社会正義とは相対的なもの ペルー日本大使館占拠事件
3月10日の産経新聞で、近くペルー検察が、日本大使公邸事件で射殺されたゲリラの遺体を掘り起こし、『処刑』されたかどうかを検視する予定であるという旨が報じられていた。
ペルーの地元メディアが伝えるところによると、人質が解放された時点で三人のゲリラが捕らえられ、公邸の庭で縛られているのを人質の一人が目撃、他にも、「命乞いするゲリラの前頭部を国軍兵士が銃で撃ち抜いた」などの証言が寄せられているそうだ。
検察の目的は、救出作戦に関与した当局者はもちろん、作戦の最高指揮者だったフジモリ前大統領の責任追及にある。時流が変われば、罪人も変わるという事か。
人質事件の直後、フジモリ大統領は英雄だった。
今は、射殺されたゲリラが殉国の志士になろうとしている。
もっとも、こうした価値観の変移は今に始まったことではない。
過去、英雄視された政治家が一夜で地に落ちたり、当時見向きもされなかった画家が死後破格の価値を得たりと、世間の評価や価値観は絶えず右に左に揺れ動く。
時流などまこといい加減なもので、それを絶対的なものと思い込むと、自分自身を失うばかりか、謂われのない悲劇を生み出しかねない。
「自分の目で見る」──この当たり前のことが、どれほど難しいことか。自分の信念を貫くとなれば、なおさらに。
私は、テロや国家や国際問題について、そこまで正しく考察できるほど知識も経験も無いので、あの日本大使公邸事件の是非について云々はできないけれど、毎日ニュースを見ながら、ずっと思っていたことがある。
それは、ゲリラ組織のリーダーだったセルパが、すごく澄んだ綺麗な目をしていたということだ。
いつも顔から半分をスカーフ様のもので覆っていたので、全体の表情は分からなかったが、それでも、どうしてこんな綺麗な目をした人が、こんな凶悪な事件を起こすのか、ずっと不思議に思っていた。とにかく目が印象的なテロリストだった。
別に日本人好みの判官贔屓で後押しする訳ではないけれど、私は基本的に目の綺麗な人が好きで、目にその人の全て──感情、知能、人格、気構えetc──が現れると思っているから、どうしてもセルパが殺戮大好きの、極左的な人間には見えなかったんだな。
NO.2や下っ端は、怒りや憎しみでギラギラしていたけれど。
武力で解決する前に、私はどうしてもセルパの肉声──命を懸けてまで、何を訴えようとしていたのか──という事が知りたかった。日本とペルー、そして支配者層と最下層の間に、どんな問題が根付いているのか、その真実の姿を。
が、残念ながら、「テロ=絶対悪」という構図を離れて、問題の核心を分析しようという動きはなかったし、事件が終わった後も、事件の根底に横たわる深刻な社会問題について言及した識者もごく少数だった。
正直、救出作戦が成功し、ゲリラ全員が射殺されたと報じられた日は、あの仲介役の神父さん同様、私も目に涙が浮かんだし、セルパが国外に亡命している息子に宛てた手紙が新聞に掲載された際は、その部分だけ切り抜いて残した。
「あなた、日本とペルーの支配者層に、何を訴えたかったの?」
その問いかけは、今も残る。
時流が変わり、フジモリ前大統領が犯罪者として国を追われ、政治的人権的目的からゲリラの死の経緯が明らかにされようとしている今、もしかしたら、その問いかけに答えてくれるものが現れるかもしれない。
私の物の見方や、セルパの眼に感じたものの是非が明らかになる日もくるだろう。
ともかく、真実が知りたい。
その一言に尽きる。
この世には「正義」という言葉がある。だが、そこに「絶対的」という定義が付加した瞬間から、「正義」は本来の意味を失い、利己的な主義主張に変移するように思う。
タロットでも神話でも、「正義の神」は天秤を携えているものだ。
それはつまり、双方の主張や価値観を平等に測ることを意味する。
相反する二つの主義主張が現れた時、人は天秤にかけて公正に見つめなければならない。
それを無視したり、意図もって片側に傾けたり、あるいは他人の天秤に任せきりになってしまうと、私たちはたちまち利己的な主義主張に振り回される傀儡になってしまうだろう。
この世には数え切れないほどの正義があって、誰もが自分の信じる正義のもとに生きている。
