荻原朔太郎 『絶望の逃走』より
自殺そのものは恐ろしくない。
自殺について考えるのは、死の刹那の苦痛でなくして
死の結構された瞬間に於ける、取り返しのつかない悔恨である。
今、高層建築の上の窓から、自分はまさに飛び降りようと用意している。
足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮かび、雷光のように閃いた。
世界は明るく前途は希望に輝いている。断じて自分は死にたくない。
白いコンクリート。避けられない決定。
何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。
荻原朔太郎 絶望の逃走 (1950年) (角川文庫〈第50〉)
自殺は美しいものではない
救命救急の現場 ~心停止しても心臓マッサージは続けられる
一度だけ、自殺の現場に居合わせたことがあります。
大晦日の夜、当直室のTVでNHKの紅白歌合戦を観ていたら、夜間受付の男性職員から電話があり、「患者さんが病院の裏口で倒れてる」とのこと。
(夜間診察に来た人が気分不良でうずくまっているのかな)ぐらいの気持ちで裏口に行ってみたら、一目で分かりました。「死んでる」と。
血もほとんど流れてないし、目立った外傷もない。
でも「意識を消失して倒れている人」と「完全に死んでいる人」の違いは一目で分かります。
死んだら、「一つの肉塊」とでもいうのですか。
完全に何かが抜けきって、まさにその場に「転がっている」ような感じです。
そして、顔を見て、誰かすぐに分かりました。
一時間前、家族に付き添われて再入院した中年男性です。
この年末年始、一時帰宅して、自宅でゆっくり過ごす予定だったのが、体調不良を理由に、病院にUターン。そのやり取りの、一時間後のことでした。
そして、ぐにゃりと身体が折れ曲がったような、不自然な倒れ方を目にして、すぐに飛び降り自殺だと分かりました。
気晴らしに病院の周りを散歩していたら、たまたま裏口で気分が悪くなり、そのまま心臓停止……という雰囲気ではありません。
カッっと見開いた目や、何もつけていない素足から、上階の病室から発作的に飛び降りたのがありありと分かる姿でした。
一緒に付いて来てくれた夜間受付の男性職員が、「どうします、移動寝台を持って来ますか? 当直のドクターを呼びましょうか?」と聞かれたけども、もう何をどうやっても蘇生できないのは一目瞭然だったので、とにかく周りに気付かれないよう、速やかに診察室に移動しましょうと伝え、その後、当直のドクターに連絡を入れました。
たまたま、そのドクターには心得があって、すぐに警察に連絡するよう、男性職員に指示されました。
私はその時、”百戦錬磨のベテラン”というわけでもありませんでしたから、「え? どうして警察? 自殺と明らかなのに?」と思いましたけど、患者に外傷があり、患者が飛び降りた瞬間を誰も目撃してない以上、事件性を完全に否定することはできず、第一、「自殺」と断定するのは警察の仕事であって、医療者じゃない。我々、医師は、あくまで「死亡原因」を証明するに過ぎない、との説明を受けて、私も事の順序を理解し、警察の来訪に備えたわけです。
となると、当然、いろんな書類が要るなあ……どんな書類を揃えたらいいんだろう……と事務カウンターの方に向かいかけた時、
「何をしてるんだ! 早く、救急カートを持って来い!」
とドクターが一喝。
「え? もう完全に心肺停止してるのに?」
私が茫然としていると、
「警察が自殺と断定するまで、我々は心配蘇生をしなければならないんだよ! それが医療者の義務だ!」
と言われて、再度、目が覚めました。
そうして、診察室に救急カートを運び入れ、もう心肺停止して、死後硬直が始まっている患者の喉に気管支チューブをぐいぐいと挿入し、ドクターが全力で心臓マッサージを始めて、私も全力でアンビューバッグ(手動で酸素を送る為のポンプみたいなもの)をパンピングしていた時、数人の警察官が到着しました。
警察官らは、一切手出しせず、診察室の入り口で、じっと私たちの蘇生術を無言で監視していました。
30代半ばのドクターは、完全に心肺停止した患者に馬乗りになり、どうにも救いようのない心臓を蘇生すべく、汗だくでマッサージを続け(胸骨の上を押す)、その勢いたるや、金属製の移動寝台がギシギシと激しく軋んで、今にも壊れそうなほどでした。
もういくらなんでも警察も納得してくれるだろうと思っていたら、それだけでは終わりません。
今度は、点滴用のルートを確保すべく(静脈に注射用のカテーテルを留置する)、ゴム管で血管の上を縛り、膨らみも、浮き上がりもしない、血流さえ止まっている血管相手に、留置針の挿入。どす黒い屍血が流れるだけで、針なんか入るわけがありません。なぜなら、血管も完全に機能停止しているからです。ゴム管で縛って、血管がぷくりと膨らむのは、生きた血が通っている証です。
想像を絶するような処置を体験する中で、私はつくづく思いました。これが自殺だ。「自殺する」って、こういう事なんだな、と。
