伝わるところによると皇帝はきみに――一介の市民、哀れな臣民、皇帝の光輝のなかではすべもなく逃れていくシミのような影、そんなきみのところに死の床から一人の使者をつかわした。
使者をベッドのそばにひざまずかせ、その耳に伝言をささやいた。
それでも気がかりだったのだろう。
あらためてわが耳に復唱させ、聞き取ったのちコックリとうなずいた。
そして居並ぶ綿々の前で、使者を出立させた。
使者は走り出た。頑健きわまる、疲れを知らぬ男である。
たくましい胸を打ち振り、大いなる群れのなかに道をひらいていく。
≪中略≫
きみはまもなく、きみの戸口をたたく高貴な音を聞くはずである。
だが、そうはならない。
使者はなんと空しくもがいていることだろう。
王宮内部の部屋でさえ、まだ抜けられない。
決して抜け出ることはないだろう。
もしかりに抜け出たとしても、それが何になるか。
果てしのない階段を走り下らなくてはならない。
たとえ下りおおせたとしても、それが何になるか。
幾多の中庭を横切らなくてはならない。
≪中略≫
このようにして何千年かが過ぎていく。
かりに彼が最後の城門から走り出したとしても――そんなことは決して、決してないであろうが――前方には大いなる帝都がひろがっている。
世界の中心にして大いなる塵芥の都である。
これを抜け出ることは決してない。
しかもとっくに死者となった者の使いなのだ。
しかし、きみは窓辺にすわり、夕べがくると、死者の到来を夢見ている。
皇帝の使者 ~カフカ寓話集 (岩波文庫)より
一見、絶望的な状況だが、待ち続けるのも悪くはない。
何故なら、皇帝の使者を待つ間、人はどんな風にでも将来を夢見ることが可能だからだ。
多分、皇帝の使者は誰もが羨むような特命を帯びて、あなたの元に馳せ参じようとしているのだろう。
それは莫大な遺産かもしれないし、次の帝位かもしれない。
市井の人には、身に余る光栄である。
しかし、皇帝の使者が訪れ、世界が羨むような何かを持ってきてくれたとしても、それが本当にあなたを幸せにするとは限らないし、あなたが心底欲するものとも限らない。
何故なら、次に訪れるのは、この世の現実だからである。
皇帝の使者が永遠にやって来ないのも悪くはないし、来ないからといって悲観することもない。
もはや人生に夢見ることも、期待して何かを待つことも、なくなってしまう方が悲劇だからだ。
皇帝の使者は、実際にやって来るより、待っている間の方がうんと楽しい。
幸福とは、自分は幸福になると信じられる気持ちを言う。
書籍の紹介
迷路のような巣穴を掘りつづけ,なお不安に苛まれる大モグラ.学会へやってきて,自分の来し方を報告する猿….死の直前の作「歌姫ヨゼフィーネ」まで,カフカ(1883-1924)は憑かれたように奇妙な動物たちの話を書きつづけた.多かれ少なかれ,作者にとっての分身の役割を担っていたにちがいない,哀しく愛しいかれら.