それが時には凶器ともなることを自覚しながら、私たちは何が正しく、何が真実かを見極める目を今後いっそう養っていかねばならない。
初稿:2001/03/16 メールマガジン『eclipse』より
映画『ベル・カント』について
この事件は、渡辺謙&ジュリアン・ムーア主演の『ベル・カント ~とらわれのアリア』で映画化されています。
事件を忠実に描いたドキュメンタリー映画ではなく、あくまでモチーフとした人間ドラマです。
ハヤカワ文庫からリリースされた原作本はこちら。
amazonのレビューに詳細に書いて下さっている方があるので、一部、引用します。
ここまで時期を合わせているのだから、他の類似性をも探りたくなる。実事件との比較には、当時ペルー大使館員で人質に取られた小倉英敬氏の著書『封殺された対話 ペルー日本大使公邸占拠事件再考』(平凡社2000.5)が参考になる。
事件の発生した日;12月17日(小説は10月22日、以下同じ)、場所;リマにある日本大使館公邸(南米小国の副大統領公邸)、左翼ゲリラの数;14名うち女性2人(指揮官3名を含む18人うち女性2人)、人質;当初は現地職員も含めて621人、一部解放後は74人(来客191人と従業員等30余人、一部解放後は40人うち女性1人)、襲撃時の死者;2人(0人)、占拠期間127日(4ヶ月半)、救出手段;地下トンネルを掘る(地下トンネル)、ゲリラの末路;全員射殺うち何名かは投降現場で銃殺(全員射殺うち3名は投降現場で銃殺)。重大な違いは、発生場所が日本大使館公邸だったのに対し、小説は副大統領公邸であること。大使館は「治外法権地」であり、現地政府が勝手に立ち入ってはならないとされている。ペルー・フジモリ政府の取った治安部隊の突入は国際法上「違法」行為であった。作者はこういう政治的な問題に介入したくなかった、と読める。
物語は、南米の「神に見捨てられた」貧しい小国が主催する、日本の(ソニーを思わせる)世界企業社長ホソカワに投資を促すためのパーティーに、テロリストが乱入するところから始まる。ホソカワはこの国に投資する気は全くないのだが、オペラ好きの彼を呼ぶための人寄せとした、マリア・カラスすら足下にも及ばないと評判のソプラノ歌手ロクサーヌ・コスの歌声を聞きたいばかりに招待を受ける。だがテロリストが拉致しようとしたこの国の大統領は、大好きな連続テレビドラマを生放送で見るためにドタキャンしていた。目算が狂った彼らはパーティーにいた各国の著名人を人質に取り、投獄されている仲間の釈放を要求する。予期せぬ人質になってしまった互いに言葉の通じない各国の招待者たちが、同じく「価値ある」とされて囚われたロスが毎日歌う美しい歌声に癒やされつつ、互いに団結しあい協力しあって行くのだが、それがテロリストにまでも及んでしまうと言うのが眼目だ。実際、赤十字の交渉人ヨアヒム・メスネルがベンハミン司令官にもう「あなたに人質は殺せない」と言わせるまでにテロリストは軟化してしまう。公邸で初めて味わう、ふかふかのソファにも美味い料理にもまして世界的ソプラノ歌手の歌にも無縁だった無知で若いテロリストたちも、ドタキャンの大統領と同じテレビ番組に息を詰め、これが永遠に続けば良いと願うのも無理もない夢の状況が生まれる。膠着状態のなかでロスとホソカワとの恋、テロリスト少女のカルメンとホソカワの通訳ゲン・ワタナベとの恋が生まれ、普段は多忙の「貴賓」たちの自己省察や、テロリストの少年少女との生活では、底辺に生きる若者たちに別の可能性もあるかも知れないとの淡い夢すら生みだす。だがこんなことが長く続くはずがない。
ある日、交渉人の赤十字職員ヨアヒム・メスネルが「今夜中に投降しろ」と暗い顔で司令官を諭す。翌日テロリストたちが銃を置いてサッカーに興じる最中に、同国の対テロ特殊部隊の突撃が始まる。小説は権力側の政治的思惑には全く触ずにいて、「楽園のお楽しみ」はこれでおしまいとばかり、読者を現実に引き戻す。結末の衝撃は大きい。
治安部隊がホソカワへの誤射を始め、なぜ銃を捨てて投降するテロリストまでも無慈悲に射殺してしまったのか、小説は小倉書の、フジモリ大統領の強権主義を非難する論調とは違って、光景だけを詳しく述べるだけで政治的是非には介入しない。最後にアメリカ小説らしくテロリストは絶対悪だという言説に立ち戻って、襲撃を肯定してしまったのか。だがそう思われない証左がある。それはテロリスト18名の名前が全部挙げられていることである。彼らは無名で死んでいったのではない。著者は貧しく生まれ貧しく育ち、人生の楽しみを味わう前に殺されてしまった彼等若者に万感の弔意を手向けていると思われるのである。
