寺山修司のスポーツ系コラム「スポーツ版裏町人生」の文庫本に『勝者には何もやるな』という章がある。
私もまったく同感で、勝者は黙っていても称えられる存在なのだから、ことさら、持ち上げることもないと思うのだ。
褒美としての賞金やトロフィーは別として。
人生において、本当に必要なのは、『敗者の救済と復活』であって、勝者がいっそう強くなる為の支援ではない。
そう考えると、寺山修司の指摘はまったく正しいし、「敗者あっての勝者」という構図も見えてくる。
誰かが負けてくれるから、あなたも勝つことができるのだ――と。
当時、私の友人に鉄という板前がいた。
いかさまバクチの「カブ」と「キツネ」で一身上つぶし、包丁一本もって状況してきた男である。
親譲りの家を七百五十万で売って、バクチの借財にあて、夜逃げ同然に故郷を捨ててきた鉄の十八番は、村田英雄の唄を真似ることだった。
人に勝つより、自分に勝てと……
と鉄は唄った。
「見てろよ、青木はきっと、自分に勝つ」
私は、首をふった。
「ボクサーは自分に勝つ必要なんかない、敵にだけ勝てばいいんだ」
だが、鉄も負けてはいなかった。
「ボクシングは自分との戦いだ。消えていったボクサーは、自分に敗けたやつばかりだ」
私は、その鉄の言葉を笑いとばしてやった。
「敵と戦わなきゃならん大切なときに、自分とも戦うなんて、無茶なことだ。まるで、二人も相手にするようなもんじゃないか」
『生まれた時代が悪いのか』 寺山修司
敵と戦わなきゃならん大切なときに、自分とも戦うなんて、無茶なことだ。まるで、二人も相手にするようなもんじゃないか……寺山修司らしいと思った。
屁理屈といえばその通りだけども、ただでさえ苦しい時に、自分で自分を責めて、どうするのかと。
しかし、こういう考え方もできる。
『敵』というのは、突き詰めれば、自分の映し鏡だ。
敵がどれくらい強いのかは、実際に戦ってみなければ分からないし、幼子が影を怯えるように、何でもないものを鬼か悪魔みたいに思い描いているだけかもしれない。
自分の目に映る『敵』は、いわば、自分の恐怖や不安の投影であって、「怖い」と思えば怖いし、「大した事はない」と思えば恐怖心も消える。
そういう意味で、敵と戦うということは、自分自身の恐れや先入観を克服することであり、「自分との戦い」という言葉も、あながち嘘ではないのだと。
原田と青木との試合は、凄惨を極めるものだった。
青木は、左の一発にすべてを賭けて、クラチング気味に、後退していった。
≪中略≫
KO直前で、原田は手をゆるめ、青木が立ち直りかけると、また乱打する。このサディスティックな見せしめによって、青木は完敗させられたのである。
「必ず、もう一度やるさ」
と、試合後に青木は言った。
「この次は、絶対、KOしてやる」
そして、サンドバッグに原田の写真が貼られ、殴られることになった。
しかし、両者の再選は実現しなかった。新聞の社会面の片隅に、二、三度、青木の名前が出て、酒の上の「事件」が報道された。
そして、青木の名は「ボクシング年間」から消え、その消息をきかなくなってしまったのである。
生まれた時が悪いのか、
それとも俺が悪いのか、
「昭和ブルース」が、酒場に流れ、いくつかの冬が過ぎ、六〇年は遠くなってしまったようだ……
『生まれた時代が悪いのか』 寺山修司
『生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか』も、この社会に対する永遠の問いかけだ。
誰もが希望をもって生まれ育ち、大人の社会に出てゆく。
だが、その結果は、必ずしも思い通りとは限らず、無念と失望の中に息絶える人も数知れないだろう。
失敗や敗北の原因の全てを「お前のせい」と断罪されては、この世に生きる甲斐などないし、それこそ勝者だけが美酒を味わえる非情な世界になってしまう。
敗者にも敗者の生き甲斐や存在意義があってもいいはずで、それは決して、勝者の自尊心を満たす為の道具ではないのだ。
ちなみに、この歌詞は、
生まれた時代が悪いのか
それとも俺が悪いのか
何もしないで 生きてゆくなら
それはたやすい ことだけど
と続き、寺山修司は、『夜の新宿 ながれ花』というコラムで、こんな風に綴っている。
しあわせをたしかめるのも、ふしあわせをたしかめるのも、いまの世の中では、言葉に頼るしかないからである。
誰かに褒められて「勝ち」を実感し、誰かにけなされて「負け」を噛みしめる。
