カフカの手紙より ~逃げ道は自殺を考えること
フランツ・カフカは、友人のマックス・ブロートに宛てて、こんな手紙を書いている。
すでに子供のころから見えていた、いちばん近い逃げ道は、自殺ではなく、自殺を考えることだった。
僕の場合、僕を自殺から遠ざけたものは、なにもわざわざ臆病さをでっちあげるほどのこともなくて、おなじく無意味な結果に終わる次のような熟慮反省のなせるわざにすぎない。
つまり「何もできないお前が、よりによってそんなことをしようというのか? どうしてそれだけのことを考える勇気があるのか? 自分を殺せるのなら、いわばそんな必要もありはしない」、等々。
やがてぼつぼつまたちがった見方も加わってきて、自殺のことを考えるのはやめてしまった。
そのとき僕が直面していたものは、もし僕が混乱した希望や、孤独な幸福状態や、誇張した虚栄心や抜け出た場所で明晰に考えていたのだとすれば、(まさしくこの「抜け出る」というのが<生き続け>ようとすればなかなか耐えられないように、僕にはめったにうまくいかなかったのだが)それは惨めな生、惨めな死、ということだった。
「あたかも恥ずかしさが、彼よりも生き延びるはずのようだった」というのが、たとえば『審判』の結びの言葉だ。
1917年11月中旬
『死』というファンタジー
空想が心を癒やす
フランツ・カフカは1883年7月3日生まれなので、34歳の記述である。
昨今、子供が自殺を口にすると、「頑張って、生きろ」「命を粗末にするな」という話になるのだが、(病的な希死念慮や自殺願望は別として)、子供が『脱出』の一手段として自殺を考えるのはごく自然なことだと思う。
何故なら、子供は大人のように生活を立てる術を持たず、家を借りることも、日銭を稼ぐこともできないからだ。
親の支配下に置かれた籠の鳥であり、唯一、出て行ける場所といえば、学校ぐらい。
だが、その学校も、必ずしも子供に優しいわけではなく、教師にも級友にも幻滅することは多い。
そんな中、「未来に希望を持て」と言われても、持てる方が少数で、利口な子供ほど自分にも親にも嘘はつけないものだ。
そんな風に、早々と世間と人生に失望した子供にとって、救いといえば、死=己の滅失ぐらい。
それは決して悲劇ではなく、きわめて理知的な子供にだけ許された、知的遊戯だったりする。
何故なら、そうした子供にとって、自殺はファンタジーだからだ。
自分がいなくなった世界を想像したり、自分という存在を疑ってみたり。
哲学的思考は尽きることなく、「終末」や「奇譚」に強く惹きつけられたりする。
子供にとって自殺がファンタジーになるのは、現実的な死から、もっとも遠い所にいるからだ。
今すぐ死ぬこともなければ、だんだん体調が悪化することもなく、本物の死の恐怖からは程遠い。
死そのものがファンタジーみたいなものだから、いつしかそれが苦悩や孤独から救ってくれる魔法みたいに思え、「死の瞬間」や「自分が死んだ後の世界」を夢に描くのだ。
そうした感情を一度でも経験したことがあるなら、自殺を口にする子供の話にも、「ああ、そんな時もあるねぇ」と頷くことができるのだが、理想や繊細さとは全く無縁な大人にとっては、子供が死や自殺について語るなど、とんでもない事だったりする。
子供が「死にたい」と言えば、叱り、驚き、子供を死のファンタジーから引き剥がそうとする。
だが、それは逆効果で、ファンタジーまで閉ざしてしまえば、子供はますます頑なになり、行き場をなくしてしまうだろう。
時に、死を空想することは、心を癒やすことでもあると理解しなければ。
最後には本物の死がやって来る
ところで、カフカは自殺について思い巡らせながらも、結局、自殺することなく、40歳で夭折した。
自分からわざわざ死んでみせなくても、結核という病が、彼の人生に終止符を打ってくれた。
それを悲劇と見るか、救いと受け止めるかは、カフカ本人にしか分からない。
ただ一つ、確かなのは、死を思うほどの繊細さがなければ、私たちは『変身』のような傑作を読むことも、ひたすら暗い日記に嘆息することもなかった、ということだ。
死を夢見るぐらい、いいではないか。
心の中で、何度でも死ぬことで、救われる部分もあるだろう。
どうせ最後には本物の『死』がやって来るのだから、焦って死ぬことはない。
それまで、せいぜい、魂の放浪を気取ろう。
死は最後に訪れる救済だから、僕たちはどんな風にでも夢見ることができるのだ。
書籍の紹介
目眩がするような随想(つぶやき)がいっぱい。
これほど繊細な人間には、この世に居場所はないことをつくづく思い知らされる。
カフカが現代に生きていたら、ひたすら売れないブログを書き続けていただろう。
『死』は最後に訪れる救済だから、僕たちはどんな風にでも夢見ることができるというのは私の一文です。