私も少女期に「ああ、死にたい」と思ったり、「自殺したら、どうなるのかな~」なんて興味本位に考えることもありましたけど、この時を境に、二度と自殺など考えるまい、と思いましたよ。
それぐらい、後が壮絶だからです。
そうして、ドクターも、私も、全身汗だくで、完全に心肺停止した患者さんを相手に、必死の心肺蘇生を試みること、五分余り。
ようやく警察官から「もう蘇生はよろしい」と指示があり、救命処置も終了。
「たかが五分」と思うかもしれませんが、狭い移動寝台の上で、全力で胸骨を押し続ける労力を想像して下さい。それも助かる可能性がある患者さんならともかく、完全に心肺停止して、何をどうやっても生き返る可能性など皆無の相手です。もうね、ドクターの方が血管切れて、移動寝台から転げ落ちるのではないかと心配するぐらい、それぐらい、やらなきゃいけないんです。警察を納得させるため、ただそれだけの為に。
あとからドクターに教えられたのは、こういう場合、医療者が心肺蘇生を行わなければ、罪に問われるのだそうです(病院の敷地内での話)。
「たとえ心肺停止が明らかでも、我々にはその義務があるし、事件性がある以上、警察もその死を見届けないといけない。死んだという事実より、死に至るプロセスに意味があるんだよ」
それからドクターが死亡診断書を書いて、遺族に連絡して、警察が患者さんの病室と、病院の裏口を中心に現場検証を行って、ほとんどすぐに「自殺」と断定されたのですが、その死後処置ほど恐ろしいものはありませんでした。
ほとんど外傷らしきものはなくて、顔もきれいでしたが、目だけが絶対に閉じなくて、何度押さえても開いてくるものだから、「どうか、恨みは忘れて、安らかにお眠り下さい」と何度心の中で唱えたか分かりません。
しかも後頭部に裂傷があったものだから、ポッタン、ポッタン、何とも形容しがたいものが滴り落ちてくるし。
それもドクターが縫合して、私がぱっくり裂けた頭皮を両端から押さえて……。その感触は、とうてい言葉に表せません。
そうこうするうち、奥さんと息子さんが病院に訪れ、葬儀屋さんに伴われて、遺体を引き取られましたけども、嘆き悲しむというよりは、せっかくの正月を台無しにされたという不満露わで、私もさすがに言葉を失いました。
ああ、こうした家族の態度が、患者さんを自死に追いやったのだな、と。
だとしても、命を捨ててまで、抗議する価値があったのか。
当てつけ自殺したところで、家族は「はあ?」って感じで、面倒が一つ増えたぐらいにしか思ってない。
そんな人たちの為に、命を捨てるなんて、あまりにも割に合わないのではないですか。
こんなあっけなく人生が終わってしまうなんて、この方が今まで生きてきた何十年は何だったのだろうと思わずにいられませんでした。
あと一日生きれば……いや、半日でもいい。
もう少し、決断を先延ばしにすれば、気持ちも違ったかもしれないのに。
発作的に窓から飛び降りて、本当に心は救われるのでしょうか?
もし、最後の瞬間に、「しまった!」と後悔したとしたら?
それは曲がりなりにも何十年、必死で生きてきた自分の命に対して、あまりに悲しい仕打ちなのではないでしょうか。
誰もが美しく死ねるわけではない
そこで荻野朔太郎の言葉を繰り返します。
自殺そのものは恐ろしくない。
自殺に就いて考えるのは死の刹那の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける取り返しのつかない悔恨である。
今、高層建築の上の窓から、自分は正に飛び降りようと用意している。
足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮かび、電光のように閃いた。
世界は明るく前途は希望に輝いている。断じて自分は死にたくない。
白いコンクリート。避けられない決定。
何物も、何物も決してこれより恐ろしい空想はない。
だからといって、自殺する人が愚かだと言いたいわけではありません。
人それぞれ事情があって、そうするのですから、本人にしか分からない苦悩があるのでしょう。
ただ、飛び降りる前に、ちょっと考えて欲しい。
人間、そんな美しく死ねるものではないと。
もし、若い女の子で、白雪姫みたいにガラスの棺に入れてもらって、ロマンチックにあの世に旅立つ……なんて思い描いているとしたら、甘い、甘い。
誰が死んでも、必ず死後の処置というものがあります。
自宅や医療機関で自然に息を引き取ったなら、白雪姫みたいな死に顔も可能でしょうけど、そうでない場合は、上記のような事もありますし、口から、鼻から、いろんなものを突っ込まれて、そっちの方が若い女の子には恥辱に感じるのではないかと思います。事件性を疑われたら、司法解剖にも回されるかもしれない。「死んだら、何も感じないから関係ない」と思っているかもしれませんが、剖検って、凄まじいですよ。お腹を切って、肋骨を剥がして、○○とか、○○とか、取り出して、秤でグラム数を図って、、、、
それが若くて美しいお嬢さんの末路ですよ?
本当にそんな死に方したいですか?