映画としての出来映えは、正直、中途半端で、ハリウッドならもっと上手くやれただろうにと感じることしきり。
しかし、現実に起きた人質事件であり、下手に描けば、犯人贔屓の作品になってしまうので、中途半端にならざるを得なかったのだと思う。
後述にもあるように、彼らが筋金入りのテロリストではなく、正義感から決起した「田舎の青年」なのは誰の目にも明らかだからだ。
それでも作品として世に出されたのは有り難いし、人質となった日本人のことも誠実に描いて下さってるので、好感はもてる。
ジュリアン・ムーアと渡辺謙のベッドシーンは余計だが(^_^;
しかし、何年も経ってから、小説化・映画化されるのは、それだけ特殊な事件だった証しでもある。
近年のアラブ系テロ映画と異なり、どこかほのぼのとした作品に仕上がっているのも、そういうことだろう。
興味のある方は、一度、ご覧になって下さい。
それなりに実状が分かります。
あの時、何があったのか
2020年の追想です。
当時、私もTVに釘付けになって、事の成り行きを見守っていた一人です。
占拠されていた時は、連日、紅いスカーフで顔半分を隠し、機関銃を手にしたセルパの姿が映し出されていました。
今ではテロリストといえば、黒づくめにアラビア語、オレンジ色の囚人服を着せられた人質の喉を掻ききるという、極悪非道なイメージですが、20世紀後半のテロ(1980年~1990年)は、もっと政治色が強く、民族、もしくは、一部階級の主義・信条が前面に押し出されて、まさに「イデオロギーの闘い」といった様相であったと記憶しています。
今はもっぱら宗教色が前面に押し出され、「不当に虐げられた貧民の為」というよりは、「自分達と考え方の違う人間は抹殺する」といった風で、テロというよりは、利己主義の仮面を被ったサディスト集団としか言いようがないですが。(暴力が先で、意味が後付けされている。やむにやまれず武器を手に取ったというよりは、若者の怨念を暴力で発散させてる)
また、1996年という時代は、氷河期の真っ只中ではありましたが(1995年の阪神大震災~1997年のオウム事件にかけての過渡期)、2013年の東北大震災の後に比べたら、比較的スムーズに復興も進み(あの頃の京阪神の経済的連携は見事なもの)、「これから、もう一度、頑張ろうやないか」という余力もありました。
打ちのめされはしたけれど、決して、地の底まで転げ落ちたわけではない。
いわば、細木数子的《中殺界》の谷間です。
それだけに、1996年に、日本大使館が標的にされた……という事実は、多くの日本人にとって、寝耳に水でした。
それまでエコノミック・アニマルと揶揄されることはあっても、政治的に憎まれる覚えなど、どこにもなかったからです。(中韓の問題は史実に端を発している)
当時、様々な解説がなされ、その過程で、日本のマネーが他国民に不幸をもたらしたかもしれない背景を漠然と感じ取った人も少なくなかったでしょう。
そして、当時もまた、日本は終始、《被害者》というスタンスで、「どう救出するか」について活発な論議はなされても、「なぜ日本大使館が狙われたのか」について深く考察する動きはほとんど無かったのです。
もちろん、日本が《被害者》であるのは間違いないけれど、テロリストに襲撃されるからには、それ相応の理由があるでしょう。
でも、その理由について、正面から分析し、今後の国際政治や経済政策について、反省の材料とする機運はありませんでした。
人質が無事に救出されたら、フジモリ大統領は英雄だ、橋本総理も日本政府もよくやった……という万歳三唱だけで終わってしまった。
本当ならば、その《理由》の中に、日本が改めるべき点、今後の国際社会を考える上でも、非常に参考となるポイントがあっただろうに、それは綺麗に蓋をして、国民には見せない、考えさせない。
だから、今でも、他国に痛い所を突かれれば、右往左往して、庶民がテロの標的になっても、「哀悼の意を捧げる」だけで終わってしまう。
何も解決しないし、しようとも思わない。
