意味もなく忘れ去られていくのだ。≪中略≫
すべて理にかなっていた。まっとうな理屈だ。
アンソニーは生まれてこのかた、正直を貫き、論理に従おうとしてきた。
遅かれ速かれどうせ自分も死ぬのだ。
苦しく退屈な生活をこれ以上、引き延ばす理由があるだろうか。突然、彼は600メートルの高さから一直線に海へ降下していった。時速80キロ近くで落ちていく。不思議に爽快だった。
いま、自分は正しい決断をくだしたのだ。
完全に理にかなった唯一の道を見つけたのだから。
一見、自殺願望のように見えるが、そうではなく、極限まで自分を追い込むことで、聖なるジョナサンに出会い、真理を覚る……というようなオチである。
その真理も非常にシンプルで、「ただ飛ぶのを楽しんでいただけ」。
21世紀においては、すでに言い尽くされたような感があるが、1970年代は斬新だったのだろう。
米国も、高度成長を目指して、追いつけ、追い越せの、競争社会だった。
群れから突き抜けて、神の領域に到達するジョナサンが憧れだった。
だが、第四章は、それらを覆す。
アンソニーという、ジョナサンの教えを正しく理解し、実践する者の存在によって、ジョナサンもまた救われる。
21世紀になって、第四章が復活したのも、意義あることだ。
第四章を含む完全版の刊行について、作者のリチャード・バック氏は、「あんたのいる21世紀は権威と儀式に取り囲まれてさ、革紐で自由を扼殺しようとしている。あんたの世界は安全にはなるかもしれないけど、自由には決してならない。わかるかい?」と記しているが、果たして、氏の警鐘は虚栄心に憑かれた現代の若者に響くのか。
群れを見下し、他より秀でたい、なんちゃってジョナサンは、なおも増殖する一方である。
1974年の時点で、本作をの印象を『不可解』と評した氏の慧眼は的を射ていた。
この後、バブル期の目立ちたがり、90年代の癒やしの時代、2000年代の自己啓発ブームと、五木氏が感じ取った『不可解』は目に見える形で現れ、現在では、SNSなどを通した承認欲求に結晶している。
果たして、この『不可解』に解毒剤はあるのだろうか。
初稿 2017年10月2日