「死ぬほど思い詰めること」と「実際に自殺すること」は、まったく別の意味を持ちます。
前者は心の叫びですが、後者は社会的な意味を持ちます。
誰かが自殺して、どこかで死体が見つかったら、いろんな人が事後処置に追われます。汚物の処理や、現場の掃除や、家族もやらない汚れ仕事も引き受けなければなりません。
時には、無関係な人が、現場を目にしたショックからトラウマになることもあります。
「誰にも迷惑をかけない死」など、この社会では有り得ませんし、飛び降りたり、首を吊ったりすれば、身体も損壊し、その後始末も大変です。
どんな美少女も、白雪姫みたいに美しく死ねるわけではありません。
だから自殺者は迷惑、という意味ではなく、自殺というものが、何やらロマンティックで、生き地獄から解放してくれる、素敵な選択と思い描いているとしたら、それは大きな間違いだと言いたいのです。
自殺の現実は、ただただ凄まじい。
私の事例だけでも、大晦日の深夜に、十数名がが駆り出され、道路にこべりついた血を洗い流したり、近隣の住民や入院患者に悟られぬよう、息を潜めるようにして遺体を搬入出したり。パトカーも、病院の近くに駐車したら、患者さんを動揺させるかもしれないとの配慮で、わざわざ距離を置いて、それと分からぬように車を停め、そこから走って、現場に駆けつけて下さいました。
その時は状況検分から、すぐに「自殺」と断定されたので、病院中が騒動になることもありませんでしたが、少しでも事件性があれば(警察の納得いかないことがあれば)、同室はもちろん、病棟内の患者さんも叩き起こされ、事情聴取されたでしょう。
そんな風に、影響は限りなく広がるものです。
それくらい、この社会における人ひとりの死は重い、ということです。
「死にたい」は感情 ~当てつけ自殺は意味が無い
死にたい、死にたい、と思い悩むほどの気持ち。
それは「感情」であって、「決断」ではありません。
ところが、いつも「死にたい」と思っていると、いつしか「生きるか、死ぬか」の選択になってきます。
「死にたい」という言葉は、「死ぬほど辛い」の表れ。
今、あなたに必要なのは「死ぬ決断」ではなく、死ぬほど辛い原因を取り除くことではないでしょうか。
確かに、借金、暴力、離別、過労…… 癒やしや励ましだけではどうにも解決しない社会問題もこの世には数多く存在します。
そんな時、人が自死を考えるのは、当たり前の反応かもしれません。
だって、この世の何所にも逃げ場がないのですから。
しかし、自分の気持ちを取り違えては、解決の機会さえ失ってしまいます。
「私なんか、いなくなってしまえばいい」は、「誰にも愛されなくて、つらい」
「私が死んでも、どうせ誰も悲しまない」は、「人に愛される自信がない」
「これほど苦しいなら、死んだ方がマシ」は、「お願い、誰か助けて下さい」
そうと分かれば、違う道が見えてこないでしょうか。
また、世の中には、遺書に「○○にいじめられた」と書き綴って、報復を願う人もあります。
自分が死ねば、必殺仕置人みたいな正義の味方が、悪いいじめっ子を懲らしめてくれる……と期待しているのかもしれませんが、そんな事をしても、復讐にも、訓戒にもなりません。
「あはは、あいつ、自殺しやがった」
「だっせー」
「目障りなのが消えて、せいせいした」
「バカな奴」
笑いものにされて終わりですよ?
死ぬほど反省するほどのメンタリティがあるなら、最初からイジメなどしません。
相手を思いやる気持ちも、想像力も、常識も、大事なものを欠いているから、相手を死に追いやるほどのイジメが続けられるんですよ。
そんな人間を相手に、死をもって抗議したところで、何の影響もありません。
実際、遺族に提訴されても、知らぬ存ぜぬで、今まで通りに暮らしている加害者が大半ではないですか。
そういうメンタリティだから(親子ともども)、あなたが死ぬほど苦しんでも、ヘラヘラ笑って、傷ついた小鳥に熱湯をかけるような真似ができるのですよ。
そんな人間に裁きを下せるのは、まあ、閻魔大王ぐらいです。
そんな奴らの為に、本当に、十年後、二十年後に訪れるかもしれない幸福を、無駄にしたいと思いますか?
それでも自殺が最良の方法と思うなら、ビルの屋上から飛び降りる瞬間を想像してみて下さい。
もし「最後の一秒」で「しまった!」と後悔したら?
数十メートルの高さから飛び降りた以上、「やっぱり死ぬのは止めます。もう少し、頑張ってみます」とはいかないですよ?
荻原朔太郎が書いているように、それこそ人生最大の悔恨でしょうに。
すでに心身の疲れが限界を超えて、病的な状態になっているならともかく。
何かしら、「自殺」が素敵なもの――
映画や漫画みたいに、ドラマチックなもの――
死んでも、白雪姫みたいに眠るだけ――
遺書に綴れば、誰かが仇をとってくれる――
みたいに思い描いているとしたら、それは大きな間違いです。
死んだ後も、笑いものにされるだけ。
そんなことに命を捨てるなど、あまりに惜しいと思いませんか?
この世には「死にたい」という人の話を聞くのが役目の人もたくさんいます。
今すぐ強くなる必要はないので、あと一度だけ、誰かを信じて、助けを求めて下さい。
死ねば、苦しみも終わるかもしれないけれど、問題解決して、幸せになる機会も永遠に失われるので。