明日のことを思い煩うな(マタイオスの福音)
イエス・キリストの言葉に『明日を思い煩うな』という有名な章がある。
だから、言っておくが、何を食べようか何を飲もうかと命のことで、
何を着ようかと体のことで思い悩んではならない。命は食べ物よりたいせつであり、
体は衣服よりもたいせつではないか。空の鳥を見なさい。
種をまくことも、刈り入れることも、倉に納めることもない。
だが、あなたたちの天の父(神を指す)は鳥を養ってくださる。
あなたたちは、鳥よりもはるかに価値のあるものではないか。あなたたちのうちだけ、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができるだろうか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野生の花がどうして育つのか、考えてみなさい。
働くことも、紡ぐこともない。しかし、言っておくが、栄華を極めたシェロモ王でさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださるのだから。
まして、あなたたちにはなおさらのことではないか。信仰の薄いものたち。
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』などと言って、
思い悩んではならない。
それはみな、異邦人がせつに求めているものだ。
あなたたちの天の父(神を指す)は、これらのものがみな必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と御心にかなう生活を求めなさい。
そうすれば、これらのものもすべて加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩む必要はない。
明日のことは明日悩めばよいのだ。その日の苦労は、その日だけでじゅうぶんである。
私も東欧に来てから、よく森や野原を散策するようになったが、人間が一切手を加えていない自然な土地にも、キノコ、ラズベリー、リンゴ、ブルーベリーといった果物がなり、食用にもなる猪や鹿や野ウサギが走り回っているのを見ると、上記の言葉を思い起こさずにいられない。
自然というのは、本当に有り難いもので、お互いが捧げ、捧げられながら、うまく共存できるようになっている。
今日食べるものがない人も、森を歩けば、ベリー類やキノコを口にすることができるし、市内の家庭菜園でも、一戸建ての庭先でも、わりと簡単にレタスやトマトや洋梨など栽培することができる。クルミの木はそこらじゅうになっていて、秋になると、熟した実が頭の上から降ってくるし、街路樹がリンゴの木で、実をもぎながら食べ歩いている子供の姿を目にすることもある。
もちろん、国民全てを養うとなれば、大規模な農園や肥料や種苗が必要で、自然のままとはいかないが、それでも人間が手を加えなくても、自然に実り、猪や鹿や野ウサギが森を駆け回るのは、大いなる恵みに感じる。
この大地は、我々、人類社会より、もっと息長く続いているということを。
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イエス・キリストの時代は、もっと貧しかった。
社会保障などという概念すらなかった。
しかし、豊かな自然があった。
その生命力を信じなさい。
明日食べるものや着るものについて、くよくよ悩んだりせず、大いなる流れに身を任せなさい。
あなた方は尊い存在であり、神の教えに従って生きれば、過度な欲望によって破滅することもない。
それよりも、今、手の中にあるものに感謝し、今日一日を心豊かに生きよう、と呼びかけている。
そして、そのように生きるものは、精神的に不足することなく、いつも満たされているものである。
神と富(マンモン)の教え
ちなみに、マタイオスによる福音では、『思い悩んではならない』の前に、『神と富』という章がある。
だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたたたちは、神と富とに仕えることはできない。
この節の後に、「だから、言っておくが」と続く。
注釈によると、『富』の言語はアラマイ語の『マンモン』。擬人化された「富」のことをいう。
食べるものや着るものの心配は、『富』に属するものだ。
もっと美味しいものが食べたい。
もっと綺麗な服を着たい。
終わりのない欲望が得られない悩みを作り出す。
もちろん、肉体的な空腹は誰にとっても辛いし、あまりにみずぼらしい格好では自尊心も傷つく。
現実的な話、祈ったところで、一つの餅が二つに増えるわけではないので、これらの教えはどこか空疎に響くかもしれないが、ここで語られているのは、心の飢えに通じるものであり、肉体的な飢餓と同じに考えない方がいい。
たとえば、身の丈以上のものは持たない人から見れば、「シャネルのバッグが欲しい。ルイ・ヴィトンが欲しい」「彼女は持っているのに、私は買えない。悔しい」と悩む人が不思議に見えるだろう。
あれもこれも食べたがる人については、何をそんなに欲しがる必要があるのか、どうせ胃袋は一つなのに、と首をかしげるはずだ。
彼らは、神ではなく、富(マンモン)に仕えているので、「この程度」で満足することがない。
何を得ても、常に飢え、不幸せに感じる。
そういう心の闇を戒めているのであり、物質的な貧しさとは少しニュアンスが違う。
欲しい、足りない、という不満や不安は、際限なく心を悩ませ、人間を弱らせるものだ。
そう考えれば、イエスが言うところの『生』と『死』の意味が理解できるのではないだろうか。
日本にも「取り越し苦労」という言葉があるが、本当にその通りで、今日の楽しみを後回しにしている人の、何と多いことか。
旅行も、趣味も、今しかできないのに、老後の暮らしばかり心配して、何もしない人もいる。
明日のことまで(過度に)思い悩むほど、人を不幸にするものはない。
初稿 2009年4月12日