「だって、本当のことをバラされたら、困るじゃないか」
その一点なんですね。
やがて時代も変わり、当時の英雄は、一転、政治犯として国を追われる身となりました。
思えば、ペルー日本大使館占拠事件は、フジモリ大統領にとっても、自らを省みる一大転機だったのかもしれません。
でも、そうはなりませんでした。
薄汚いゴキブリを全力で叩き潰したつもりでも、「天知る、地知る、我知る、人知る」で、自身の悪事まで隠し通せなかった……といったところでしょうか。
何にせよ、人の世に絶対的正義は存在しません。
神なり、真理なりが、裁判官になった時、唯一、私たちは本当の罪の在処を知るのだと思います。(最後は宗教論で申し訳ない)
ペルー公邸事件25年に関する記事より
2022年4月22日。
本大使館占拠事件の終結から25年を迎え、公邸レプリカで軍主催の記念式典が行われた。
公邸占拠事件、解決25年で軍式典 左派大統領に反発で退席者も
事件解決のために、公邸そっくりのレプリカを建造し、入念に訓練を行った事実は有名だ。
事件そのものを知らない人も多いので、以下の情報は貴重。
3月にキューバでカストロ氏と会談し、「セルパに電話してほしい」「電話など世界中に聞かれてしまう」「何らかの形で影響力を行使してほしい」「その影響力というのが困るんだ」というやりとりを経て、「話がまとまればセルパらを受け入れるが、仲介はしない」と断言されてしまった。
その日の夕食会に突如カストロ氏が現れたが、仕事の話は一切しなかった。ワインや野球など話題は多岐にわたり、中国の改革開放に関してもいろいろ聞かれた。午前0時を過ぎたころ、カストロ氏が「これから仕事がある」と機嫌良く帰っていった。その場に同席していたキューバ政府高官は後に、「あの時セルパに手紙を書いたんですよ」と教えてくれた。「仕事」とは説得の手紙を書くことだった。
事件解決後に現場からその手紙が見つかった。そこには「お前たちはもう十分名を上げたじゃないか。これ以上頑張ってもフジモリが譲るとは思えない。キューバに来い」と書かれていた。手紙とMRTAが油断したことに関係があるかどうかはともかく、MRTAがサッカーに興じる中、ペルー軍が突入して人質は救出された。
カストロ氏の判断は的確だった。その説得を聞いてくれていれば、カストロ氏の思いとは違う形で決着することはなかったし、フジモリ氏も私的処刑をとがめられ失脚・投獄されることもなかった。それが残念だ。
カストロ氏が「説得の手紙」 高村元外相インタビュー―ペルー公邸事件25年
『青春と革命は相性がいい 三好徹『チェ・ゲバラ伝』より』にも書いているように、南米の貧しい若者がカストロとチェ・ゲバラのキューバ革命に憧れ、英雄視する気持ちは理解できる。
あちらの貧困は、日本と違ったレベルで壮絶だし、治安問題も抱えている(日本はまだ治安が良い方)
高村氏や佐藤氏の供述にもあるように、TV視聴者にさえ、彼らが「わりと普通の青年」と分かったほどだから、身近に接した高官なら尚更だったろう。
(21世紀の凶悪テロ事件の筋金入りのテロリストとは人間の室が違う)
公邸を占拠した14人のMRTAメンバーは、4人ほどの幹部を除けば「高報酬」で貧しいアンデス山中などから駆り集められた「アルバイト感覚の若者」(佐藤氏)。教育水準は低く、左翼思想も理解していなかった。一方、最後まで残った72人の人質は、政府要人や大企業社長など人生経験や知識が豊富で社会的地位も高い、若いゲリラにしてみれば「雲の上の人」だった。
「人質も軍もプロだったが、唯一プロじゃなかったのはゲリラ側だった」と佐藤氏は述懐する。占拠したゲリラ全員が殺害されたことについては「報いを受けるのは仕方ない」としながらも、「憎いとは思わない」と語った。
ゲリラ「あまりに素人だった」 元人質の佐藤繁徳氏―ペルー公邸占拠事件
しかし、公邸の中庭で、人質も交えてサッカーに興じる最中に襲撃されたのは本当だったのだと、つくづく。
「憎いとは思わない」の一言が全てを物語っている。
Photo : The book ‘Bel Canto’ is a modern classic. The movie ‘Bel Canto’ isn’t — but it’s worth seeing anyway (Washington Post)