幸せも、不仕合わせも、相対的なもので、「心のもちよう」であるから、『言葉に頼るしかない』というのもまったくその通りで、もしかしたら、私たちは、他者という存在=言葉を通してしか、幸せも、不仕合わせも実感できないものなのかもしれない。
ところで、寺山修司は、結びの『ガラクタが光り輝くとき』というコラムで、1960年代という時代をこんな風に綴っている。
あの時代は、幻影にすぎなかったのか、と思うことがある。
六〇年安保の都市、東大生・樺美智子が死亡し、右翼テロが頻発、大荒れに荒れた社会か状況下で、ダービーは不世出の本命馬コダマが勝った。
六三年、ケネディ暗殺事件に荒れた年、大本命馬メイズイが勝ち、翌六四年、ベトナム戦争のはじまりの年に、ダービーは史上最強のシンザンが勝った。だが、コダマもメイズイもシンザンも、安定を求める大衆感情の反映であって、それぞれの時代のヒーローではなかった。
人々は、アスカやグレートヨルカ、ハクズイコウなどに、逆転の夢を託し、そして裏切られつづけながらも、彼等に六〇年代のヒーローの期待をよせていたのだ。ファイティング原田も、海老原博幸も強かった。
しかし、私たちは聾唖のボクサーの竹森正一や岡田淳一の方に肩入れしていた。生き残った「あしたのジョー」よりも、死んでいった力石徹の方が、私たちには似合っていた。そして、大鵬や柏戸ではなく、東北の北端で生まれた、体の小さな横綱栃ノ海を応援したのである。
大いなる彼の体が憎かりき
その前にゆきて
物を言ふ時という石川啄木の歌そのもののような、小柄な栃ノ海の闘志を見ながら、同時に「大いなる彼の身体」に、抗いようのない歴史の流れといったものをイメージしていた。
どうしてもフジノオーにだけは勝つことができなかった名障害馬タカライジン、地の果てのブラジルで、馬のハマテッソだけを残して忽然と蒸発した中神騎手、ギャンブルに身を滅ぼした中日のエース、「八百長事件」の小川健太郎。
彼等こそが、六〇年代のヒーローだった、と思いたい。
六〇年代とは、そうした時代だったのだから。
私のアパートの壁には、今もジプシー・ローズのピンナップが一枚貼ってある。
この六〇年代の肉体のヒロインは、とりたてて美しくもなければ、セクシーでもない。だが、その反抗的な眼差しだけは、今でも、私を挑発しつづける。
かつて私は、「家出のすすめ」と書き、「みんなを怒らせろ!」と書いた。
だが、今、私はそれを思い出として語っている。
ピンナップのなかのジプシー・ローズは変わらないが、私はすっかり変わってしまったのだ。
「男はいつもガラクタを引き摺って歩いている。だが、そのガラクタを捨てることはできない。眠っている間も、旅している間も、男は真実の行く先を知っている。行く先以外は、みんなまわり道なのだ」(ウィリアム・サローヤン)
思えば、何という徒労……。
六〇年代は、ガラクタばかり。
そして、六〇年とは、ガラクタのもっとも光り輝いていた時代でもあったのだ。
私にとって、六〇年代は、お兄さん・お姉さん世代。
今の若い人たちから見れば、私にとっての戦前か大正時代みたいな感覚だろう。
うっすら覚えていることといえば、、、、日米安保条約に反対する学生と機動隊の衝突が、その後のTVドキュメンタリーでも繰り返し放送されたこと。
今にして思えば、大学生が徒党を組んで東大の安田講堂を占拠するとか、機動隊と真っ向から戦うとか、考えられないような話。
私の時代には、大学生といえば、ナンパとブランド物の時代であったから。
六〇年代は、未来を信じる若者たちが、大いなる理想の為に、戦って、戦って、だが強大な権力には勝てなくて、結局、資本主義の軍門に降った時代。
敗者といえば敗者だし、その後、地位や名声を勝ち得ても、敗北感は拭いきれないのではないか。
だとしても、彼等の敗北は、どちらかといえば、時代の潮流に押し潰された感じで、現代の敗北とはまったく訳が違う。
現代の敗北は、イデオロギーではなく、飢えと死に直結するものだから。
そういう意味で、「ガラクタでも光り輝けた」というのは、社会にそれだけの余力と寛容さがあった裏返しかもしれない。なにせ、高度成長期の真っ只中だし。
ひるがえって、現代は、個が全てを負う時代である。
個が自由を求めて、個々の権利を主張すれば、その反動で、全ての敗因を背負わされるのは自明だろう。
どちらの時代がいいか、などと比較しても仕方ない。
どんな時代であれ、私たちは生きてゆかねばならないからだ。